【随筆】 話すことが苦手だったから書くことにした 【エッセイ】
ボクは昔から会話が苦手だった。
話すことが苦手なのは、会話というものが自分のペースで進められないからだ。
けど、書くことは完全に自分のペースでできる。言葉を選ぶときに、自由で正確な表現ができる。その自由さが心地よい。
会話が上手い人は、それを絵画にたとえるなら写実的な絵をさらっと書ける人だろう。
それができるのは彼らの頭のなかがクリアーだから。彼らの目には余計な景色など写らないのだ。見えるのはくっきりとした輪郭線。その境界線が言葉選びを楽にしている。
自分は違う。自分の描く絵は印象派の絵画のようにボヤけていて、ときに抽象画のような混乱をきたす。それはボクの頭のなかがカオスなもので満ちているからだ。
そこから見える景色は、混沌としたひどくイビツで稚拙なもの。残念な落書きだった。
会話というものは、レスポンスの速さを求められる。それは言葉を選びたい人間からすると大変なことだ。会話は次々と話題が変わるからだ。それは一つのことをじっくり突き詰めて考えたい人には苦痛である。
まだ言いたいこと、伝えたいことがあったのに、それができない。
会話というものを将棋にたとえるなら、それは早打ちだろう。プロであれば、早打ちの将棋でもゲームとして成立する。ちゃんとカタチになる。だが将棋の素人が早打ちをしたら、ゲームとしてカタチにならない。
会話が苦手な人というのは将棋が下手クソなのに、じっくり考える間もなく早打ちさせられている感覚なのだ。
会話が苦手な人は皆そうだと思うが、自分は人前でアドリブで話すことも苦手だ。いや苦手を通り越して苦痛にすら感じる。
聴衆の前でアドリブで話すことが、なぜこんなにも苦手なのか。もちろん、注目されているという緊張がある。話すことに自信がない自分がそこにいるのも分かる。
でもボクの場合は、伝えたいと思うことがあまりに深すぎたのかもしれない。その深さはなんというか、心の底から人と分かり合いたいと思う欲求。うわべではない本音や本心。本当の言葉で話したいと願う、自分のちっぽけな願望、エゴだったのかもしれない。
先ほど、会話を将棋にたとえたが、ボクは文章でもかなりの長考派である。
それは最高の一手ではないかもしれない。そのゲームは負けるかもしれない。
それでも、人の記憶に残るような味わい深い一手を残してみたいのだ。