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うしなわれた・・・を求めてー大崎善生という作家ー〈おそらく、その1〉

 齢七十、いわゆる古希を目の前にして、改めて自身の不明、無知を思い知るとはこのことです。かねがね、あなたはなんにも解っていないと妻から言われ続けていましましたが、いまさらながら、そのとおりだと首を縦に振らざるを得ません。

 リタイアといえばいいのか、年金生活者になって五年目の節目?なのか、誘いに応じて半世紀ぶりに同窓会に顔を出して、子供時代を共に過ごした竹馬の友の半数以上がすでに彼岸に旅立ったことを識りました。
 その後、通い慣れた図書館で十代向けのアンソロジーを手にとり、一人の作家に出遭いました。
 その名は大崎善生。
 作品は『ケンジントンに捧げる花束』。
 読み終えて、そこに私小説的な感触を覚えネット検索をしました。
 映画化された夭折の棋士を主人公にしたノンフィクンション小説があって、そのイメージが強すぎて、永らく敬遠していたことが判明。先入観とは恐ろしいものだと痛感しました。
 もっとはやく、彼の作品を読むべきでした。
 次に手にしたのは、短篇集『九月の四分の一』。収録されているのは表題作『九月の四分の一』と『ケンジントンに捧げる花束』に加え、『報われざるエリシオンのために』『悲しくて翼もなくて』の計四作品でした。
 まず、『悲しくて翼もなくて』を読みました。紛れもなくある作家の残り香ないしは移り香が漂っていました。続いて『報われざるエリシオンのために』『九月の四分の一』を読みました。熱に魘されるように、次々に読み耽るという経験は久しぶりでした。

 残り香あるいは移り香とは、まぎれもない村上春樹の《香り》でした。あえて一つ一つ香りを特定するなら、『悲しくて翼もなくては』は『ノルウェイの森』の、『報われざるエリシオンのために』からは『蜂蜜パイ』の、『九月の四分の一』には『ノルウェイの森』と同じ香りを嗅いだような気がします。
 それはただ単に似ているということではありません。たとえば、『悲しくて翼もなくては』における、ツェッペリン愛とでも呼べる愛憎には、最近の村上春樹作品に漂う衰弱とも劣化とも映るある種のオワコン感とのシンクロすら看取されます。本歌を超えた本歌取りの域に達したと評価できるように思います。

 もうすこし、彼の作品を読んでみたいと思います。
 

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