神様の向こう側(第1話)
写真立てに切り取られた京香の笑顔は、歳を重ねない。仏壇にふわり漂う白水仙の香りも、小皿に乗せた桜餅の甘さも、もう彼女には届かないのだろうか。
「そっちの世界にも、香りや味覚があるのかな」
和也は香炉に線香を立てながら呟き、静かに両手を合わせた。
「俺も拓も、何とかやってるよ。だから京香も……たまには遊びに来なよ」
話しかけても、妻の声は聞こえてこない。
京香が突然、業務中の交通事故で命を失ったのは、ちょうど5年前のことだ。3月初旬にしては暖かい、よく晴れた午後の悲劇だった。
墓参りは一人息子の拓、その恋人のちえみと3人で、先週の日曜日に済ませていた。けれど和也は祥月命日の今日も、京香の墓前に白水仙を手向けに行こうと思っている。彼女が生前、庭で育てていたほど好だった花だから。
◇◆◇
「課長、幹部会資料の確認お願いします」
経理課内でもっとも若い部下が、印刷した資料を和也に手渡した。ペーパーレス化プロジェクトのメンバーに加わっている、背の高い男性社員だ。
「昨日のプロジェクト会議で、経理は紙の消費が多いって怒られましたからね。うちは有沢課長が紙派だからって言い訳しときましたよ」
「悪いな、風当たり強くして」
「大丈夫ですよ、今度飲みに連れて行ってもらえれば」
軽やかに言い残して席に戻る部下から、柑橘に似た芳香が漂った。今時の男子は香水遣いが上手だなと、和也は資料に関係ないところで感心してしまう。
20代前半で簿記専門学校を卒業して以来、和也はずっと現在の部品製造会社に勤務している。部下は20代から40代までの優秀な男女6人。人間関係に大きな問題がなく、穏やかに仕事をしていられる環境は、48歳の会社員としては恵まれているほうだろう。
渡された資料に目を通そうと、和也は眼鏡を取り出した。昨年の父の日に拓から贈られた、きれいなブルーの老眼鏡。資料をデータでなく、紙で確認したい理由の一つには、この眼鏡を使いたいというわがままも含まれている。
昨年の春、大学を卒業した拓は家を出て、恋人のちえみと暮らし始めた。和也はそれ以来、息子が巣立った家で独り暮らしだ。
もし京香が生きていたら、夫婦ふたりでどんな日々を送っていたのだろう。和也は時々、そんなことをぼんやりと考える。
「コーヒーもらってきますけど、課長も飲みます?」
不意に声をかけられて、和也は顔を上げた。部下のひとりが、トレーを持って立ち上がっている。給湯室のコーヒーサーバーへ行くのだろう。
「あ、頼んでいいかな」
「いいですよ」
そう、今は仕事中だ。再び資料に目を落とし、和也は数字に集中し始めた。