![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/158810674/rectangle_large_type_2_e207600abc54ed9baecfcff20043060d.jpg?width=1200)
さんざめいて雨の、その向こう側。
まずは「さんざめいて雨」YouTube10万回再生ありがとうございます。
このnoteはKIBAKOのやりたいことが少しでも伝わるように解説したライナーノーツ的なやつです。
あくまでも世界観を共有するためのものですので、誤字脱字や文才の無さが垣間見える瞬間があると思いますがご容赦ください。
少しでもKIBAKOでやろうとしていることが伝われば嬉しいです。
この楽曲では、自分のことを誰も理解してくれないと嘆く主人公の孤独と、そこからの救済を描いています。
彼女はその無理解による孤独を払拭するため、何度も人と交わり救われることを願います。そしてその孤独から救おうと差し伸べられた、きっと愛情もこもったであろうその手は、彼女を満たしてはくれません。
その原因は共通理解にしか愛を感じない彼女の傲慢さにあります。
毎夜訪れる漠然とした絶望、泣きたくなるほどの寂しさ。彼女が過去や現在にどんな痛みを持っているかは分かりませんが、それを理解して欲しいと願っている。そして、タチの悪いことに彼女は「同じ痛みを持ち、それを乗り越えた人に救って欲しい」とかそういう人間では無い。
ただ彼女は同じ痛みに浸っていたいだけなのです。
一緒に「辛い」と言い合いたい。傷を舐めあいたい。自分だけじゃないんだ、と安心したい...
ある日、彼女は初めて自分の痛みを理解してくれる人に出会うことが出来ます。ついに孤独から解放され、この楽曲は終わりへと向かいます。
さて、最後までこの曲を聴いて頂いた方は、この作品全体を通してどこか皮肉ったような雰囲気を感じ取ったかと思います。
その原因はきっと、彼女が最期にやっと手に入れた他者との共通理解が「死」であったということにあるのでしょう。
死。その平等に訪れる痛みが待つさんざめく雨の向こうだった訳です。彼女そこでやっと「共通理解」を得、「救済」へ向かうことになります。
以上がこの楽曲の大まかな流れですが、つまるところ「本当の理解者なんて死ぬまで現れない。」と歌っているのです。同時に、この曲は人の歩み寄りを軽視し、同じ痛みや理解の中にしか救いがないと思っていた、過去の自分へのアンチテーゼでもあります。
確かに同じ痛みを理解した者との出会いは孤独を忘れさせてくれます。自分だけじゃなかった。独りじゃない。この人となら歩んでいける気がする。そう思わせてくれる。
でも、そこに救いを求めてしまうとこの作品内の女性のように他者からの思い遣りや愛情に気づけなくなってしまう。「みんな分かってくれない」と自己憐憫に浸るだけで何も変わらない。救われる気がないから救われない。
前提として、我々はそれぞれ違う人間です。
どんなに同じ気がしても絶対的に他人であり、完璧な理解などは存在しない。
だからこそ真に尊ぶべきは「分かってやれない。でも理解したい。だから話を聞かせてはくれないだろうか。」そう耳を傾け、目を凝らし、心を貴方に向けている姿勢そのものにあるはず。
私はそのことを理解した者から順に、歩み寄ることを知り、大切な何かを明け渡したり、譲り合ったり、そんな利他的な判断を下せるようになるのだと思っています。
この曲の彼女の目の前にもそういう人間はきっと居たはずなんです。でもその手を取らなかった。
それは今の私にとって恥ずべきことで、殺すべき過去でした。なので、あの悲惨な最期を遂げた二人は、これからもずっと私の反面教師で居続けてくれることでしょう。
ユウキシロ