しなやかに生きるためにわたしは学ぶ。
変化が激しい不確実な時代だからこそ、学ぶことは大切だ。そう、強く思う。
そんなかっこつけたことを言ってるけど、わたしが大学院進学した理由はぶっちゃけ、「ちょっと、まだシューカツする心の準備できてない、、」って思ったから。
表向きは「敷かれたレールになんかのらねーぜ!」って見栄はって、必死に代替案を探してたけど、結局は「学生から社会人へ」という急激な変化が怖くて仕方なかっただけだった。
結果論にはなるけど、院進学という選択をしてよかった。「敷かれたレールが否か」という判断基準とはまた別の視点から、学ぶ意味と生きる意味を、見つけつつあるから。
最近の、世の中の変化は、本当にめまぐるしい。世界中が複雑な糸で絡まり合って関係していて、それを解きほぐして理解するのは至難の技。その中でサバイブしていくなんて、ましてや...。
それと同時に、SNSのおかげで、一人ひとりが自分自身の価値観を発信できる時代になった。生き方も、選択肢も多様になった、ように思う。
一言で表すなら、「混沌」の時代。
こんな時代に、わたしが学ぶのは、「しなやか」に生きるためだ。と思う。ひとつの芯はあるけれど、急激な変化にもグニャグニャと対応する。例えるなら、バレエダンサーかな。美しく柔らかい踊りの表現は、強い体幹に支えられている、みたいな。(例えが下手...)そうやって、複雑な糸が絡まり合った世界をサバイブする。
一人ひとりが自分の中の「正解」を発信する。中には、それがあたかも「唯一の正解」のように、それに従えなければ人生"うまくいかない"ように煽る人もいる(ように思う。)いちいち、溢れる情報と人々の考えに右往左往なんてしてられない。そうしている間に人生の終わりを迎えてしまう気がする。
大事なのは、溢れる情報の中から、何を知り、そこから自分は何を考え、どのような選択をし、自分なりに生きていくか、ということかもしれない。
その訓練を、研究という形で大学院でしているのかもしれないし、そもそも今までの選択全てを含めた「途中経過」が人生とも言えるのかな。
これが、人生25年目につい最近突入した等身大のわたしが、今出せる精一杯の答え。
25年後にまた見返してみたら、違った答えがあるのかもしれない。あの時は青かったなあと苦笑いするのかも。
このプロセスを楽しむのも、また人生だ、と思ってとりあえず今を生きてみる。