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小説|ひまわりの足跡③

◇◆◇

 それは、突然過ぎるほど、突然の出来事だった。
「えっ! ね、ねえ、大丈夫?」
 通路の方向から、鋭い声が飛んできた時、パソコンに向かっていた僕は、条件反射でそちらを振り向いた。経理部員、誰もが同じだったと思う。
「どうした!」
「何だ、何があったんだ」
 コピー機の前に、二人の女性がしゃがみこんでいた。
 一人は、うずくまったもう一人の背中を擦る姿。そして、その背中は・・・・・・。
「どうしたんですか!!」
 僕は叫びながら立ち上がり、その背中に駆け寄った。
 胸を押さえ、苦しそうに肩を震わせていたのは、彼女だったのだ。
 周りに集まったみんなが、名前を呼んでも、彼女は答えられなかった。くっ、くっと喉が鳴る音と、小さな呻きしか返ってこない。
 何なんだ、これ。どうして、一体何が起きているんだ。
「誰か救急車、早く!」
「あと、営業に内線して、旦那さん呼んで!!」
 誰かの声に誰かが反応し、受話器を持ち上げていたが、僕は足がすくんで、ただそこに立ったまま、何もできなかった。
 少しだけ見える横顔が、ひどく赤みを帯びて、大量の汗を流していた。明らかに、まともな呼吸をできていない。さっきまで、ついさっきまでいつも通り、彼女は僕の質問に答えていたのに。
 ばたばたと慌てた足音が響き、彼女のご主人が、フロアに駆け込んできた。膝をつき、彼女を腕に抱えると、大丈夫だ、大丈夫だと呪文のように繰り返し始めて。
「救急車、すぐ来ます! 私待ってて案内します!」
 女性の声がしたけれど、誰のものかわからなかった。
 どうして、一体何が、どうして。
 どうしてこんなに苦しがっている?
 大丈夫なの、どうしたの、病気なの、苦しいの。さまざまな声がぐるぐると渦を巻き、僕はそれに飲み込まれる。動けない、どうしたらいいのか全くわからない。
 救急車のサイレンが聞こえ、そして、すぐに大きくなった。ストレッチャーのキャスターの、救急隊員達が駆けつける、不揃いな足音。声の渦にそれらが混ざりこんだ時、僕は初めて、自分が泣いていることに気がついた。
「大丈夫だ、な、大丈夫だからな」
 渦の真ん中から、彼女に呼びかける、ご主人の声が聞こえる。けれど彼女は何も話せないまま、苦しんだまま、ストレッチャーに乗せられ、救急車の中に消えてしまった。

 ・・・・・・消えて、しまった。

 翌朝、経理部員が全員集められ、部長から説明があった。彼女自身に口止めされていたから、誰にも話さなかったのだが、という前置き付きで。
 彼女には、中学生の頃から、心臓に持病があった。
 最初から正社員ではなく、短時間での職に就いたのは、無理がきかない身体だったせいだ。毎月、第二月曜に休みを取っていたのも、実は不妊治療ではなく、病気の定期診察のためだったと、その場で初めて明らかになった。
「いつか酸素ボンベが必要になるし、それでも、そんなに長くは生きられない、彼女はそう言っていたよ。でも、ボンベにさえ辿り着けなかった・・・・・・」
 いつもは気丈な部長が、そこまで話してハンカチを取り出すと、もう何も言えなくなった。その涙に、いくつもの嗚咽が、葬送のように続いていく。若い人の死を、他の誰かの口から聞かされたのは、それが初めてだった。
 頭が、動かない。声も出ない。どうして彼女が、いくら病気だったからって、どうしてこんなに突然。
 答えは自動で出ちゃうんだけど、それじゃ計算の意味がわかんないでしょ? 事務費をさらにここで分けててね。ふと、彼女の声が頭の中に響く。どうして、こんなにも悲しい時に、仕事を教わった時の声など、思い出すのだろう?
 本人の遺言で、葬儀は家族葬で、ささやかに執り行われた。まだ三十歳になったばかりの女性が、そんな遺言を残していたのだ。明るい笑顔の裏で、彼女は自分の寿命が、もうそんなにないことを、わかっていたというのだろうか。
 半年と少し、僕を育ててくれた先輩の姿はもう、隣の席になかった。複雑な仕訳の仕方も、Excelの関数の組み方も、彼女には二度と相談できないのだ。
 社会に出てから、彼女の支えが当たり前だった僕には、それを外された自分自身を、どう扱っていいのかさえ、まったくわからなかった。

