髙田祥聖の、ときめ句!①

心待ちにしていた、という言いかたは誇張ではないと思う。
誰よりも早く読まなければ、と思った。
ネタバレが嫌だとか、そういう気持ちからではない。
「一歩だけでいいから、いちばん最初に霜柱を踏みたい」
そんな気持ちだった。

句友の滝澤凪太さんが自身の俳人生活20周年を記念して、句集『まつすぐ』を上梓された。
本記事は、凪太さんの句に触れつつ(本記事にある俳句はすべて句集より抜粋)、少しだけ思い出話がしたいという気持ちから書いている。
今年はいろいろありがたいご縁があり、「かたむ句」や「ふりむ句」などの長文を書く機会に恵まれているのだが、本記事はそれらのどれにも属さない。
敢えて言うならば、「ときめ句」であろうか。

わたしが、凪太さんについて話さないのはなんとなくフェアではないと思う。ただ、どう話すことが適切なのかと考えるとなかなか難しい。
お手本がない。サンプルがないのだ。
そのくらい滝澤凪太はオリジナルなのだと思う。

らしさなんていらない蕗はまつすぐだ

句集のタイトルである「まつすぐ」という言葉がある句。実はこの句、句集のいちばん最初に置かれている句である。いきなりネタばらしかよ、と笑ってしまった。
ややあって、これは覚悟なのだな、と思った。

「らしさ」とはなんなのだろうか。
わたしらしさ。あなたらしさ。おとこらしさ。こどもらしさ。「らしさ」と付かなくても、わたしはわたしではないのか。「あなたらしくないね」と言われたときの、わたしは誰なのか。

「らしさ」という言葉は、なんとなく本質に靄をかけてしまう。
そんなものはいらない、と 蕗を見て思う。
どうして蕗?とも思うけれど、草冠に路という字を名前に持つ「蕗」は、そのように思うきっかけに相応しい。

なんて、もっともらしいことを書いたけれど。
ほんとうは「ただそこにあったから」くらいでいい。
飾る必要なんてない。らしさなんていらない。

蛍かもしれない嫉妬かもしれない

凪太さんと、お会いしたのは二度。
須坂での句会ライブと、今年のあしらの俳句甲子園。

あしはいの後の飲み会では、バーカウンターに並んで座ってお話をした。

「どうして俳句でそれを言いたいの」と訊かれたことを覚えている。
……ちがうな。ニュアンスがちょっとちがう。
「なんでわざわざそれを俳句で言いたいの」、だ。
丁寧に、正確に、ときどき自分自身に確認しながら、わたしなりの答えを言葉にしていった。

蛍を見つけるときの距離感は、ひとめぼれの距離感に似ていると思う。
遠すぎず、近すぎず。
気持ちに名前が付くよりも早く、視覚情報が脳にたどり着くくらいの距離。
蛍かもしれない。と言いつつ、気持ちは蛍だというほうに傾いている。
嫉妬は。
嫉妬かもしれない。と言いつつ、気持ちは嫉妬だと理解している。
「しれない」とわざわざ言うのは、それを認めたくないという気持ちに他ならない。

薔薇群れて命令形の香を纏う

この句を初めて目にしたとき、「作中主体は人間の持つ孤独に対して自覚的なんだろうな」と感覚的に理解したことを覚えている。
人間の持つ孤独に対して自覚的であるということは、自分自身の孤独を客観的に見つめることができているのとほぼ同義である。

薔薇は強者のイメージがあるが、この句の薔薇は群れることで初めて命令形の香を放つことができる。
「薔薇一輪命令形の香を纏う」のではない。
孤であるのは、むしろ作中主体。
群れている薔薇に感じるものは、反発か、侮蔑か、それとも憐れみか。
「群れて」と認識しつつ、作中主体は薔薇一輪一輪の個の香を嗅ぎ分けることができそうな気がする。

春浅し知らない人の作るカレー

凪太さんといえばカレー。カレーといえば凪太さん。
カレー句に触れないまま終わっては、礼を失するであろう。

カレーは大衆食でありつつ、だれもが「わが家の味のカレー」を持つ。わたしもカレーを作ることがあるが、母とまったく同じ味のカレーを作ることはできない。不思議である。
社会的というよりは「意識の海」の側面を持ちつつ、ひどく個人的な側面もある、カレーという食べ物。
お店で出てくるカレーはたしかに家庭の味ではない、「知らない人の作るカレー」の味である。
が、ある意味ではカレーとしてのメインストリームであるのかもしれない。わたしたちはカレーの大海を知らない蛙なのかも。

句集『まつすぐ』の発売日を、わたしは即答できる。
八月二十三日の金曜日。大安の一粒万倍日。
日取りを気にされるところが少し意外で、でもたしかにと納得できた。
こうしたちょっとしたこだわりは「わたしん家のカレー」に似ている。
わたしも六曜はなんとなく気になる。
ちなみに、本記事が公開となる九月二十九日は仏滅の一粒万倍日である。

『まつすぐ』は、収録されている句数が三十句ほどと読みやすく、「こうした句集ならちょっと頑張れば自分でも作れるのではないか」と思わせる句集である。句集を作ってみたくなる句集である。

先月、わたしが松山まで行ったのは俳句甲子園のためだけではない。松山には、いつき組にとって、わたしにとって、特別な出版社さんがいる。
まあ、残念ながら、年末の東京の文学フリマには当選できなかったけれども。


大事なおはなし。
句集『まつすぐ』はこちらから購入可能です。


さて。
あらかた書きたいことは書けた気がする。
今回は「意識の流れ」というか、理路整然に、というよりは、話したいことを話したいタイミングで書いている。

直接伝えたいことはここでは書かない。


凪太さん、句集発行おめでとうございます。
句友、という言葉じゃなんとなく足りないのですが、なんていえばいいのかな、誰かの句集が読めるということはこんなにも嬉しいことなんだと思いました。

伝えたいことはここでは書かない、と書きつつ、伝えたいことを凪太さんは見抜いてしまうんじゃないかと、なんとなく思っている。
あのときの、凪太さんの目を思い出している。

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