Slumberland (下)withすみかさん
※小説リレー企画「火サスどうでしょう」バトンを受け取りました!
すみか🌝moonさんが書かれた、この物語の後半部分になります※
◇◆◇
北上さんがお金持ちだということは、部屋を見ればわかる。
ここに入所した二年前、彼は施設のベッドでは眠れないと言い張り、自分のお気に入りを持参したのだ。
イギリス王室御用達のブランド、スランバーランドのベッド。シングルサイズだが、潤が興味本位で価格を調べたところ、驚くような金額らしい。毎日、狭いアパートで布団を上げ下ろししている私とは、眠る世界が全く違う。
スランバーランドのベッドと、固く古い敷き布団。
私にはそれが、持つ者と、持たない者の象徴のように思えた。
認知症が進んだ北上さんが、ベッドの下のお金がなくなったと言っても、おそらく誰も信じないだろう。最近の彼は、ほんの数十分前にしたことや、十数分前に見たことを、忘れるようになってきているのだから。
おまけに、介護者を悩ませがちな「物盗られ妄想」も始まり、持ってもいない金の指輪がなくなった、ロレックスの腕時計を盗まれたと、毎週のように騒いでいる。
北上さんのベッドの下に札束があると、潤に聞いてから一週間。私はずっと、自分に語りかけ続けていた。
私は俊治のために、三百万円が必要なのだ。
盗む相手は、スランバーランドのベッドで眠れる人間なのだから。
そして、今日、私の勤務は夜勤。
真夜中になれば、施設にいるスタッフは二人になる。誰にも見られず、札束を盗み出すなど、きっと簡単なことだ。
この一か月、登校もできず、部屋に閉じこもった俊治の泣き顔を思い浮かべる。
やるしか、ない。
未成年の息子の不始末は、私が責任をとらなくては。
◇◆◇
夜間徘徊、昼夜逆転といった症状がある北上さんには、医師から睡眠導入剤が処方されている。
16時に出勤した私は、入居者の夕食準備をする振りをして、北上さんの薬に、1錠多く睡眠導入剤を忍ばせた。
いつもの量でも効くはずだけれど、念には念を入れるためだ。ベッドの下をごそごそ探しているときに、目を覚ましてほしくはない。
「今日は、2階をお願いしますね」
食事介助が始まる前に、リーダーからそう言われて、少し気持ちがざわめいた。できることなら、3階を担当して、自分で北上さんに薬を飲ませたかったのだ。
でも、スタッフが特に忙しい時間のことだ。ひとりの入居者の薬が、1錠増えていることなど、誰も気づかないだろう。
「よっ、おつかれ」
21時に偶然、1階のエレベーターの前で、退勤しようとしている潤に会った。遅番は20時が定時なので、1時間残業をしたのだろう。
「おつかれさま」
私は全力で普段通りを装い、潤に話しかけた。彼も、私にいつもの笑顔を向ける。
「夜勤、何も起きないといいね」
「まあ、大丈夫でしょ。遅番はみんなで残業してたの?」
「ううん、俺だけだよ」
さりげない返事に、胸の鼓動が早くなった。それなら、潤が帰った直後、スタッフは私と、もう一人の夜勤だけになる。
「そ、そっか。帰り、気をつけてね」
「そっちも頑張ってね。お先に」
幸い、潤は何も気づかなかったようだ。私の尻をひと撫ですると、手を振って、社員通用口のほうへと歩いて行く。
ふと、押し殺していた戸惑いが、ひょっこりと顔を出した。
これから私がすることは、立派な窃盗罪だ。このことが潤にばれたら、彼はいったい、どんな反応をするのだろう。
……でも。
「大丈夫、うまくいくから」
左の手のひらを胸に当て、深呼吸をして、自分自身に言い聞かせる。北上さんは、薬で深く深く眠っているだろうし、万が一彼が騒いでも、いつもの「物盗られ妄想」だと思われるだけだ。
俊治のためなのだから。
もう一度、私はそれを心に刻んだ。
そして、23時。
もう一人の夜勤スタッフが、休憩に入るのを見届けてから、私はエレベーターで3階に上がった。
背中に一筋、汗が流れる。
薄暗い廊下は、怖いほど静まり返っていた。いつもなら、入居者の部屋から、いびきや寝言が聞こえてくるというのに。
