「捨てられたデータ」は無駄なのか
たまには、院生っぽいことを。
先日、研究室の議論の中で、
「行き当たりばったりで、発表の時に使わなかったデータがたくさんあった。もっとちゃんと計画して『捨てるデータ』をなるべく少なくなるようにしたい。効率よくデータが使えたらいいよね。」と発言した人がいた。
わたしにはとても新鮮な意見に感じたので、ふーん、そんな考え方もあるんだ、くらいに聞いていた。けど、後になって「うーーん、本当にそうなのかな?」という気持ちも湧いてきた。
社会学(みたいなもの)を専門として学んでいると、社会学は「社会を『理解する(しようとする)』」学問かもしれないな〜と思っている。
ある地域社会を理解するためには、先行研究を読んだり、統計データを地道に分析することでわかることもたくさんある。それはもちろん重要だけど
「行ってみないとわかんない」こともたくさんある、というかむしろそれしかない。
先日受けた統計の授業でも「自然環境に関するデータの分布は綺麗な正規分布に従うけど、人間に関わる社会経済的データの分布は最初から歪んでいることを疑った方がいい」と言われた。富や権力は偏在するからね。
人間が作り出す社会って、たくさんの人の思惑や価値観や信条などなど...が複雑に絡み合っていて、簡単に、分類したりラベルを貼ることってかなり難しい(それでも、分類して、ラベルを貼って、整理することが「科学や研究」の役割だったりする)。
だから、最初から計画した通りになんて、データが集められないに決まっているのだ、と思う。行ってみて、調査してみて、軌道修正することなんて山ほどあるし、想像もできなかった新たな発見があって、研究テーマでさえ変更を余儀なくされることだってある。
かといって、変更してしまった過去の研究テーマや、検証するに至らなかった「仮説」や、「集めてきたけど結局論文には使えなかったデータ」が無駄、だとは決して言えないだろう。
だって、そのデータや事実の存在がなければ、「完成品」となった論文は生み出せなかったのだから。
データを取捨選択したり、これから集めるデータを変更したり、そのプロセス含めて研究だと思うんだよなあ。
あまりにも無鉄砲に、何にも考えずに「とりあえずデータ集めとくかあ」って姿勢はあまり褒められたものじゃないけど
データをいかに「効率よく集めるか」みたいな考え方で調査しようという姿勢は、「社会を舐めてる」ように思えてしまうな....。
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