その道の名は総督の名
(カバー写真:Pottinger Street 砵典乍街 1890年代, Wikipedia)
私が香港に住み始めた時、「これはちょっと面倒かも」と思ったのが道の名前を覚えることでした。
私が住んでいたのは「Clowd View Road 雲景道」だったのですが、広東語の名前と英語の名前が違うんですよね。自宅のある道路名ぐらいはすぐに覚えましたが、ネーミングにはいくつものパターンがあるので、すべてを簡単に覚えることは出来ませんでした。
一番簡単なのは広東語と英語が一致しているパターンで、「Tai Hang Road 大坑道」は日本人学校へのバス通学路だったので、これもすぐに覚えました。もっとも最初に耳にしたときは「タイ半島」と聞き違えましたが(そんな半島は無い)。
一番面倒だったのは「Tung Lo Wan Road 銅鑼灣道」「Causeway Road 高士威道」で、この二本の道路は接しているんですから困ったものです。
子供心に「これ英語の名前じゃないだろ」と気が付いたのは「Des Voeux Road 德輔道」です。この名前は第10代の香港総督にちなんでいるのですが、一見してフランス系の名前とわかります。昔のイギリスと言うとどうしても閉鎖的な階級社会というイメージがありますが、ルーツがフランス系でもSirの称号をもらえたんですね。
さて、当時の私の楽しみの一つに旅行ガイド本を読むというのがあったのですが、数あるガイド本の中には香港の歴史を簡単に記してある本もありました。
当時の私が特に興味を持ったのは、Sir Henry POTTINGERについての記述でした。初代の香港総督であり、南京条約締結の立役者の一人です。総督就任前には長江から大軍を率いて清を攻め、上海などを陥落させています。その後南京条約締結により香港割譲が正式に決定し、彼の名前は「Pottinger Street 砵典乍街」として残りました。
実はPOTTINGERの前には、総督に準ずる役職である香港行政官(割譲前ですから総督ではない)の前任者としてSir Charles ELLIOTがいたのですが、その対中姿勢は厳しいものではなく、半年あまりでイギリスからクビを言い渡されています。
POTTINGERは二代目の香港行政官から総督に昇格したわけですが、もしELLIOTが武闘派(笑)であったなら、初代香港総督は彼だったかも知れません。そしてELLIOT の名前が香港に残ることはありませんでした。
総督の名前のついた道路や地名、施設名はたくさんあります。「Nathan Road 彌敦道」を知らない人はいないと思いますが、これもSir Matthew NATHANにちなんでいます。
九龍がまだ荒涼としていてロクな宅地も産業もなかった時代、尖沙咀から北上するとんでもなく長くて広い一直線の道路を作ったのですが、当時の評判は散々だったようです。しかしその後の九龍の発展を見れば、相当な慧眼であったと言えるでしょう。
総督の名のついた道路名は初代から10代まで途切れることなく命名されており、一旦途切れるものの13代から20代まで続き、再度途切れますがその後24代、25代と27代の名前が残されています。
以下に道路名をまとめてみました。数字は総督の世代(第x代)、写真は断りのない限りすべてWikipediaからです。私が香港在住なら自分で写真を撮りに行けるのに残念!
1. Sir Henry POTTINGER 砵甸乍
→ Pottinger Street 砵典乍街(または砵甸乍街) 中環にあります。
2. Sir John Francis DAVIS 戴維斯
→ Davis Street 爹核士街 堅尼地城にあります。
→ Mount Davis Road 摩星嶺道 摩星嶺にあります。
→ Mount Davis Path 摩星嶺徑 摩星嶺にあります。
https://static.wikia.nocookie.net/hongkongbus/images/1/11/MountDavisPath_20201010_%282%29.JPG/revision/latest?cb=20201010140306&path-prefix=zh
(出典:香港巴士大典)
3. Sir Samuel George BONHAM 文咸
→ Bonham Road 般咸道 西半山にあります。
→ Bonham Strand 文咸街東 上環にあります。
→ Bonham Strand West 文咸街西 上環にあります。
4. Sir John BOWRING 寶寧
→ Bowring Street 寶靈街 佐敦にあります。
→ Bowrington Road 寶靈頓道 灣仔にあります。
5. Sir Hercules ROBINSON 羅便臣
→ Robinson Road 羅便臣道 半山區にあります。
→ Rosmead Road 樂善美道 歌賦山にあります。
※ROBINSONは後にLord Rosmead 樂善美に改名したため、名前が二つ残されています。
6. Sir Richard Graves McDONNELL 麥當奴
→ MacDonnell Road 麥當勞道 半山區にあります。
7. Sir Arthur Edward KENNEDY 堅尼地
→ Kennedy Road 堅尼地道 半山區から灣仔にかけてあります。
→ Kennedy Street 堅彌地街 灣仔にあります。
→ Praya, Kennedy Town 堅彌地城海旁 堅尼地城にあります。
→ New Praya, Kennedy Town 堅彌地城新海旁 堅尼地城にあります。
→ Kennedy Terrace 堅尼地台 半山區にあります。
