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小説|ひまわりの足跡②

◇◆◇

 社会人になって最初の十月、半期決算がやって来た。
 毎月の月初には、前月一ヶ月分の損益計算書と貸借対照表、そして関連する必要書類を出しているが、この月はそれに加えて、半年分のものも出さなくてはならない。決算時に処理する特別な勘定もあり、経理部はめいっぱい慌ただしくなった。
「三月の本決算は、もっと大変だからね。今回説明すること、今はよくわかんなくても、しっかり聞いててね」
 そう前置きして、決算の何たるかも知らない僕に、彼女は相変わらず、きちんと説明をしてくれた。
「これはね、上期に仕入れたけど下期に売るものの原価を、下期に持ち越してるの。上期の原価は、上期の売上に対応する分だけ、反映させなきゃいけないから」
「・・・・・・えっと、でも、支払いは上期に出たんですよね」
「そう、だから決算の時に、この処理で辻褄を合わせるわけ」
 自分の仕事を、決算業務までこなしながら、僕の指導までするのは、彼女にも負担だったのだろう。普段は、三時ちょうどに帰宅する彼女も、この時期は毎日のように、五時頃まで残業をしていた。
「なあ、それ、今やらなきゃいけないことか?」
 そんな彼女に、先輩の男性社員が苛立ちをぶつけたのは、経理部の緊張感がピークに達した頃だった。
「初めて半期やる新人に、そんな細かい説明しても、どうせわかんねえだろ。来週までに決算書出さなきゃいけないんだよ、今はとりあえず業務やらせて、落ち着いてから説明しろよ!」
 部内だけでなく、フロア中に響くような怒鳴り声。その原因が自分にあるのだから、僕はどうしていいかわからず、俯くことしかできなかった。
 しかし。
「駄目ですよ。今、ちゃんと説明しないと」
 彼女は、いつもの穏やかな口調のまま、きっぱりと反論したのだ。
「忙しいからって、目の前の仕事を右から左に流すだけじゃ、何も頭に残らないですもん。後で説明しても、何が何だか、全然わかんなくなりますよ」
「今はそれでいいだろ、わかんねえんだから。そのうち回数こなせば、自然に覚えるだろうが」
「業務のやり方は、確かに覚えますよ。でも、どうしてこうなるのか、どこからこの数字が来てるのかとか、大事なことはわかんないままになります」
「今、いちばん大事なのは、決算書の納期だろうが!」
 頼むからやめてくれよ。そう願いつつも、僕は何も言えず、冷や汗をかきながら俯き続けるしかなかった。彼女が、どんな表情で反論しているのかさえ、見ることができずに。
「まあまあ、こんな時に喧嘩しなくてもいいだろう」
 二人の間に、課長の声が割って入った。決算書も大事、新人を育てるのも大事。残業して頑張ってくれてるんだし、スケジュールも遅れてないんだから、別にいいだろ?
「ったく、上に気に入られてるやつは、やりたい放題でいいよな」
 先輩が、捨て台詞を置いて仕事に戻り、僕はやっと、顔を上げることができた。そして、どんなに怒っているかと、おそるおそる彼女の顔に目を向けて。
 けれど、それに気付いた彼女は、不機嫌どころか、涼しい顔で笑ったのだ。
「・・・・・・なんだか、すみません」
「気にすることないの、私が好きで細かく説明してるんだから」
 どうしてここまで、彼女は僕を育てようとするのだろう。その時、ふと浮かんだ疑問は、彼女が再び説明を始める、はきはきした声の中に溶けて、静かに消えていった。

