障害と恋と“やってあげました”ポーズ
「障害者のために出会いの場を用意してあげよう」というある種のノリに戸惑い、というか居心地悪さを感じていた。
なぜだろう?
マッチングアプリにしろ、相席居酒屋にしろ、婚活パーティーにしろ、“健常者のために”とは言われない。もちろん、年齢によって区切られたり、職業によって区切られたりする。しかし、「ここは高収入の男性が多く在籍してます」と言われても、コンテンツの一つとして消費したらいい。
「障害者のために出会いの場を」と言われると、胡散臭さを感じてしまうのはなぜだろうか。ひとつには主体性の問題がある。本人たちの気持ちより先走って「ほら、ここに出会いの場を設定してあげたよ」という態度をとるなら、「は?知らんし。そんなの求めてへんし」と反発したくもなる。まるで、私らがやらないと出会いの場なんてなかったでしょ、とさもやってあげましたポーズを見せつけられてるようなものである。
最初に言ったぼくの戸惑いは人間の傷つきやすさと言い換えてもいい。“やってあげました”ポーズを見せられたとき、見せられた側は確実に傷つけられてしまう。“やってあげました”ポーズは無意識に自分の培った社会的力をフェロモンのように醸し出し、しかもそれに自分で気づいていない状態の人から発動される。それが発動されれば、相手は無力感やコンプレックスを感じざるをえない。自分の弱者性が無理やり引きずり出されるのだ。
ぼくも自身は障害があるけど、人に対して“やってあげました”ポーズを発動したことがないとはいえないだろう。ぼくだって世間的に評価されるアイテムはいくつか取り揃えてきたし、発言力もそれなりにあるだろう。ぼくが言うことで相手が沈黙してしまったこともあるだろう。
だからこそ、ぼくは人が持つ傷つきやすさに対してある程度センサーを張っているつもりだ。
何はともあれ、恋愛は他者関係。ここがバリアフリーとかとは異なる面。ある意味傷つけあいとなぐさめあいな面がある。自分の大切な面はそうやすやすと譲れるものではない、とぼくは思う。
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