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①株式会社60の誕生~前編~

2018年10月12日、株式会社60は産声を上げました。冒頭の写真の2人、廣瀬大輔と冨士武徳によって。それぞれ自分の会社も経営しながら、ついに、ようやく、まさかの共同出資で会社を作ることになったのであります。今日は株式会社60の誕生に至るまでの話をしようと思います。

※僕は冨士武徳のことを普段は冨士くんと呼んでいるので、ここでは「冨士くん」と書かせてもらいます。

僕たちの出会いは12年前、新町のバル

大阪市西区新町に出来た「やきもんバール新町メリハリ」。そのお店で僕たちが出会ったのは約12年前くらい。

当時、まだ起業をしていなかった僕はサラリーマンになりたてホヤホヤ。高校の同級生だった三阪(みさか)がそのお店の立ち上げから関わり、二番手くらいの勢いでお店に立つと聞き、僕は週5くらいのペースで通うことになったのです。

そのお店の前でキャッチをしていた三阪が、近所に引っ越ししてきた冨士くんを見事に捕まえて常連さんに。そしてあれよあれよと言う間に、メリハリで一緒にワイワイと飲む仲間となりました。

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(保存しているデータの中で一番昔の二人の写真。おそらく2010年の年末くらい。お互いの細さに驚きを隠せません。笑)

サラリーマン生活をしていた僕は、その頃から友人の結婚式二次会の幹事を頼まれるようになり、前述の三阪とともにFOR Uを本格的に起業しようと意思を固めるのです。

(廣瀬が経営している株式会社BHFのメイン事業、FOR UのWEBサイト)

事態が動いたのは2010年の春頃。冨士くんからオフィスシェアリングしている会社が1社抜けたから「ウチの事務所の空きを借りたらええやん」と。半ば強引にオフィスを借りることを決意し、僕は無事起業をすることに。

そこから僕と冨士くんは同じ場所で、パーテーション1枚で隔てられた空間で日々を過ごすことになりました。

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(ノンバーバル1周年の時にサプライズケーキでお祝いした1枚。若い!)

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ノンバーバルはブランディングデザインの会社として、10周年を迎え大活躍中。10周年パーティーではボクも司会を担当させてもらいました。

友人と一緒に仕事をする大変さは既に痛感していた

僕は前述の三阪とともに創業し、僕が代表取締役、そして三阪が取締役として2人で会社を経営し、彼が退任する2018年3月まで共に会社を経営してきた。三阪と意見が食い違った時などはよく冨士くんに相談をしていました。

三阪と起業をする際に、周りの色々な大人から言われたアドバイスで代表的なものはこれ。

「友達と会社をやってもうまくいかへんから!やめとき!」

もうこれが圧倒的多数を占めるアドバイスだった。結果はそうなってしまったが、友達と事業をやる良さもあれば悪さもあるなというのが正直な実感。

実際に冨士くんともこれまでは仕事らしい仕事を一緒にしたことはなく、僕から彼への発注は会社のロゴくらい。逆に彼から僕への発注は結婚式二次会の幹事代行と動画制作。逆にそれくらいの関係が丁度良かったのかもしれません。

これ以上、友達と一緒に仕事をするのはやめておこう。するとしても外注や協業のパートナーとしての関係に留めておこう。そんなことを心に抱いて過ごしていた2017年4月29日の夜に、事件は起こったのです。

某イベントに二人で行った後のバーで語り合った夜

3年前の4月29日。僕がFacebookでふと見つけた大阪の起業家が集まるイベントみたいなのがあって、そこに冨士くんを誘って一緒に行くことになり。特に上場に興味があったわけでもないが、何かビジネスのヒントになればという軽い気持ちで二人でイベントへ向かいました。

特に何もなく終わり、その後の懇親会にも参加したけれど、なんだか異業種交流会のような気持ち悪さもあり、早々に会場を出て二人で軽く飲み直すことに。

バーカウンターに二人で座って、ゆっくり飲んだのはいつぶりだろうというくらい久しぶりの時間。お互いの会社のこと、家族のこと。語り合うというのはこういう時のことを言うのだという感じでお酒は進んでいきまして。そして話は、急に年末に亡くなったおばあちゃんの話になったのです。

おばあちゃんのお葬式で感じたこと

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2016年12月。僕の大好きなおばあちゃんがこの世を去りました。死ぬ瞬間は立ち会えなかったけど、病院の中でまだ温かいおばあちゃんの手を握り、今までの感謝の気持ちを伝えることができました。もちろんおばあちゃんからの返事はないけれど。

