見出し画像

コロナ禍で気がつけた"自由"ということ

先日、昨秋に書いた母校への寄稿文がサイトに掲載されていることを知り驚愕した。半年前文章からコロナ禍を通して、考え方が変化していたからだ。

私の母校は、自主自律を掲げ"自由な校風"というのが、人として自律していくこと、自らの手で何かを達成することを是として、代々派手ではない自由さを文化として形成していた(いたようだ)。

そんな中、私が高校三年生の時に附属中学ができ、高校1〜3年生と中学1年生という体制の高校になった。
そこで、変わったことといえば、中学校独特の"規制"が持ち込まれたことだ。

頭髪規制、"標準服"の制服化、購買の縮小などなど…

地味だけで自由という風土が、地味で規制が強いという風土に変わってしまうことを懸念して、皮肉を込めて下記文を寄稿した。

"「100年後も自由たれ  」

富士高校、100周年おめでとうございます。
100年続いたこの学び舎の、素晴らしき諸先輩方、優秀な後輩諸君の中に私がいると思うと、日々、律せられら思いでございます。

 私がここで学んだものは自由たらんとすることであります。
ここでいう自由とは奔放とも身勝手とも違う。主体性を有し意思を持って行動するという意味の自由であります。
 個人という枠組みが揺らぎ始めている現代社会において、主体性を有するという部分が時代に流されない、自らを意味付けるものになるのではないでしょうか。 

私は、本校で学んだこの自由たらんとすることを、次代にも受け継いでいきたいと思う。 

自由たれ!富士高校! "

まぁ、言ってることは自分で言うのもなんだが、至極真っ当なことを述べているのかなと笑
もっともらしすぎて少しつまらないが、寄稿文とはこんなものでいいのだ。
たぶん。

▼▼▼
コロナ後の"自由"とは何か。

afterなのかwithなのかわからないが、
日本での私たちの暮らしは、私たちが生まれてからに限っても確実に変わっている。
オウム騒動後の私たち。
震災を受けた私たち。
新型ウイルスの世界的感染拡大を受けた私たち。

常に環境や社会の変化に適応してきたのが、種としての人類の強みだと言われている。
その特性により、文化毎に様々な生活様式や価値観が生まれは形を変えこの現代まで繋がってきた。
そんな中、今正しいとされる(運用されている)法制度は17世紀の人権や19世紀半ばに形成された国民国家という考え方がベースに社会を制度化している。 それから西欧中心とする社会は基本的人権を是として来た。
基本的人権の中で大切な考え方が自由権である。
自由権は、専門的な解釈をざっと省くと、国家や身分制度から制約されていない状態のことであろう。その成り立ちから考えても身分制や王族、貴族など特権階級の支配からの脱却を目指して提唱されたのだから、当然だろう。
日本にも仏教伝来の用語として自由という言葉があったらしい。
https://www.kitashirakawa.jp/taro/?p=7765
それは欲望からの解脱という文脈で使われていたとのことだ。
自由という考え方はなにか、印欧語族的な考え方だと、それは「対象Aから解放される/制限されない」という意味として捉えられているのであろう。

上で引用した拙文でもそのような考え方を踏襲した檄文であった。
これを書いたこと自体は恥じていないが、コロナ禍を通して考え方に変化があることに気がついた。

自由とは何か。内田樹のように「やまとことば」でないから日本にない感覚とは思わない。
(なんせ、「あはれ」より「自由」の方が使用した回数は1,000倍は多いからね)
では、自身の捉える「自由」とはなにか。
何に怯えて、何に対して自由でありたいと考えているのか。
大災害、死、飢餓、怒られること?フラれること?
withコロナの社会では常にコロナを恐れ、活動が制約され、自由であれないのか?
絶対に違う。仮にそうだとしても、であれば、”自由”という定義を進化させ、過去の"自由"から自由になるべきだ。

自ずから、由とす。自らをよりどころとする
自とは己のことを示すときに用いる語、由どこから来るのか起点を指すときに用いる語である
自分はどこから来るのか自由とは己がどこから来るのかを表しているのだ。

私はどこから来るのか。
それは自身で考え、行動することで、私たることを表せる。表現できる。

借り物の言葉を使い、借り物の言葉で考え、借り物の言葉で判断し、借り物の表現・行動をすること。
これこそ恐れるべきことなのだ。この状態から逃れたいのだ。
そのために、学び、考え、行動する、学び考え行動する。
それを繰り返すことで、このモザイク状な社会を自身の言葉で切り取り、自身の言葉で考え、自身の言葉で表現できるようになるのではないか。

▼▼▼
自身の言葉で考え行動する。これこそありきたりで、借り物の言葉ではないのか?

確かに、2つの面から同意はできる。1つ私が、まだ私の定義する”自由”の道半ばであるということだ。2つ目は、それは世間の当たり前としての表現を用いているから当然でありきたりに感じられるであろうということだ。

では、より厳密に言うとどうなるのか。
それは、自由であるということは、原因と結果が客観的にみるとまったく論理的ではない状態が理想なのだと考える。

論理的とは多くの人からみてもっともらしいことである。
自由であるというのは多くの人からみて、もっともらしくないのだ。
しかし、本人の中では整理ができている。その本人の言葉と本人の言葉から生み出された行動だから既存の言語と思考の枠組みでは、多くの人が論理的に感じられない。

以上のような状態が理想的な”自由である”ということだ。
このコロナ禍、現職のRetailerとしては、相当な痛手を被った。

しかし、社会に参画する中で、人間として、自らの拠り所を探索できたのは非常に有意義であった。

自由とは、もっともらしくないことである。



【参考】
山下太郎
https://www.kitashirakawa.jp/taro/?p=7765

内田樹
https://diamond.jp/articles/-/171664

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?