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老人はじめました。

黒目の周りをくるりと囲むようにしてほんのり白い環ができていることに気が付いた昨日、丁度その日の夕方いきつけ?かかりつけ?の眼科医院への通院日だった夫に取り急ぎ初診予約を入れてもらって、今日眼科に行ってきた。

「黒目の白濁、網膜剥離かもしれへんぞ」

7年程前から今日まで、難治性網膜剥離というその名前の通りの難儀で面倒でかつしつこい眼病に憑りつかれている夫(42歳)は、娘の心臓疾患計7つの名前を覚え切らないまま今日に至っている癖に眼病には矢鱈と詳しく、私のやや白濁した黒目の淵を覗き込んでそう言った。

白内障は嫌だな。

眼病の百貨店と呼ばれる夫は、何年か前にそれを両眼ともにやっている。白内障の場合はその濁りは点眼などでは除去は不可。部分麻酔で眼球の中、即ち水晶体にレンズを突っ込むという文字にするとなんだか蛮行である手術を受けなくてはいけない。

針やメスが目に迫って来るのを意識下で目視するというのは個人的にはちょっと拷問だ。日帰り手術可能であることが部分麻酔での手術の大きなメリットではあるけれど、できれば全身麻酔でお願いしたくなるその内容。夫なんかは、かつて私が3度経験している無麻酔での自然分娩の方が長いし痛いし怖いやん?などと言うけれど、眼球に針が突き刺さるほうが絶対怖い。ということで私は

(万が一これが白内障だったら、今のところ視界不良などありませんとか言って、手術を年単位で引き延ばそう) 

お医者さんが聞いたら「やる気あんの?」とシバかれそうな作戦を胸に、自転車で病院に行って、数多の検査をこなしたのだった。のだけれど、地平線の向こうに赤い気球が浮かぶあの有名な検査から、ランドルト環の切れ目を探す視力検査はいいとして、それ以外の、顎を乗っけると小さな孔の向こうに緑の閃光が走るヤツとか、視線の先に赤い十字が出て来てそれを眼球で追うのとか、それから細い紙を眼球にそっと突っ込まれて5分待つとかは全く初めての経験で、そのうちのいくつかを予告なく実施するのはどうしてなの検査の人、できたら

「今から緑色の光がピカってしますからねー、怖くないからねー、はーい大丈夫ですよぉ」

とか言ってほしかった。病院では甘やかされたい、病院で人間は子どもに退行する。

それでいくつかの、計5つか6つだったかの検査を流れるように受け、院長先生の(夫の主治医である)診察を受けて出た結論は

「黒目の周りの白いのは、老人環と言って、まあ…老化です」

ということだった。人はこの世に生まれ落ちて即、老化して劣化して即ち死に向って進んでいるのだという世の理をお寺さんで聞いたなら

「はあそうですねえ、諸行無常、六根清浄、色即是空」

合掌して頭を垂れるのだけれど、病院でそれを聞くとなんかこうパンチがありますね先生。

しかし先生が仰るには「四十代半ばでこれがくるのはだいぶ早い」ものらしく、かつこの白い環はそれ以上はどうにもならないものなのだそう。コンタクトレンズが合わなかったとかね、そういう理由で若いうちにも起こり得るんですよとのことだった。

それは今からさかのぼること20年ほど前、ソフトコンタクトレンズを使用している身の上であるのにも関わらず、ひとすじの光も差し込まない漆黒にブラックな職場で

「3日に1回は終電に乗れず、自宅に帰ってスーツもコートも脱がずにとりあえず1時間寝てまた働く」

という荒れ野を彷徨う予言者のような生活を数年続けていたせいだと思う。コンタクトレンズの使用に切れ目を作れなかった日々、あれが45歳の今、私の眼球を蝕んでいる。その仕事は4年で身体も精神も持たなくなって辞めた、その後は契約社員などをして結婚してそれから子どもを産んで今に至る。

氷河期世代にはよくあることで、そこがどんなに奴隷的にどぎつくて、そして「イヤ人道的にありえんやろ」という職場でも、次の仕事なんて私みたいなものにあるもんかという思考に囚われてそうやすやすと手を引けなかったのだ。この悲しい習性は今「無駄に我慢強い」という私の精神の一部を構築してしまっていて、これもいい加減ちょっとやめたい。