緊張のせいか、膝が震えて仕方ないけれど、それでも足音を忍ばせ、奥から2番目のドアまで必死に歩く。少しでも気を抜いたら、うずくまってしまいそうだ。
大丈夫、完全犯罪は成立する。
そう自分を奮い立たせ、私は、スランバーランドのベッドが待つ部屋の引き戸を、そっと開けた。
常夜灯のわずかな光の中でも、北上さんがぐっすり眠っていることは、はっきりとわかった。
事前に確認したベッドの形状は、マットレスの下に、引き出しが2杯ついているタイプだ。
もう、引き返すことなどできない。
北上さんに、目覚める気配がないことを確かめて、私はベッドの横に屈みこんだ。
念のためはめてきた、ビニール手袋の内側が、じっとりと汗ばんでいる。
この引き出しの中から、札束を三つ取り出せば、私の悩みは解決するのだ。
俊治。もうすぐ終わるよ、俊治。
心の中で息子に呼びかけながら、私は引き出しに両手をかける。
そして、ゆっくりと引いた……その時。
「はい、そこまで」
背後から、とても静かな、やわらかい声がした。
突然のことに驚き、悲鳴を上げかけた私の口を、やわらかい何かが塞ぐ。
これは、手のひらだ。
「札束なんかないよ。すべては、俺の嘘」
聞き慣れた、声。
温かい腕が、屈んだままの私を抱きしめる。
「……潤」
振り向かなくても、わかった。
帰宅したはずの潤が、ここに隠れて、私を止めてくれたのだと。
◇◆◇
誰もいない事務所の端にある、四人掛けのテーブルに、潤と私は向かい合って座った。
もう一人の夜勤スタッフは、3階の休憩室で仮眠をとっている。当分、戻ってこないだろう。
「最近、なんだかイライラしてるし、話も聞いてないから、何だろって思ってたんだよ。仕事もミスが増えたみたいだし」
心配そうに話す潤の顔には、少しの怒りも、蔑みも見られなかった。
「おかしいと思って、様子見てたんだ。最近、弁当を作ったり、ペットボトルのお茶を水筒に変えて、お金使わないようにしてるよね」
潤が私を、そんなふうに。
全然、気づかなかった。
「だけど、俺には何も話してくれないから……このままじゃ、切羽詰まって、とんでもないことをするような気がしてさ」
「だから、私を試したってわけ」
「そう。結果は予想通りだった。なあ、人のお金を盗もうとするほど、何をそんなに悩んでるの?」
まったく責める気配のない、やさしい話し方と、いたわるような眼差し。それに包まれた私は、すべてを話し始めた。
俊治が、彼女を妊娠させてしまったこと。
父親の弁護士から、総額三百万円の費用と慰謝料を請求されていること。
そのお金は、学資保険を解約し、車や家財を売ったとしても、私には払えないこと。
話すに連れて、ずっしりと重かった心が、少しずつ少しずつ、軽くなっていくような気がした。
「そういうことだったんだね」
私の話が終わると、ずっと黙っていた潤が、入れ替わるように口を開いた。
「でもさ、いちばん大切なことを忘れてるよ」
「私が?」
「そう、あと俊治くんも。ふたりが最初にするべきなのは、お金の工面じゃないよ。彼女と両親に会って、ちゃんと謝ることじゃないかな」
思わず、私は息をのんで、潤の顔を見つめた。
確かに、そうだ。
私は相手の父親に、電話では話したけれど、直接謝りには行っていない。近々こちらから連絡する、と切られて以降、何の行動も起こさなかった。
誠心誠意、謝ること。相手方にお会いして、きちんと頭を下げること。
三百万円という金額に動揺して、そのことを、私はすっかり忘れていたのだ。
「明日、その弁護士事務所に電話して、アポを取ったほうがいい。そこまでは、自分でやらなきゃ駄目だよ」
「そこまでは?」
聞き返す私に、潤は真面目な顔で頷く。
いつもの、調子のいい彼とは、まったく違う表情だった。
「アポが取れたら、俊治を連れて謝りに行くんだ。ちゃんと謝って、三百万は分割で、というお願いもする。そうしないと、今度こそ本当に、盗むしかなくなっちゃうよ」
言い返す隙もない、やわらかい正論。
そして。
「その時には、俺も行くから。近い将来、俊治の父親になる男として」
潤は、私の目をまっすぐに見ながら、はっきりとそう言ったのだ。
