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稲垣吾郎のためにある舞台であり運命
吾郎ヲタ仲間の1人のnoteをリンクする。
一報を聞いて
「来たーーーーーーーーー!!!」
公開されるビジュの一つ一つが
今まで吾郎さんに求めていた世界観で
いちいちピタピタ来るのが憎かった。
あの頃の私はどうして暮らしていたのか。
2件の仮設住宅を行ったり来たりしながら、家の再建と仕事と副業をこなして、ヲタク業の大半は本当に積んでおく時代。
それでもこの作品の重み タイミングそして稲垣吾郎という存在にどれくらいマッチして、どのように舞台が進むのか
どんな役でも吾郎さんが演じるなら受け入れるヲタクでも、この役だけは誰にも譲れないしこの世界観を他の誰かに渡したくない、そんな板の上に彼は請われてそして立つのだ。
ベートーヴェンの魂が時を超えて、現代の日本で咆哮していてもおかしくないほどの、熱と臨場感が舞台から客席に向けて波になって襲ってくる。
歴史の主役が貴族から市民に移りつつあるヨーロッパの片隅で、市民が愛する歌を造りながらも音からは見放される楽聖の悲しくも愛しい背中を彼はその佇まいで表現する。
ベートーヴェンは自分の人生のあとに、こうして異国の地で自分の作った歌が歌われそして自身を演じる舞台が生まれることを予想もしなかっただろう。
小さな人間たちの無量の人生の積み重ねである歴史は、こうしたイタズラを何度も繰り返していく。
私達はそのイタズラをこの目で見て、舞台の中央でウィーンの喧騒を眺めるベートーヴェンの息吹を感じられる幸運を得た。
人は誰もが変人で偏屈だ。
その程度が楽聖か庶民の分かれ道かもしれない。
今年も年の瀬の東京に、第九の似合う冬がやってくる。