近江八幡の葬儀場で行われたお葬式に、僕は長男(当時4歳)と一緒に行ったんです。大阪から約1時間半のドライブ。長男はまだ「死」というものがなんだかわかっていない様子で、僕と遠出することが嬉しかったようで、到着するまで助手席でずっとニコニコしていた。僕が泣いた時はかなりビックリしていた。笑

葬儀場に到着し、中へ入るとすでにおじいちゃんや従姉妹の皆、さらには見たこともない親戚の皆様が集合していて30名弱ほどはいただろうか。

おばあちゃんのお葬式以外にも、今まで何回もお葬式やお通夜は出席してきた。不慮の事故で亡くなった若い人と、病気で亡くなったご高齢の人では、お葬式の雰囲気は違う気がする。その理由は故人の「死」を受け入れる覚悟が出来ているかどうかだと思う。

おばあちゃんの場合は確実に後者で、お葬式場も同窓会さながらの空気感もあって、終始和やかな雰囲気さえ醸し出していました。

おばあちゃんの為に、これだけの人が集まってくれる。それって本当に素晴らしいことだと思う。しかし同時に僕の頭の中には一つの疑問が生じました。

「このお葬式の景色は、おばあちゃんって見れてるんだろうか?」

この疑問に対する回答は、自分が生きてる間は永遠にわからない。ひょっとしたら見えているのかもしれないのだから。でも一つだけ確実なことがある。

おばあちゃんとの思い出話に花を咲かすことはできるけど
誰もおばあちゃんに直接語りかけることは出来ないし
おばあちゃんの想いを聞くことができないという事実。

急場凌ぎで画像加工された、最高の笑顔ではない遺影。何を読んでいるのかわからない読経。僕には違和感がたっぷりのお葬式でした。それは大好きなおばあちゃんだったからこそ感じたことかもしれません。

火葬場のリアルさを長男に見せるのはまだ早いかと思い、僕たちは火葬場へは行かず、駅前の平和堂でおじいちゃんにもらったお小遣いで仮面ライダードライブのガシャットを購入して大阪へと戻ったのでした。

お葬式で抱いた違和感をカタチに

上記の内容を、冨士くんにバーカウンターで話をしたんです。

・お葬式で皆が集まっても、故人がその光景を見れているのかわからない
・遺影の写真が最高の笑顔じゃなくて変な加工をされていて嫌だった
・生きている間にお葬式を開催すれば相互に想いを伝え合えるのに

こんなことをハイボール片手に熱弁し、さらにはこんなことまで言い出す始末。

「生きてる元気なうちに、お葬式をすれば最高じゃない?」と。

この一言をきっかけに僕と冨士くんは、ノートとペンをカウンターに取りだし、現状の整理、問題点の抽出、するべきことなどをザザッと書き殴りました。僕のこの発想を、冨士くんのブランディングデザインで構築して事業にすれば面白いことになるんちゃうんかと2人は意気投合。そして僕たちは友達から事業パートナーとして、ふたりでやることを決意したのでした。

どこにポイントを定めるべきか

リサーチを始めると、「生前葬」というものはすぐにヒットした。しかし数が圧倒的に少ないことと、著名人の記事しか上がってこなかったのです。

Wikipediaでは、まぁこんな感じ。おそらく皆、自分が主役になることに恥じらいがあるのだと思う。特にウチの親父より少し上の団塊世代もそうかもしれないが、自分が主役や前に出ることに対して一定の抵抗感があるように感じることが多い。まぁこれはこの世代というよりは日本人特有の気質かもしれないが。

さらにいえば、自分の死を生きている間に考えること自体が、まだまだ浸透していないようにも思う。終活は少しずつブームになってるが。こんなことを考えていた時に、ウチの両親と嫁の両親にエンディングノートを4冊購入してそれぞれにプレゼントした。おそらくまだ誰も書いていないと思う。

そうなのだ。自分が死ぬことに対して意識出来ていても行動にはなかなか移せない。

ここが問題だなと思うのと同時に、どのポイントに焦点を定めれば集まる場を開催することを当たり前にしていけるかと考えた時に、“還暦”がターゲットとして浮上し、僕たちは株式会社60を立ち上げ、その1年後に「みんなの還暦式」というサービスを開始していくことになりました。


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