未来は霧の中〜なにものでもなかった
未知の土地で感じた「豊かさ」
「あなたにとっての豊かさとは?」の続きです。
感受性がすっかり出涸らしカラカラになってしまって、感動がぜんぜんないのよなー!と、書きながら思っていたのですが、UPしてから思い出しました。あった。あったよ。リッチな体験が!
数えてみたけど、あれはたぶん1996年の元旦のことでした。わたしは前年の5月だか6月からニュージーランドに渡航していました。
1月の南半球は真夏です。カラリと晴れ上がって爽やかな風が吹いていました。絵の具を流したような抜けるような青空と、クイーンズタウンを象徴する湖であるワカティプ湖を見下ろすリゾートホテルのような素敵なデッキで、親しい人たちが作ってくれたなんちゃってお雑煮をみんなで食べました。
日本の食材はとっても貴重だから、まさに「THE 特別な日」のセレブレーション!お祝い!でした。そうそう。前日の大晦日の夜は、日付が変わってもまだみんなでくたくたになるまで働き続けていたんです。そして一夜明けてこのささやかだけどかけがえのないお祝いのような時間。あれはもう二度とない、最高のお正月だった、と美しい記憶になっています。
お金はなくても、最高にリッチな記憶です。
うん。あれは「豊か」といって差し支えないでしょう。
おお。あったあった。以前ここにいろいろ書いてあります。
タロットをふたたび触るようになった話、書いてあった。そもそも書いたの忘れてた。こうやって記録しておくとあとから見つけられるのでいいですね。
増やす安心と増える不安
西洋占星術の「木星」の象徴は「増殖」ですね。もちろん害虫や疫病が増えるのは困るけれど、安定して収穫がたくさんあって、生活に困らずに暮らせることはなによりだいじです。生存のためには安定的に供給される食料や頑丈な住居は不可欠だし、文明が発展する段階で「豊穣」が常に祈願されてきたのは当然のことでしょう。
そうそう。「大きいことはいいことだ」というスローガン?コピー?が昔あったように「なんでもたくさんあるのはいいことだ」そう信じている人は少なくでしょう。
でもね「もちろん必要な分はちゃんと欲しいけど、あんまりたくさんは要らないよ。あまりにも多いと管理するのがたいへんだし。腐ったら困るし。手に負えないし」そういうタイプの人も結構いるんじゃないかと思うのですよね。わたしはこっち系なのです。「安定してどんどん増える」とか言われるととたんに不安になるのです。増えると苦しくなる。たくさんあると全部捨てて逃げたくなるのです。
え?変かな?
多数派ではもちろんないと思うけど、意外とお仲間はいるはず。
なにものでもなかった
ニュージーランドで湖を毎日みていました。なにものでもなかった。帰ったらなにかをしなきゃならない。まったく帰りたくなかったけど、ここにこのままいることもできないとわかっていました。なにものにもなりたくなかった。モラトリアムと言われようと、甘いと罵られてバカにされようと、とにかく嫌だったのです。いまも嫌だ。
そんなふうに「未来は霧の中」で、まったく白紙の可能性だけが目の前に広がっていて、自分の意志でなんでも始められるけれど、始めてしまうことが怖い。そんなふうに感じる人は、年齢や立場にかかわらずどこかにはいるよね?って、どうかな?イマドキの若い人たちはもっと現実的で地に足つけてしっかりしているよね。
あれから25年?もっと?経ちました。なにものにもなっていないけれど、やれることはぜんぶやった。いまだにできることはほんの少しで限られているし、もうだんだん人生は手仕舞いに向かっています。
それでもそうやって若いときに「なにものでもない」ことの不安や焦りを存分に噛み締める経験ができたのは、いろんな条件が重なって可能になったラッキーな巡り合わせでした。誰にでも勧めはしないけれど。まぁでも「あんな時代もあったねと」思い出せるのは、悪いものでもないです。こうやってたまに思い出すくらい。
これからの「豊かさ」の話をしよう
これからめざす「豊かさ」については、まだわからないな。
でもそれはじぶんひとりのものではありません。
これまでに、あちこちでじぶんが受け取ってきた善きものの数々をなんらかの形で残していくこと。もちろん同じ形でなくていい。欲しい人がいるならもっていけばいい。それをなんらかの形や手段で、誰かに、世界にめぐらせていくことなのでしょう。
空から降ってくる何かをもらうことじゃない。
贈り、送り出すこと。
そういう形で「豊かさ」を求めていければいいなーというのは、理想です。