スウ・ドン剣法免許皆伝52の続き
スマホは感度が良すぎて、話の途中なのに、どこかに指がすっと触れただけで投稿されてしまった。やり直す方法なんて知らないし、ないのかも知れない。続きから書くしかない。
基本の面打ちの練習の際、相手に面を打たせる側になった時の事を考えてみると、打たせて打たせない事は思いの外簡単に出来るものだ。そこで、基本の練習の時、ただ漠然と打たれるのでなく、打たせてやる、打たせてみる感覚を持って、相手は「打つ練」自分は「打たせてみる練」の感覚でやる事だ。打たせると打たせてみるはどこか少し違う。打たせて、相手の打ち方、打つスピード、打つクセを見取る練習をすると言うことだ。古流の言葉を借りてもう少し詳しく言えば、嶺と谷を見る練習をすると言うことだ。嶺とは、「相手が斬りかかる自分の部分」谷とは、「相手の右拳の内側当たり」の事を言う。竹刀を持った人の心は右拳に表れる。打とうと思えば右拳は必ず動く。だから練習の際に、相手の右拳あるいは鍔の当たりに意識を注いで、どんなタイミングで動き出すかを見る。直視するのでなく意識を注ぐであることを間違わない事も大事。谷を見通すことが出来ていると、地稽古の時に相手の動き出す右拳に自分の剣先が突き当たり、相手は面打ちをストップさせられる場面が出てくることもある。こちらは特に何かしようと思わなくても相手が勝手に。
次に、相手の竹刀が進んできて面部に当たる瞬間を見るというか感じる意識を持って打たせる。それらを行うのが「打たせてみる練」「打たれてみる練」「嶺谷見る練」という。嶺を見切る事が出来ると、打たせて、打たれる瞬間を外す、相手竹刀の躱しが出来るのだ。昔流に言うと太刀筋を見る、太刀筋の見切りと言う。最後の最後紙一重の躱しが出来たら自分の技へ繋がった時、人は神技と言う。「打たせない、打たれまい「と思っていると、手に力が入りやすいが、「打たせる」意識の時は、変に手足に力を入れていない。力を抜いて、打ってごらんどうぞ打ってと思っていると、相手の気持ち相手の起こりは良く見えるもんだ。何の怖さも無ければ、うまく打とうの欲も無く、さあどうぞと身を乗り出して前へ進める。後ろへのけぞったり腰が退けたりする事もない。だから最後の嶺のところを躱すことが出来るのだ。実は以外と簡単な事なのだ。野球のキヤッチボールを想像すると良く分かる。お互いにボールのキャッチは大体出来る、受け取れないほどの豪速球はほとんどない。見ていれば手元に届くところのボールはキャッチ出来る。そしてそのボールをキャッチしないで素通りさせることも、やろうと思えば簡単に出来る。竹刀の躱しも同じだ。キャッチする事を意識して、最後にキャッチしない事は簡単、違うよと言う人はいないだろう。最後のところというのもポイントだ。飛んで来る途中のボールを躱そうとしても意味はない。カーブして来るかも知れないし。竹刀でも同じに考えることが出来るのではないか。これらの意識を身に付けて、先人達の言葉と共に地稽古に向かおう。「相手の打ちを協力誘導し、誘い先に斬り込ませ、動きの裏を取って勝つ。相手打たずば打つ事なし。敵の働きを我が手に握り持ってる心持ち、相手の技を出させ、尽きた所を打つ。自分ばかり旨い事しようと思わず、相手に何かさせてみる、出端な退き端作ってあげる、打つなら打てと打って来させる。打つ打たれるを離れ、相手に任せ、相手の気分・攻め・技の起こりをじっと見て、相手の出方に応じてみる」
「打たせる剣打ってみろよ」「打たせて打たせない剣」打たせる意識を持って稽古していると、いつの間にか簡単には「打たれん」剣になっているんだよね不思議だけど。「俺が先に打つ剣」「打とう打とうの剣」は、いつの間にか「打たれる剣」になっているんだよね、不思議でなく実感として。
上手く打てるように、勝てるように、いろんな「打つ練」して来たが、今、方向性がどんどん変化してきている。考えてみれば、日本剣道形は全て「打たせる剣」だと言っていい。打太刀に打たせて、後を仕太刀が仕留めるやり方、深いい話ではある。結局、これらの事が、一勇二眼、一眼二足の眼力を鍛える事の一端ではあるのだろう。頑張れるかなあ