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調布飛行場連中 その14
執拗な紹介依頼
どうせ広告制作の仕事をするなら、自分が使う訳でもない化粧品よりも大好きなバイクの方が良いに決まっている。
OG君から「T社」に入った話を聞いてからというものの、それこそ僕は彼の顔を見るたびに「紹介してくれ」と何度もしつこく頼んだ。本当に文字通りしつこかったと思う。今にして思えば入社したての新人に、会社の人事を預かる人物を紹介しろとは、無謀というか厚顔というか世間知らずも甚だしい。
しかしそこは友情に厚いOG君、僕の切なる願いを無視することはなかった。彼は入社希望のデザイナーがいることを上司であるカメラマンに話し、そのカメラマンが人事を担当している役員に伝えてくれたようだった。
転職に成功
OG君がT社に入社して一年位たった頃だと思うが、彼の紹介でようやく入社試験を受けられる事になった。面接試験を経て、僕はめでたくT社に入社出来た。T社での仕事はもちろん大変な事もあったが、大好きなバイクに関わる仕事だったので、すごく楽しかった。
特に一般公開前の新型バイクに関われるのは、文字通り夢のようだった。またWGPチャンピオンのフレディ・スペンサー選手や木下恵司選手、片山敬済選手のような世界的トップレーサーの撮影にも立ち会えた。
スペンサーの撮影時には、彼が大好きだと聞いていた「ドクターペッパー」を大量に用意しておいたのだが、「日本仕様」のドクペは味がまろやか過ぎたのか、あまり飲んではくれなかった。がっかり。
GPライダーはスター
初めて身近にスペンサーを見たのは、サーキットに隣接されたホテルのロビーだった。スラっとしていて、何てカッコいいんだと思った。
トレンチコートを纏って(まとって)颯爽と現れた彼は、これまた颯爽とサインをしてチェックインを済ませ、コートの裾を翻しながら自分の部屋へと消えていった。その立ち振る舞いは、まさにスターそのものだった。
1983年にケニー・ロバーツとの激闘を制してWGP500のタイトルを獲得し、84年はNSR500に起因する問題で連覇こそ成らなかったものの、ライダーとしては最も輝いていた時期だったと思う。
そして、下記の撮影後の85年には500と250のWタイトル獲得という偉業を成し遂げた。
ファースト・フレディな撮影
翌日の新型バイクの撮影時には、通訳を介して段取りの説明をした。最初シケインの事を当時の呼称(ネーミングライツ)の「カシオトライアングル」と言ったら、スペンサーは「何だそれは?」いう感じで全く話が通じ無かった。その名称は日本人にしか通用しないのではないかと思い「シケイン」と言ったら、直ぐに理解してくれた。
走行ラインについても、撮影のために本来走るのとは異なるラインであっても、快く応じてくれた。スペンサーは「このバイクは随分とサスペンションが柔らかいな」とか言いながらも(市販車だからレーシングマシンより柔らかいのはあたり前だが)しっかりと走ってくれた。
しかしコースを3周か4周した時だった。撮影を開始してから30分位だったと思う。スペンサーがストップしたと無線に連絡が入り、S字コーナーの辺りにいた僕は急ぎピットに向かった。すると撮影用の新型バイクから変な音がしているではないか。なんと彼はエンジンを回し過ぎて、撮影早々に焼き付かせてしまったのだ。予備のバイクは用意されていなかったので、撮影はこの時点で終了となった。はるばるアメリカから来て貰ったのに・・・。まあ撮影以外にも予定はあったのだろうが、そこは忘れてしまった。
大手広告制作会社
実はT社は、業界では有名な大手の広告制作会社だった。僕は「大好きなバイクの仕事が出来る会社」くらいの認識しかなかったが、同じ広告業界で転職する際には、T社出身という経歴はとても評価された。僕がその後、中堅広告代理店に転職出来たのも、T社出身という経歴があればこそだったと思う。
いつだったかOG君が「俺が引き上げてやったんだぞ」と言ったことがあった。その場でどう返答したかは忘れたが、今はその通りだったと思う。でも元はと言えば、OG君と知り合えたのは加藤君の声掛けがあったからで、結局は加藤君のお陰でもあると思う。
(つづく)