糸通しと私
細い部分が折れてしまってただの謎のオッサンのレリーフと化した糸通しを裁縫箱の底から発見し、このオッサンは誰なのか調べるなどした。
別に偉人とか創業者とかそういう訳では無く、本当に誰でも無い謎のオッサンだった。全くズバ抜けたセンスである。
糸通しは、あのオッサンが居る事によって海外の硬貨のようなオシャレ感が出ているのが善い。
もし糸通しにあのオッサンが居らず、ただの安っぽいプルタブみたいな見た目だったらどうだろうか。
きっと誰の心にも残らなかったに違いない。
そうさせない『何か』を彼は持っている。
さて、私が糸通しと初めて邂逅したのは小学生の頃、家庭科の授業で配られた裁縫箱の中身をチェックしていた時である。
プラスチックのカバーに包まれた裁ちばさみやずらりと並んだ各種縫い針。そんなアイテムの中で彼はひっそりと、しかし渋く光っていた。
何に使うのか、どう使うのかなんてその外見からは一切読み取る事の出来ない、しかし盾のような、アンティークの鍵のようなカッコいいフォルム。
そして浮き彫りの謎のオッサンの横顔。
机いっぱいに並べた裁縫道具の中で、糸通しだけが一際異彩を放っていた。
もう私の心は彼の虜である。
道具類のチェックも終わり、ついに針に糸を通す実技が始まった。
みんなが四苦八苦しているのを一通り眺めた先生が絶妙なタイミングで糸通しの実演を始める。
教卓を囲んだ我々生徒達の視線の中、ゆっくりと小さな針の穴に先端から滑り込ませ、糸を通し、引き抜く。
周囲から感嘆の声が挙がる。
先程まで自分達があれほど大変な思いをした作業を、いとも簡単に成し遂げられる素晴らしい道具。
そう、糸通しが子供達のヒーローとして君臨する瞬間である。
早速教卓を囲んでいた輪が散り、我先にとみんなが糸通しを使って針に糸を通す。無論私もである。
先生がやっていたように、小さな針の穴に――
「あっ」
入る事は無かった。興奮冷めやらぬままの私は糸通しを勢いよく挿し込もうとした。
かくして糸通しの針金部分は、ぐにゃりと根元からひん曲がってしまったのである。
初対面から三十分ほどで、私の糸通しは謎のオッサンのレリーフと化した。
最近は横から糸を滑り込ませるように通せる縫い針というのもあるそうだが、私としては糸通しの活躍が減ってしまうのは少し寂しく感じてしまう。
そんな事を思いながら、謎のオッサンのレリーフを裁縫箱の底にそっとしまった。
※本文はコチラのツイートの写しです。
細い部分が折れてしまってただの謎のオッサンのレリーフと化した糸通しを裁縫箱の底から発見し、このオッサンは誰なのか調べるなどした。
— 602e (@602e3) November 6, 2021
別に偉人とか創業者とかそういう訳では無く、本当に誰でも無い謎のオッサンだった。全くズバ抜けたセンスである。(1//8)