私のコンクリートは石よりも美しい
ドーヴィルからオンフルールを経て、ル・アーヴルまでやって来た。
アキ・カウリスマキ監督の『ル・アーヴルの靴磨き』の舞台だ。
もっとも、あの映画を観てル・アーヴルに行きたいと思う人は少ないだろう。
どちらかと言えば陰鬱とした、乾いた街として描かれている。
大きい街に行けばホテルも食事も何とかなるだろう、そんな浅はかな思い込みでやって来た。
駅前ホテルの部屋から街を見下ろす。
近代的な港湾と、工場の煙突と、無機質なビル群。
豊かさというものがまるでない。
まったく殺風景だ。
この街には何もない。
みるべきものが何もない。
わざわざフランスまでやって来て、こんな街に放り出されている。
調べてみると少しみえてきた。
街は第二次大戦で壊滅的なまでに破壊されたのだという。
僕が期待していたのは「歴史的」で「伝統的」で「ローカル」な何かだったのだろう。
そのことをまずは自覚した。
そんなものはこの街にはない。
街を歩けば、戦前のものと思われる石壁が残されているのに気がついた。
爆撃の痕跡が生々しい。
戦争によって破壊された街をどのように復興するか。
美しい成功例の代表がポーランドのワルシャワと、ドイツ・ロマンティック街道のローテンブルグだろう。
ドイツ軍による空爆によって壊滅的に破壊されたワルシャワは、戦後、古地図や写真、絵をもとに、もとの町並みを復元した。
昔通りに復元したという事実そのものが、街の誇りになっているのだ。
上の絵をもとにして、下の町並みが再現されている。
ワルシャワ旧市街は世界遺産に登録されている。
ドイツ・ローテンブルグも同様に、全壊した街を昔通りに復元した。
いまでは日本人が最も好きなヨーロッパの街の一つだ。
このあたりの話は木原啓吉『歴史的環境』で学んだ。
さて、ル・アーヴルが選び取ったのは「中世の再現」という道ではなく、近代的な都市計画だ。
建築家オーギュスト・ペレによって、街は整然とした近代都市に生まれ変わった。
2005年には「オーギュスト・ペレによる再建都市」として世界遺産に登録されている。
こちらが市庁舎。
手前の建物には古典様式の列柱みたいなものがみえる。
奥のタワーはなんだか寒々しい印象。
九州の炭鉱跡を思い出してしまった。
これは志免町の竪坑櫓。1943年の建造。
こういう団地が無限に整然と並んでいる。
住む機械という感じがしてくる。
ここで計画されているのは、道路の配置とか、建物の高さとか形状とかそういったハード面だけではない。
住むということ自体がデザインされている。
文化的で近代的な生活そのものが計画されているのだ。
今回は行かなかったが、当時の革新的なアパルトマンの一室がガイド付きツアーによって公開されているようだ。
この街にある種の窮屈さが漂うのは、生活の隅々まで設計してしまおうとする建築家の野心が充満しているからだろうか。
五十嵐太郎は『美しい都市、醜い都市』のなかで、東京の景観を醜いとする世評に反論し、それは自由の象徴なのだと述べた。
彼によれば、世界で最も整備された美しい都市は平壌かもしれないが、それはおぞましいほど強大な権力によって達成された美なのだ。
日本の天守閣は、空襲によって多く失われたが、戦後、特に昭和30年代に再建ブームが起こった。
それらは建築基準法の定めにより木造ではなくコンクリート造で再建されたのだが、木下直之は、そこには「二度と焼かれまい」とする人びとの思いが込められていたと述べている(『わたしの城下町』)。
この街も、中世以来の石造りから、近代的なコンクリートへと一変した。
二度と破壊されないように、という思いがあったのだろうか。
街のどこを歩いていても目に入るこの建物。
宇宙ロケットみたいで、今は無き北九州のスペースワールドを思い出した。
近づいてみると、教会だということがわかった。
なんとも殺風景な教会。最初はそう思った。
ところが、なかに入ってみて、息をのんだ。
こうだ。
今では珍しくない、コンクリートの打ちっぱなし。
ステンドグラスの光が堂内を照らす。
高い塔の内部にもステンドグラスが敷き詰められている。
単に造形が美しいとか、そういうことでは済まされない、強い意志を感じさせる。
なにかとても強い、徹底的な意志を。
焼野原になった街とその再建の歴史がパネルで説明されている。
そこにはペレの言葉が記されていた。
「私のコンクリートは石よりも美しい」。
コンクリートは、機能的であるにもかかわらず、いや、機能的であるからこそ美しい。ペレはそう考えた。
ペレの影響はル・コルビュジエやヴァルター・グロピウスら後続の建築家に幅広く及んだが、その一人に、アントニン・レーモンドがいる。
聖パウロ礼拝堂を設計したことでも知られる。