「それよりねお母さん、あなた強度近視でね、眼球の形がこう…細長ーくなってんの」
「ほ…細長く?」
「そう、ラグビーボールみたいにね、で、それだと眼球の中の血管も神経も全部細く長くなっちゃうのね、そうなるととっても劣化や痛みが早いの」
「はあ…」
「お母さんの場合は、血管はまあ大丈夫そうなんだけど、神経がね、とっても弱いのね、それだと緑内障のリスクがとっても高いの」
「緑内障って、失明したりするヤツですか?」
「そうよ、緑内障は失明原因のナンバー・ワンでね、知らない内に進行して、自覚症状があった時にはもうなんにも出来ませんてことになってることがホント多いの、だからね、お母さん今度、視野検査もしましょう、ね?なるはやの直近で」

先生が言うには私は強度近視、先生の学閥界隈では病的近視とも呼ばれる部類のド近眼らしく、そういう人は加齢によりあらゆる眼病リスク、ひいては失明リスクの範疇にあるそうで、私の視神経もかなり危ない感じのものらしい。それでちゃんと検査をしてかつ、ケアしてゆきたい「あなたの眼球と視力は私が守ります」と、この地域で一番白内障を切っているらしい眼科医を奮い立たせてしまう性質のものだった(らしい)。それで私は今日、生まれて初めて

「あー年は取りたくない」

と思ったのだった、それも心から。

だって検査も通院も面倒くさいことこの上ないし、14歳をカシラに子どもが3人いてそのうちひとりは6歳の内部障害持ちの医療的ケア児、毎日やることが多すぎて、お化粧どころか眉毛を描くことすら放棄して久しいのに、これ以上やることが増えるのか。病院なんて子どもらがそれぞれ小児神経科1か所、小児アレルギー科1か所、小児循環器科2か所、それに毎月通っているのでもうお腹いっぱいなのだけど。

眼科の暗い診察室で見えない空を仰いだ私に先生は続けて

「それからねえ、すごいドライアイよお母さん、眼球の表面に涙の膜が全然ないの。感情に関係のない涙の分泌は副交感神経のお仕事だから…お母さん、きっとここ数年のお疲れが一気に出たのね」

そのように言うので私は、天を仰いでいた顔をぱっと正面に向け、そして心の中で叫んだのだった。

「それな!」

この眼科医院には、しつこい眼病と共生している夫が毎月、それと発達ゆっくりさんでそれに並行して視力の発達もゆっくりさんの6歳が3ヶ月毎に通院している。先生が「奥さん」ではなくて「お母さん」と私を呼ぶのはそれ故だ。夫が何度も眼病で手術をして仕事も休職して、やっと落ち着いた頃に授かった娘が今度は結構重度の心臓病だったということを先生はご存知であるもので、そういう意味での「お疲れが出たのね」という言葉だった。

この先生は話がとにかく長く、(今日なんてまず、目が脳の一部であり、それが顔面に露呈しているものであるという、眼球の定義から話が始まり、しばらく医学生みたいな顔で講義を拝聴していた)かつ眼病予防、視力保持のための使命感が高すぎていちいち仰ることが怖いのだけれど、いつもお使いになる言葉と、それの源泉であるところの気持ちがとても優しい。

ということで、ここ数年のお疲れが眼球に如実に現れた私は、ジクアスLXという目薬を処方されて、視野検査の予定を入れて帰宅したのだった。点眼は1日3回。LXってなんの略だろう、リラックス?さすがに違うか。

物書き(の卵)にとって視力はとても大切なもの、商売道具だ。しかし物書きというのは目を酷使する、暇さえあれば何か読んでいるし書いているし何かを見ている。私が知っている文筆業の関係の方で

「私、両目2.0です」

とかいう健眼の持ち主は見たことがない。文筆家の方の『作者近影』での眼鏡率は大変に高く、眼鏡をされてなくてもエッセイなどを読むと「視力が悪い」という記述は結構見つかる。「眼鏡がないと2㎝先の物も見えない」と書かれていたのはどなただったか忘れたが(吉本ばなな先生だったかも)、ともかく私同様強度の近眼の人も多そうだ。

ということで不惑、四十路を折り返した私は突然体にガタがやってきた。私はいよいよ老人に向って走り出している。

老化は生き物の避けられない宿命ではあるけれど、やっぱり目はとても大切ですから、眼科には定期健診にまいりましょうね同志たち。


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きなこ
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