(写真なし)
8. Sir John Pope HENNESSY 軒尼詩
→ Hennessy Road 軒尼詩道 灣仔から銅鑼灣にかけてあります。
9. Sir George Ferguson BOWEN 寶雲
→ Bowen Road 寶雲道 半山區から灣仔にかけてあります。
→ Bowen Drive 寶雲徑 灣仔にあります。
10. Sir George William DES VOEUX 德輔
→ Des Voeux Road Central 德輔道中 中環にあります。
→ Des Voeux Road West 德輔道西 西環にあります。
13. Sir Matthew NATHAN 彌敦
→ Nathan Road 彌敦道 尖沙咀から太子にかけてあります。
14. Sir Frederick LUGARD 盧吉
→ Lugard Road 盧吉道 太平山にあります。
15. Sir Francis Henry MAY 梅含理
→ May Road 梅道 半山區にあります。
16. Sir Reginald Edward STUBBS 司徒拔
→ Stubbs Road 司徒拔道 灣仔峽にあります。
17. Sir Cecil CLEMENTI 金文泰
→ Clementi Road 金文泰道 畢拿山にあります。
http://www.weshare.hk/uploads/12665/.8VRALBjCFqtQ7_rTMNzBA.jpg
(出典:WeShare)
→ Sir Cecil's Ride 金督馳馬徑 北角から渣甸山にかけてあります。
18. Sir William PEEL 貝璐
→ Peel Rise 貝璐道 香港仔から奇力山にかけてあります。
19. Sir Andrew CALDECOTT 郝德傑
→ Caldecott Road 郝德傑道 琵琶山にあります。
https://static.wikia.nocookie.net/hongkongbus/images/0/06/Caldecott_Road_N_20170307.jpg/revision/latest?cb=20170308124136&path-prefix=zh
(出典:香港巴士大典)
20. Sir Geoffry Alexander Stafford NORTHCOTE 羅富國
→ Northcote Close 羅富國徑 薄扶林にあります。
24. David Clive Crosbie TRENCH 戴麟趾
→ Ching Cheung Road 呈祥道 深水埗から葵涌にかけてあります。
※TRENCHの中文名である「戴麟趾」は、縁起のよい四文字熟語の「麟趾呈祥」の前半分に由来している。「呈祥」はその後半分。
25. Sir Murray McLEHOSE 麥理浩
→ MacLehose Trail 麥理浩徑 西貢から屯門にかけてあります。
27. Sir David WILSON 衛奕信
→ Wilson Trail 衛奕信徑 赤柱から新界の南涌にかけてあります。なんと海を隔てています。
以上が香港総督の名前の付いた道路です。
中には人名に使っている漢字と道路名に使っている漢字が不一致だったり、複数あったりしていかにも香港らしいですね。もっとも日本だって「コンピュータ」と「コンピューター」みたいにカタカナ表記が複数あることは珍しくないので、似たようなモノか?
なお、17代目のClementi Road 金文泰道は、現在はMount Butler Road 畢拉山道から虫垂のように伸びているとても短い道路ですが、かつては大坑道 Tai Hang Roadへ抜けられる道路でした。ただかなり狭い道路で、1979年ころにはCrown land(王室の土地。つまり政府の管理地)として通行禁止になっていたことがあります。
後年宅地開発に伴い、大坑道側を廃道にしてその道路の一部がMoorsom Road 睦誠道を北へ延伸するために転用され、袋小路になっていたChun Fai Road 春暉道の南端とくっつけたんですね。
(出典:Hong Kong Streets & Places 香港街道與地區,第四版/1982)
総督にとって、植民地に自分の名前が残ることはステイタスだったであろうことは想像に難くないです。それに道路名以外にも地域や施設などに名前が残っているものもたくさんありますし。
ただ、住民から慕われた総督なら自然と名前も残されたのでしょうが、歴代の総督の中には評判が悪く、名前を残すのに時間がかかった人もいます。
評判が悪かったのかどうかは定かではありませんが、第11代のSir William ROBINSON 羅便臣(5代目のROBINSONとは別人)は道路名、地名、施設名のいずれにも残りませんでした。5代目のROBINSONと名前がかぶったのが影響したのでしょうか?
第12代のHenry Arthur BLAKE 卜力の名前は道路には残りませんでしたが、Blake Garden 卜公花園とThe Blake Pier 卜公碼頭にその名を残しています。
第21代のSir Mark Aitchison YOUNG 楊慕琦も名前が残らなかったのですが、彼の任期はちょうど戦争をはさんでおり、一時は日本軍の捕虜にもなっています。恐らくはその頃から、統治者や功労者がその土地に自分の名前を残そうとするのは時代に合わなくなりつつあったんでしょうね。
戦後の総督は概ね良い評価ですが、名前が残っているのは3人だけです。
更には正式ではない臨時の総督や副総督、行政長官などの名前の付いた道路名がいくつもあります。長くなり過ぎますので、こちらは続編として次回に書くことにします。