 会社の外で、僕は一度だけ、彼女に偶然会ったことがある。
 ハロウィンが終わり、店のデコレーションが、ジャック・オ・ランタンからクリスマスツリーへ一気に変わった、土曜日の午後のことだ。新しいコートが必要になり、独りでショッピングモールを訪れたとき、チョコレート売り場の前で彼女を見つけた。
「わ、偶然!」
 綺麗なグリーンのセーターに、ベージュのフレアスカートを合わせ、真っ直ぐな長い髪を下ろして。そんな彼女は、会社での事務服姿より、少しだけ若く見えた。
「独りなんですか? 旦那様は?」
「休日出勤なんだって」
「いつも忙しそうですもんね、営業って」
「営業はそれくらいでちょうどいいの。会社にお金を持って帰れる部署、そこしかないんだから」
 少しお茶でも飲もうかという話になり、僕達はショッピングモールの中にある、スターバックスに向かった。混雑の中、ひとつだけ空いていたテーブル席を、彼女のハンカチで何とか確保して。
 あまり時間がないという彼女は、ショートのチャイティーラテ、暇な僕はトールのカフェラテ。彼女の分も払うつもりが、逆に奢られてしまった。
「休みの日は、いつも外に出るの?」
 普段は仕事の話ばかりしている相手と、いきなり休日に向かい合っても、何を話せばいいか困るものだ。必死に話題を探す僕より、彼女の方が、話のきっかけを掴むのが早かった。
「俺、あんまり出かけないんです。友達に誘われれば、遊びに行きますけど」
「私もそうだよ、家事したり、うちの猫と遊んでると、あっという間に休みなんて終わっちゃう。旦那も疲れてるしね」
「あ、でも俺、この間部長に、簿記一級取れって言われれちゃったんですよ。だから、これからは勉強しないと。難しい、ですよね?」
 その資格を、彼女は専門学校で既に取得していた。
「難しいよ」
 案の定、予想通りの答え。
「やっぱり。俺に取れるのかな」
「取るの。取らなきゃ。これからの会社の風当たり、絶対変わるもん。私、期待してるんだからね」
 彼女にしては珍しい、強い口調だった。
「期待? 俺にですか」
「期待してなきゃ、細かく仕事教えたりしないでしょ」
 チャイティーラテのカップを持つ指先に、ラベンダー色のネイル。こんな話をしているのに、僕は何故か、その色に一瞬、目を奪われた。
「そういえば、どうしていつも俺に、あんなに詳しく、いろいろ教えてくれるんですか?」
 素直にそうきけたのは、ネイルに心を少し逃がしたことで、逆に話がしやすくなったせいかもしれない。
「私もね、一度くらい、人を育ててみたかったの」
 そして、答えが返ってきた。
「人を、育てる?」
「私、いろいろあってね。専門学校を出て、今の会社に入ってからずっと、短時間で働いてきたの。でも、ほら、うちの会社、新人が来ても、教育係は正社員にしかやらせないじゃない?」
 確かに僕の会社は、正社員と非正規の間に、はっきりとした線を引いている。上役に頼られる短時間社員など、彼女ひとりだけだった。
「でも今回、教育係じゃないけど、実質は私がいろいろ教えていい、って言ってもらえたのね。だから、私、張り切っちゃって。初めて、新卒の新人に、自分が持ってるものを伝えられるんだなって」
 そんなものなのかな、キャリアを積むと。
 人を育てたいという気持ちが、社会に出たばかりの僕には、まず理解できなかった。知識があるから、自分の力を誇示したいと言うならわかるけれど、努力して得たその武器を、赤の他人に伝えたいなんて。
「私、専門的なことも、勝手にがんがん話しちゃってるけど」
「まあ、正直・・・・・・よくわかってない、です」
「でも、私が言ったこと、毎日ノートに書いてくれてるって言うのは、前から聞いてるよ。私、それがすごく嬉しくて、もっといろいろ教えたくなっちゃうんだ」
 走り書きのあのノート。ただ書き続けているだけの。
「仕事ってね、最初は意味がわかんなくても、ある日突然、電気が通ったみたいに、いろんなことが見える時が来るの。そうなった時に、そのノートが役に立ったら、私もきっと、改めて嬉しくなるって思うんだよね」
 そんな日が本当に、僕にも来るのだろうか。その時の僕には、目の前で彼女が紡ぐ言葉さえ、飲み込めていなかったのだけれど。
「でも、私がずっとあそこにいるとは限らないし、いつまで教えられるかも、正直わかんないじゃない? だから、自分で簿記の勉強して、一級を取るのも、すごくいいことだと思うよ」
「そんな、ずっといてくださいよ」
「それは無理でしょ。私もいろいろあるもん」
 そういえば、不妊治療をしているという噂があった。そうか、たとえばそれが実って、子供を授かったら、今のままではいられないのか。
「だからね、頑張って。私が協力できる間は、いろいろサポートするから」
 にっこりと、大きな笑みを浮かべながら言うと、彼女はカップに口をつけた。明るい、何度も見た笑顔。
 そうは言っても、彼女が会社を去るのは、まだ先のことなのだ。ずっと先の話なのだから。
 その時、馬鹿な僕はそんなことを思い、呑気にカフェラテで喉を潤していた。

 そして。
 十日後、異変が起きた。

◇◆◇

 突然、頬に何かが触れる感触が、僕を現在へと引き戻した。
 昔のことを思い出すうちに、いつの間にか数歩、足を進めていたらしい。僕の頬を撫でたのは、小道の端に咲く、背の高いひまわりだった。
 あれ、どこ行ったかな。妻と息子の姿を求めて、僕は小道の先に目を向ける。意外と遠くに、手をつなぐ二人の姿があった。
 もし、今の僕を彼女が見たら、いったい何と言うだろう。
 住宅ローンを返済しながら、家族と自分のために、働き続けるマイホームパパ。会社では、先日、経理二課長への内示を受けたばかりだ。高卒社員としては、異例の若さでの出世だし、幹部候補への第一歩だと、部長が上機嫌で言ってくれた。
 今では、彼女に教わったことを書き留めた、ノートの中身を、すべて理解できている。簿記一級も取得したし、前々回の決算からは、部長に同行して、幹部の決算会議にも出席するようになった。家庭も仕事も、今のところ順風満帆だ。
 人を育ててみたかったと、彼女は言った。
 それなら、今の僕は、彼女が育てたかったような社会人に、ちゃんとなれたのだろうか。
 できることなら、彼女に会って、その答えを聞いてみたい。よく頑張ったねと言ってくれるか、それとも、まだまだだよと笑われてしまうのか。
 けれど、もう二度と、彼女に会うことは叶わない。
 妻と息子の姿が、少しだけ大きくなり、僕はふたりが、こちらへ歩いているのだと気がついた。程なく、僕のところに戻ってくるだろう。
 それまでの間、もう少しだけ、昔のことを思い出していたい。
 短いタイマーを頭の隅にセットして、僕はまた、思考回路を逆回転させていく。

ひまわりの足跡③へ続く〕



  

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