障害者の恋愛・結婚がもつ“ポテンシャル”
ぼくもふだんはあんなに美談に抵抗感があるくせに、障害者の恋愛・結婚に関してはつい涙もろくなることがよくある。
結局は“家族頼み”の今の日本の現状だと、障害者同士、あるいは片方が障害者で結婚や子育てをしたら、やはり火事場の底力で乗り切っていくしかない場面に遭遇する。これはなにも障害者に限らずそうかもしれないけど。
そのとき、その底力に障害のある夫/妻、ないし障害のない夫/妻の愛を感じてしまうし、それは紛れもなく愛なのだ。お互いが自己犠牲を払う。喜んで。ときに無理をする。この人のため、我が子のためならどんな犠牲も払う用意があるし、それができない自分に後ろめたさを感じてしまう。
愛とは同時に後ろめたさを内に含んでいる。相手のために尽くしたい。だけど、それができない。あのモテモテ障害者の神輿にのし上がったのか、のし上がらされたのかわからない乙武さんでさえ、子育てのときは<父親>としてなにもできない自分に後ろめたさを感じて苦しんだという。
一方で、恋愛においても、“健常者並みの恋愛”に障害のある人みずからが囚われてしまう場面も我ながら経験した。デートは彼女と二人で行くもんだ。でも、そう言っていられるのも、トイレを自分でできるうちだろう。トイレができなくなったら、デートはぼく+彼女+(黒子のヘルパー)ということになり、これを2人とみなすか、3人とみなすかはけっこう価値観の転換が必要なんではと想像している。ヘルパーが黒子になれるのか、それとも3人でわいわいとしながらデートとして成立させるのか…………
こと愛をめぐっては、あるときはマッチョな男性像を求めたり、母親らしさを体現しようとしたり、自分で自分を縛りつけたり、強がってみせたり、他者と比べて劣等感を感じてしまうときがある。なにかをしてあげたい。でも、できない
実は障害者の恋愛・結婚はだからこそ奥が深く、面白い。「障害者でも恋ができてすごい」のではなく、障害があるからこそ、世の中をもっと優しくし、社会制度や文化・慣習を人間をケアするものに作り変える、そういうポテンシャルを持っているのだと思う。
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