「俊治の、父親って」
「全部終わったら、ちゃんとプロポーズするから、細かい話は後で。その前に、俊治のこと、きちんと解決してやろうよ」
鏡を見なくても、私は、自分の顔が赤くなっていることがわかった。
俊治が成人した後の、潤と私の未来のことは、何度も何度も話してきた。でも、結婚については、口にしたことがなかったのに。
「ありがと、潤……」
その名前を口にした途端、涙があふれて止まらなくなる。
「独りで悩んでないで、早く言ってくれればよかったのに」
泣きじゃくる私の頭に、潤は右手を伸ばし、励ますようにぽんぽんと叩いた。
◇◆◇
その夜から、二日後。
「大変、申し訳ございませんでした」
いかにも高級そうな、存在感のある机がどんと鎮座する、朝倉法律事務所の所長室。スーツを着た潤と私、学生服姿の俊治は、一列に並び、その机に向かって土下座をしていた。
「お願いですから、やめてください。我々は、そんなことをさせたくて、辻井に書類を持って行かせたわけじゃないんですよ」
机の向こうで、恐縮したように朝倉さんが言う。その言葉に顔を上げると、私たちは、三人掛けのソファに並んで座るよう指示を受けた。
事務員らしい女性が入ってきて、コーヒーを出してくれたけれど、手を付けられるはずもない。
「正直、このまま顔も出さないなら、法的な手段で、慰謝料を請求するつもりでした」
話し始めた朝倉さんの声は、予想に反して柔らかかった。
「でも、あなたたちは今日、こうしてきちんと謝りに来た。お母さんと俊治くんだけじゃなく、未来のお父さんも一緒に」
「本当に、申し訳ございません。そして、もうひとつ……三百万円のお支払ですが、何とか、分割にしていただけませんでしょうか」
私たちを代表するように、潤が言い、深々と頭を下げる。それを再び止めて、朝倉さんは話し始めた。
「いや、実はですね。辻井に書類を持って行かせたとき、家の様子を見て、経済状況を把握して来いと言ったんです」
そういえば、うちの玄関先に立った辻井さんは、室内を見ていた。あれは、そういうことだったのか。
確かに、古くて狭い2Kのアパートは、ぱっと見ただけで、ゆとりがない人の住まいだとわかってしまう。
「あなたたちは土下座までして、誠意を見せた。そして、申し訳ないけれど、お母さんに経済的余裕がないことも、わかっています」
そう言いながら、彼は引き出しから、何か書類を取り出した。
その紙のレイアウトに、見覚えがある。辻井さんがうちに持ってきた、あの書類と同じものだ。
「慰謝料の請求は取り下げます。でも、手術費用だけは、ひとつのけじめとして、私共にお支払いください。分割でも構いませんので」
そして、朝倉さんは、こんなありがたいことを、私たちに言ってくれたのだった。
「大丈夫かな、俊治」
「大丈夫だろ、一発くらいは殴られるかもしれないけど。俺はさ、俊治が今、へこむくらいがっつり怒られたほうが、後から楽になると思うよ」
朝倉さんとの話が終わった後、潤と私は外に出され、代わりに玲美さんが所長室に呼ばれた。今は、朝倉さんと玲美さん、そして俊治が、三人で話をしている。
息子が何を言われているかと思うと、心配で仕方がない一方で、潤の言うことも一理あると思った。私は、叱るタイミングを逃してしまったけれど、誰かに思い切り怒られなければ、俊治も気持ちを納められないだろう。
「ごめんね、こんなことに巻き込んじゃって」
潤の車で俊治を待ちながら、私は彼に謝った。
「いいよ、なんてったって、俺は未来の父親じゃん」
その口調は、羽のように軽い。
「まだ私、結婚するなんて言ってないけど」
「でも、するよね?」
運転席から手を伸ばして、潤が私の左肩を抱いた。温かい手、ほっとする心。
潤、本当にありがとう。
私を、止めてくれて。
俊治と一緒に、謝りに来てくれて。
そして……私を、愛してくれて。
「うん、結婚する」
私はそれだけ言うと、肩を抱く潤の手を、自分の手のひらで、そっと包み込んだ。
〔了〕
※こちらの企画の小説リレーです。
すみかさん、ありがとうございました!※