 彼女が亡くなって以来、しばらく休みを取っていたご主人に、渡したいものがあると呼び出されたのは、彼が復職した直後のことだ。彼女とスターバックスでお茶を飲んだ頃、クリスマス一色だった街は、いつの間にかハートだらけの、バレンタイン仕様に染められていた。
「悪いな、話したこともないのに、突然呼び出して」
 彼が言った通り、それまで僕達には、なんの交流もなかった。同じ会社にいて、お互いに顔と名前は知っていたけれど、ただそれだけだったのだ。
「いえ、大丈夫です」
 彼女と行った店舗とは別の、路面店のスターバックス。僕はあの時と同じカフェラテ、そして彼のマグカップには、彼女と同じチャイティーラテが満たされていた。
「妻と俺は、高校時代の同級生でね」
「そんな長いつきあいだったんですか」
「十五年くらいか。まあ、確かに長かったな」
 彼女を失って、彼は僕の目に、一気に老けたように映った。酷く痩せて、目の下に痣のようなくまが浮かんでいたせいだろう。
「あの頃のあいつは、可愛かったよ。明るくて、よく笑ってて。ひまわりみたいだなって、いつも思ってた。それは結婚してからも、多分、今でもな」
「ひまわり・・・・・・わかります、その感じ」
 僕がいつも、思っていたのと同じ印象を、もっともっと長い間、彼は抱き続けていた。
 でも、もう、その花は咲かない。
「あいつの心臓は、高校の時にはもう、病気に取り憑かれてたよ」
 張りを失った、以前とは別人のような声。
「まだ、日常生活に問題があるほどじゃなかったけど、 体育なんかはいつも見学だったし、修学旅行にも行けなかった。俺がほとんど一目惚れで、思い切って告白した時も、他の女の子のようにはいかないからって、最初は断られたよ。それでもいいって押しきって、やっとつきあい始めたんだけどさ」
 何と相槌を打てばいいのかわからず、僕は、黙って話を聞くことしかできなかった。
「進路を考えた時、あいつは、身体を使う仕事はできないから、事務系で行くしかないって言ったよ。重いものは持てないし、無理もきかない。だから、どこの会社でも必要で、専門知識を求められる経理の勉強をする、そう言って、簿記の専門学校に行ったんだ」
 それで、彼女はあんなにも豊富に、経理の知識を持っていたのか。
 無理がきかない身体でも、収入を確保できるように、必死にそれを身につけたのだろう。通院で定期的に仕事を休んでも、もし何度か入院したとしても、抜群に仕事ができる存在であれば、会社はおそらく手放さないし、他の会社に移るのも簡単になる。
若かった彼女の考えが、僕にも何となくわかる気がした。
「本当はあいつも、フルタイムで思いっきり、働いてみたかったんだと思うよ。学校以外にも、経理や財務関係の本、片っ端から読んでたし、パソコンもだいぶ勉強してた。でも、 病気は確実に進んで、就活の頃にはもう、フルタイムは厳しくなってた」
 顔中をくしゃくしゃにしたあの笑顔が、頭の中にぱっと蘇った。どれほどの悔しさや悲しさが、その後ろに隠されていたのだろう。僕には、少しも見せなかった彼女の陰。
「幸い、俺と同じ会社に入れたから、それは安心だったよ。何かあれば届くとこに、いつもいられるってね。実際は、俺に外出や出張もあって、そんなに甘くなかったけど」
 彼が両手で握ったカップの中で、チャイティーラテの水面が、小さく波打っていた。
「実は去年の今頃から、あいつの病気は、急に進んだんだ。酸素ボンベが手放せなくなるのも、そんなに先じゃないって、はっきり言われたよ。そして、そうなる前に、突然の発作で命が絶たれることも有り得る、ってね」
「一年前・・・・・・そんな、急に」
「あいつは、何も残せなかったって思い切り泣いたよ。子供も産めなかった、仕事も思うようにできなかった。私が死んだら、自分の足跡なんかひとつも残らない、何よりそれが悔しい、って」
 ・・・・・・だから。
 だから、だったのか。
 それを聞いた瞬間、僕は無意識に、背筋を伸ばしていた。
 穏やかな彼女が、同僚に反論してまで、僕に仕事を教えようとした理由。
 だから・・・・・・だったのか。
「わかったみたいだな」
  彼が、そんな僕を見て小さく笑った。
「その年に、新人が入ってくると知って、彼女は部長に直談判したんだ。自分に、その新人を育てさせて欲しい、って。君を育てることで、彼女は自分の足跡を、どんなに小さくてもいいから、この世に残そうとしたんだよ」
 僕が、彼女の最後の可能性だった。
 歩んだ足跡を残せる、最後の可能性だった。
「どこまで残せたのか、俺には正直わからない。彼女が、どこまで満足していたのかもね。でも、彼女はもう、自分が長くないことを知って、こんなものを君に残してたんだ」 
 涙声で話しながら、彼が取り出したのは、二冊の本だった。どちらも、ページの間が少しだけ膨らんで、表紙をわずかに持ち上げている。どうしてそうなっているのかは、本を開いた瞬間にわかった。
 複数のページに、彼女の字を載せた付箋が貼られていて、それらがかすかな隙間を作っていたのだ。
「経理と財務の本。あいつが、一番わかりやすいものを探して、選んだんだよ。付箋は全部、あいつの補足なんだ。自分がいなくなったら、君にこれを渡してくれって・・・・・・それも、あいつの遺言だったんだ」
 目頭が熱くなるのを感じて、僕は涙で濡れないように、本を胸に抱きかかえた。
「ありがとう、ございます」
 それ以外の言葉が、出てこなかった。彼に、そして彼女に。
 本当に、ありがとうございます。
「なあ、頑張れよ。頼むよ、頼むから頑張って、あいつの足跡を残してやってくれ。仕事のできる有能な男になって、そうして働いた給料で、幸せな人生をつかんで欲しいんだ・・・・・・あいつと、俺の分まで」
 涙でぐしゃぐしゃになった頬を拭おうともしないまま、彼が絞り出す言葉が、僕の中に刻まれていく。
「残し、ますよ」
 僕の声も、掠れていた。
「彼女が教えてくれたこと・・・・・・全部、全部覚えます。何だってする。約束します」
 ありがとう。言葉になってはいなかったけれど、彼がそう言ったことが、僕にはわかった。
 何も残せなかったと泣いた、あの人。それなら、 俺が絶対に、その足跡になってやる。
 ノートに綴ってきた彼女の言葉、そして、腕の中の本。そこに挟まれたたくさんの付箋、書かれた彼女の文字。姿は見えなくなってしまったけれど、僕が足跡になるために必要なものを、彼女はちゃんと、残していったのだ。
 そして、僕達はスターバックスのテーブルで、人目も憚らずに号泣した。ひまわりが消えてた今、どんなにあの明るい光を求めても、もう戻らないことを知っていて・・・・・・泣いて、泣いて、泣いて、泣いた。

