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不調日記
今週、日曜日に4歳が発熱した、子どもの不調は突然のことでいつも驚く。と言っても4歳の子どもがいちいち
「あ、じゃあ明日朝10時ぐらいから、38℃いっときますんでよろしく」
そんな風に親に断わってから発熱する訳はないので、とにかくそれはいつも基本的には突然のことなのですよ。
しかし、幼児というものは、何だかいつもよりもよく眠る、もしくはあまりにも早朝に起き出す、食べない、大人しい、その4つのウチ3つで大体ビンゴであるというのが『子どもの不調予兆』の個人的定石。そして今回4歳は朝3時に起床していて、もうその段階で
「確実におかしい、絶対に何かある」
と私は身構えていた。あと大体3時って朝ちゃうな、夜ですし。
そうして日曜の昼前にハイ出ました発熱38.6℃。こうくると子どもの発熱体調不良って、いわゆる『嫌な予感』からのフラグの回収に余念がないなと感心してしまうというか、フラグが立って不調に突入する確率はゾンビ映画で「こんなところいつまでもいられないわよ!」と言って折角逃げ込んだウォルマートから出て行くモブの人が死ぬ確率よりも全然高い。
しかもその発熱がまた大体、土曜の午後であるとか日曜とか、一般の普通の医療機関が閉じている時に頻発するのは一体どういう仕組みなのかしらん。ただこの4歳は心臓疾患持ちであるのでかかりつけの大学病院の救急外来に一報を入れた上で子を抱えて飛び込むというチート技を使える。しかし昨今は、熱発で救急外来に飛び込む事にしてそれを許諾されたとして救急を踏破し小児科の専門医に辿り着く前に
「まず『発熱外来』の壁を越えなくてはならない」
という事実を教えてくれたのは4歳の元に毎週来てくれている訪問看護師さんであって、そもそもこの時、月曜を待たずに日曜の救急に飛び込むべきかを逡巡したのだってこれの2日前に4歳の姉の小学校でコロナ罹患者が出ましたと、つきましては追って情報をお待ちくださいというメールが流れて来たからだ。それで私はこのポストコロナだとかいう、ポストモダンに謝るべきじゃないのと、ちょっと今からサルトルにぶん殴られて来たらいいのじゃないのと言いたくなるようなこの時代を心底憎んでいる。
だってもし万が一この4歳がそんなものに罹患したら無傷ではいられないのだから。大げさでも何でもなく死ぬかもしれないのだ。普段からSpO2が85%前後と常人には考えられない程低くて常に医療用酸素を携帯して生きている子どもだものあの肺炎になったらひとたまりもないはず。
そんなことを心配しながら、じりじりと一晩を過ごして駆け込んだいつもの小児科医院で
『昨日午前より発熱しております、SpO2は昨晩最低で75%現在88%、体温は解熱し36.8℃、活気はままあり、やや軟便、食欲は低下気味、水分摂取量十分』
ほどよく訓練された病児母として正確かつ簡潔な数値と状況を報告して別室待機し、診察がの順番が回って来た時、あのごっついN95 とかいう新幹線みたいな名前のマスクと思しきそれとサージカルマスクを2重につけた主治医から「そうやコーヒー飲む?」位の気軽さで
「あ、検査しとく?PCR」
と言われたのにはちょっとたまげた。この人は普段は街のお医者さんであって同時に大学病院にあっては鬼の小児循環器医でもある人なので、その点、肺炎の類にはかなりの備えと相当の気構えがあるのだろうけれど、あの鼻に長い綿棒をつっこまれてしまうアレは今、そんな町の個人医院でもやっているのですね、聞けば最近は駅前に検査所が開設されてそこには長蛇の列ができているとかいないとか。どんな時代なんだ一体。
結局この日、無事4歳は推定無罪シロで釈放。
「風邪のシロップ飲めるか?解熱剤まだある?ほんで熱、また出て来たらもう一回来てな」
そんな普通の、よくある風邪の子どもの診断と処方が下った。しかし常日頃の普段からデッドオアアライブ、0か100、死なへんかったら大体何とかなる、と言うより俺が何とかしたる、多分そういう思考と主義主張である主治医から
「今の状態がピークアウトするまでは娘ちゃんみたいな心疾患児はなあ…」
集団保育への参加を見合わせよと、去年の6月に数多の艱難辛苦を乗り越えてやっと入園した幼稚園をしばらく休んだ方がええのやないかという暗黙の提案があったのだった。それは多分今主治医の見ているこの辺の状況がすでにもう相当なものであると、そういうことなのですよね。
