スウ・ドン剣法免許皆伝49スイゲツゼンをマチにして
仲秋の名月やスーパームーン、月の美しさを愛でる思いは、日本人に限らず世界共通なのだろう。かぐや姫、月光の曲、月よりの使者、月光仮面、ムーンサルトなどなどと数多い。月は水に映ろうとも思わないが、映っている。水は月を映そうとも思わないが、自然とそこに映っている。そんなことを考えながら、剣道の教えに繋げていった先人の知恵には頭が下がる。柳生新陰流の教えにこんな言葉がある。「スイゲツゼンヲマチニシテ、ウチニハイラバセンセンノクライヨシ」言葉の響きが好きで、そしてなんとなく理解して実践してみて、自分の剣道がだいぶ変わったな良くなったなという思いのある言葉だ。前回のムサシの剣の所で書いた「入り身」に共通するものでもあると思う。水月前とは、一足一刀の間合いに乗る以前の意味、先の位を取り、敵に懸かってゆくが、常に敵の働きを待つ
「待ちの心」がしっかりと用意されていること、気持ちはあくまで「先」、技は「待ち」、我が先の純粋持続と、主体性の常の維持を図り、「敵の移り来るを待つ心」でなく。敵を「移れと移す心」である、と説いている。そして、一旦間合いに入ったら、敵の様子を明らかに見て、休む息を逃さず、迷ったりためらったりの停滞の瞬間を、先々の先の位で二重三重に切り込み打ち勝つ、と教えている。「待ち」とはどういうことか。相手の動き出すのを待つのだけれど、そこには自分の「パワー溜め」がある。剣道でよく使う「タメ」とは、パワー溜めのことである。ヨーイ、ドンで言えば、ヨーイである。「移れと移す心」とはどういうことか。相手に対して、懸かってこいよ、打ってこいよ、こちらへ移ってこいよと思いながら、こちらの体を前へ移す前へ進める心という意味である。立ち止まって待っているのでなく、微妙な体の動きがあるということだ。陸上競技のヨーイは静止しなければフライングだが、剣道のヨーイは、フライング的な、フライングになるかならないか微妙な動きが相手を動かすのである。先とか先々の位とか、なかなか説明の難しい部類なので、なんとなくいいんだ位の理解で行こう。大事なのは、スイゲツゼンをマチニシテハイルなのだ。ところが、水月前から攻めにしている人もいる。我が先の持続と主体性の発揮ばかりが先立って、気持ちも先、技も先、ヨーイドンのドンをドンドン「我れ先き剣先き攻防剣」が多い気がする。剣は相手を動かした方が勝つ確率は高い。不思議だが、先に動いたから早いのでないのが剣なのだが、残念なるかな竹刀の剣道では、早く動いた方が勝ちのスピード剣になってるか。仕方ない流れかも知れない。竹刀は軽いし、刀に比べれば怖くないし、打たれても次あるし。さて、水月前が一足一刀の間合いに入る前という事は、水月は一足一刀の間合いという事である。なぜそう表現するのかは分かるような分からぬような感覚だ。一方、自分の胸の下部分、胸と腹の境目の窪んだ所、いわゆるみぞおちの事を水月とも言います。自分の水月の前にある両手を攻めにして、むやみに動かすのでなく我慢して待ちにせよと考えた方が理解し易いかも知れません。自分の胸の前を攻め攻めにするのは、刃物持った、本当は怖がっているコンビニ強盗と変わらないかも。深い深い理法を秘めたこの言葉が僕は無性に好きだ。スイゲツゼンヲマチニシテ、待てば海路の日和あり、晴れ晴れとした気持ちのいい一本が見られる時がある。しかしなあ、面マスクはきつそうだ。面着けての稽古はしばらく我慢するかな。技のイメージそれぞれの打ち稽古を人形相手にするか。我慢できるかなあ。大手振って堂々と剣道出来る日が来るだろうか?