◇◆◇

「パーパ」
 そう呼ぶ声が、僕をまた、過去から現在に引き戻した。
 ひまわりの中から戻ってきた息子が、僕の右脚に両手を当てて、嬉しそうに笑っている。
「ひまわりの中を歩くの、楽しかったか?」
 尋ねながら、僕は息子を抱き上げた。毎日繰り返す、習慣になった動作。小さな身体は、いつもいつでも、たまらないくらいに温かい。
「うん、たのしかったよ!」
「そっか、ママと一緒で良かったな」
「ね、パパ、ソフトクリームたべようよ。ママが、かってくれるって」
 駐車場のとこに売店あったでしょ、そこで買いたいんだって。妻がすかさず、息子の言葉を補足する。
「いいね、パパも食べるぞ。ソフトクリームはバニラかな」
「パパは昔から、バニラが好きだもんね。でも、チョコもあるって、売店に書いてあったと思うけど」
「ぼくは、バニラでいいよ!」
 はしゃいで笑う息子を、歩いても落ちないように、僕はぎゅっと抱き直す。息子も、まるで心得ているかのように、僕の首にしがみついてきた。
「じゃ、行くか」
 小さく温かな幸せを抱いたまま、僕は踵を返し、ひまわり畑に背を向ける。そして、少しだけゆっくりと、現在という時間を歩き出した。

〔 了〕

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