はい、自主休園。
これはもう致し方なし、だって4歳にもしものことがあれば、今日この日まで手術入院各種検査その費用を普通に全額お支払いしたらこの辺りでかなり立派な家が建つであろう、そんな治療に耐えて来た4歳とその心臓、それを何とかするために尽力してくださった全医療者、市井の皆様、諸々の前でこの母は腹を切らねばならんのよ。
そうして月曜日から今日まで、4歳と私は、ちょっとした消耗品、ケチャップが無いとか、醤油が切れたとかの簡易な買い物のために近所のドラッグストアに行く時以外はずっと家。私は退屈して一緒に遊べという4歳をちょっと構いながら掃除をしたりご飯を作ったり4歳が際限なくちぎっては捲く折り紙のカケラを拾ったり、そのほかの時はダイニングテーブルの椅子に座りそこに置いたパソコンの前で
「ごめんな、ちょっと待っててな」
と言う言葉を1日に100回くらい連呼して、結果4歳はすこぶる機嫌がよろしくない。その上風邪がお腹にやって来てずっとお腹を壊しているものだからその後始末がまた忙しい。そしてこのちょっとした下痢だって、この4歳は普段から結構な量の利尿剤を飲んでいるものだから脱水に厳重な注意が必要になる。
ほんと、気が抜けないし、気が晴れない。
元々出不精だし、こういう色々のお世話が酷く大変で、だから旅行も外出もままならないような子を授かってその子を育てることになっても「外に出られない」という件についてはそこまで辛いと感じてはいなかったのだけれど、この人を生んで1歳の後半にコロナというものが世間に、まずは言葉として流布し始めて今、世界中が「お外はちょっと危険だよ」という状態になって預かり先まで利用不可となると流石に辛い、こんなことになるなんて一体誰が想像しただろう。
いい加減、アイツも引き際というモノを知るべきじゃないだろうか。
たとえば春、その可憐さで皆がその開花を張る待ちわびる桜でさえ、4月の上旬が過ぎた頃には順繰りに散っていくのだ。散り際を知るものは美しいものだよ、コロナウイルス。
あと、しつこいヤツは嫌われるよ。
そして今日、とうとう4歳の在籍している幼稚園が4歳だけでなく、全部の園児が数日休園と言う事態になってしまい、これで主治医の先見の明みたいなものが証明されたことにはなるのだけれど、流石に暗い気持ち。
このままでは来る3月、4歳のための医療機器諸々を全部持参してでも絶対にやるのだと決めていた実家への帰省もご破算になってしまうかもしれない。実家は石川県にほど近い富山県で、だから私は実家に帰ったら地元よりもそちらに行く事を楽しみにしていたのに。
だって中田屋のきんつばを買いに行くのを楽しみにしていたのですよ私は。あの日本一おいしい四角い和菓子を。
切望する願いが小さすぎて逆に切なくないか。
こんな冴えなくて、冴えなさ過ぎて「よくそういうの文章にして人様に読ませようと思うよね」と言われそうな日々の中で、昨日はちょっとした人から新刊の書籍が届いて今それが一番嬉しい出来事。例えばハリー・ウィンストンでダイヤモンドリングを買うよりもずっと嬉しい。まあそんな予定も予算もないのだけれど。
私のような市井の主婦にもごくたまに「著者謹呈」の細い薄紙の入った本が届く事があるのだけれど、どなた様からか本を貰うのって嬉しいものですね。私は文字を読んで紡ぐことが幸せのひとつであるというやや安上がりな人なので、今はとにかくそれを幸福として、一体何年続くのか分からないこの日々を暮らしていくほかない。
沢山読んで、沢山書こう。
かつて、今から10年前の東日本大震災の際、あの哀しい災害の日々にあって著述業の方々には
「この未曾有の危機の中、もの書きの我々に一体存在意義などあるのだろうか、小説に戯曲に物語に、何かできることがあるのだろうか」
そんな問いが生まれてそれは今、この時代にも生き続けているのだろうなと思うのだけれど、物語にしか救えないものはある。例えば心疾患児を含む3児の母、43歳の女のくたびれ果てた心とか。
今日の4歳は、まだちょっと不調。お腹も壊しているし3度のご飯の食いつきもいまひとつ、そのくせプリンは食べたがるのでちょっと困る。
さて、世間は一体いつ落ち着いてくれるものやら。
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