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人類に“多様性”は早すぎる
多様性の時代である。
本稿での“多様性”という言葉にはアジアンヘイトだのブラックライブスマタ―だの、そういったテーマに言及する意図は含まれておらず、所謂性的少数者、LGBTについてのみ書く。
ジェンダーレストイレに女装した男がカメラを構えて突入し、屈強な男性の体躯を持つ自称女性が生物的に認められた本物の女性をボコボコに殴ってオリンピックでメダルを獲る。とんでもねえ時代になったもんだなと思う。
レズ・ゲイ・バイ・トランスだのなんだのを排斥せずに多様性を認める社会をつくろうという世界共通の認識がもう既にバカげているという話はさておき、本題に入る。
正直に言って、俺の認識として同性愛者と小児性愛者はほぼ同じカテゴリに入っている。
男なのに男しか愛せない、これは個性。
女だけど心は男だから社会的には男として扱ってもらいたい。これも個性。
自分より小さな男児や女児しか愛せない。これは個性ではない。
なるほど。
性同一性障害は個性であり、この多様性の時代、きわめて一般的なセクシュアリティを持つ我々は『目の前にいるこいつは、見るからに男性であるが、女性モノの衣服を身につけていて、どうやら化粧をしている。それもガッツリ女性用のメイクだ。ヒゲの剃り残しがありますよ、と伝えたら、仮にこいつの性自認が女性だったら裁判を起こされやしないだろうか?』とヒヤヒヤしながらコミュニケーションをとる時代が目の前に迫っている。
しかし小児性愛者はといえば、唾棄すべき犯罪者であり、なんとしてでも治さねばならない病気であり、人類の敵であるという。
俺は個人的には、例えばインターネットや漫画でそういうイラストを見て満足、発散できているならば小児者愛という性的嗜好にとやかく言うつもりはない。
ただ、俺はレズもゲイも、ショタコンもロリコンも同じ性的少数者だと思っている。カテゴリは同じだ。多様性を認めるならば、ショタコン・ロリコンも救済しなければならないと、どうしても俺はそう感じてしまうのだ。
これは俺が小児性愛者に対してだけ社会の風当たりが強すぎるだろ!ということを言いたいのではなく、性的少数者というのは俺が知らないだけで他にもいくらでもいると思うのだ。たとえばロボットに対してしか恋ができない奴がいる。人間以外の動物にしか欲情できない奴がいる。そういう人間が「多様性を認めろ!我々の倒錯した性的嗜好を社会が認めろ!」と声高く宣言しているところを俺は観測したことがない。
LGBTというゴミのことばに括られてしまっている多くの人々の中にも「我々は性的少数者であるから、ひっそり暮らしていて、社会に認められる必要も感じません」という意見を持っている人は多いはずだ。
実際、知り合いのオカマはどんどん暮らしづらくなっていくと嘆いていた。彼(彼女?)曰く、初めて会う人に気を遣われることが増えたと。桃色の溜め息を吐きながらオカマが落ち込んでいるのを眺めて、ウケた。
このまま書いていても書きたいことがとっ散らかっていくばかりなので、まとめに入る。
つまり俺が言いたいのは“そっとしておけよ”ということ。
一部のバカが声を上げるせいで、静かに暮らす性的少数者の暮らしも変わっていく。
別にレズであるあなたの、ゲイであるあなたの、性自認が女性で筋骨隆々の生物学的男性であるあなたの人生なんて周囲からすればどうでもよい。もし差別されたと感じてしまっても仕方がない。海外ではどうだこうだ言うな。海外にもバカはたくさん存在するのだ。マイノリティを正当化しようとするな。マイノリティを盾に、社会的弱者としてクソ舐めた発言をするな。
LGBTが社会にすっかり馴染んだ頃に、今度は更にニッチな性的少数者によるバカみたいな運動が起こるかもしれない。
いつの日か公衆トイレの入り口が7つくらいまで増えるかもしれない。そんなバカげた未来……いや、考えようによっては駅のトイレの混雑が解消されるかもしれない…?ひ、ひ、ひ、閃いた!!!