駿馬と水牛
昼休みの屋上。初夏の日差しも厳しく、そろそろ熱中症予防対策かクーラーの効いた校舎内への避難かの二択を迫られる頃、ソイツは現れた。
「……失礼、しまーす。……なんて」
ソイツは解放厳禁の筈の重たい金属扉をのろのろと押し開け、驚くほど生気のない声で独り言の挨拶を呟いた。女子、だった。
「……大したもてなしもできず心苦しい限りですっと」
「……?」
脅かし半分からかい半分でもてなしてやろうとして塔屋の上から顔を出したが、彼女は期待したどちらの反応も示さずげに無感情な瞳をこちらへ向けるだけたった。
「……ここ普通、生徒立入禁止ですよ」
「知ってる。俺、普通の生徒じゃねーし」
「…………そう、ですか」
消え入るように言うと、少女は金属扉に掛ける力を緩め、校舎に引っ込もうとした。俺はそれを見て塔屋の屋根から飛び降り、扉に足を掛けて閉まるのを止めた。
「……何でしょうか」
「何で止めるんだ? 自殺」
「!」
「いや、そんなに驚かれてもな。死んだ目して立入禁止の屋上にフラフラ上がってくるとかそれ以外考えられんし」
俺は少女のか細い腕を掴む。
「……放してください」
「暇してたんだ。冥土の土産と思って付き合え」
口では不満を言うものの、抵抗らしい抵抗が見られない少女を屋上へ引きずり出し、少々強引に塔屋の日陰に座らせた。埃っぽい所に座らされるのを気にする様子は見られなかった。
「……自殺をやめるよう、説教ですか?」
「違ぇよ。暇だったんで気紛れで捕まえちまった。良く考えたら自殺考えてる女の鬱話とか面倒極まりないから全く聴きたくねぇや」
「本当に気紛れさんですね……」
少女は困ったようにぎこちなく、微かに微笑んだ。
「――んだよ、喪女かと思ったら笑ったら可愛いのな」
「かわっ――!?」
「ていうか普通に可愛いじゃん。ネクラみてーな真似してんなって勿体無い」
「……口説いてますか?」
「違ぇよアホ」
「えへへ」
数言、言葉を交わしただけで、この少女は『世界の終わり』みたいな表情から控えめながらニヤケに近い笑顔になった。
――なんというか、チョロい。
「……オイ、昼休み終わるぞ」
「あ……」
少女は携帯電話を開いて時刻を確認し、名残惜しげに俺を見た。
「……いや、俺時とか止めらんねーよ?」
「……アドレス交換したいんです。察してください」
「お前友達少ねーだろ。コミュ障め」
長らく使っていなかった赤外線受信を多少手間取りながら起動し、少女の持つガラケーに向ける。
「まず私が受信しますね」
「先に言え」
赤外線を閉じてから自分のユーザ情報を赤外線に共有する。スマートフォンはこういうところが面倒くさい。
「弓月 修治 、先輩……」
「ほれ、感傷に浸ってないでお前のも送れ」
「は、はい……!」
はっとしたように後輩らしい少女は再び携帯を操作し始める。俺もそれに合わせて赤外線受信を呼び出す。
受信した後輩少女の名前欄には『美月』とだけ表示されており、後は電話番号とメールアドレスだけのシンプルなものだった。
「ミヅキ、ね。お前、名字は?」
「……上の名前は、好きじゃないので」
目を逸らされる。詮索する理由もないので特に追求はしない。
話題の切れた俺たちの間に、電子的で味気ない予鈴が沈黙を見計らったかのように割って入った。
「あっ……あの、弓月先輩。また……」
しどろもどろな口調で頭を下げる美月。――『また』って何だよ? その意図を問う前に錆びかけの扉は軋んだ音を立てながら閉じてしまった。
† † †
結果から言うと、あの時に美月の意図を問いただす必要は全くなかった。
翌日から彼女が、昼休みに二人分の弁当を携えて毎日屋上へ現れたからである。
「こんにちは、修治先輩」
今日も立入禁止のくせに鍵の掛かっていない金属扉が開き、出会った当初より幾分明るくなった声が俺を呼ぶ。
「……よくもまぁ、飽きもせずにいつも来るよな」
「先輩こそ、何で毎日屋上にいるんですか? 授業出てますか?」
「……」
答える代わりに、俺はスラックスのポケットからソフトケースを取り出し、煙草を一本振り出して火を付ける。
「あっ、いーけないんだいけないんだ~♪」
「先生に言っちゃおう、ってか?」
美月は副流煙を嫌がる素振りも見せず、俺の隣に座って腕にすり寄る。
「言いませんよ。先輩がこの学校から居なくなってしまったら、わたし死にますから」
「元々自殺しようとしてた人間が何言ってんだか」
「先輩こそ、たばこなんてやめてください。嫌いじゃないですけど、体に悪いですよ」
「飛び降り自殺なんかよりよっぽど健康的かつ健全だ」
溜め息を誤魔化すように、肺に紫煙を溜め込んで吐き出す。
「……先輩は、自殺しようとか考えた事ありますか?」
「……さぁな。ただ、わざわざ死ぬのは下らねぇとは思う」
「…………下らない、ですか……」
ポツリと呟くなり、美月はだらしなく投げ出した俺の脚の上に跨り、俺と正面から向かい合う。少し煙たそうにしてるので、半分以上残っているが煙草は消してやった。
「先輩……わたし、今でも先輩と居ない時はいつも自殺することばっかり考えています」
そのまま美月は、俺の胸に体重を預けるように倒れかかってきた。鼻腔を甘い匂いがかすめる。
「わたし修治先輩が居なかったらただの下らない人間ですね。一つ上なだけの先輩に命まで預けるような真似して、依存して……」
そのまま猫のように、声を震わせながら頬をこすり付けてくる。涙を拭くのだけが目的とは考えづらい。
「えへへ……ほんと、なんでわたし生きてるんでしょうね」
「……俺が、知るかよ」
胴に回されたか細い腕に力が籠る。地味に、痛い。
「――先輩のせいですよ?」
「あ?」
「あの時、先輩が屋上に居なければ、わたしはとっくに死んでいました。死ねていました。なのに、何で……何で、私なんかの前に現れたんですか……!?」
随分と勝手な話だ。こっちは勝手に依存され、勝手に生きる理由にされてしまったというのに。
「勝手に依存させないでください! 勝手にわたしの生きる理由にならないでください! 勝手に人の――」
「――じゃあ、なんだ。責任とって殺せってか」
皮肉でもヤケクソでもなく、自分でも驚くほど自然に、スルッと喉から声が出ていた。自分は何を訳の分からない事を言ってんだ。――だが、不思議と後悔も何もない。まるでそう言うのが必然だったかのようだ。
「――――殺して、くれるんですか……?」
悲痛な独白を遮られた彼女の声音には、さして驚いた様子はなかった。顔を俺の胸元から離すと、涙のたまった瞳で俺の顔を見上げた。
「お前が、それを望むなら」
バカじゃないのか、犯罪だぞ。
俺(おまえ)は一体、何を考えている?
「……修治先輩が、わたしなんかのためにその手を汚してくれるのなら」
言いつつ、美月は胸元のリボンを解き、ブラウスのボタンを上から数個外す。白く細い首筋に鎖骨、思いの外深い谷間の一部が露わになる。
「お願い、します」
屋上の床に仰向けで寝転がった美月に、何かに操られるように馬乗りになって首に両手を掛ける。
――最初は軽く、徐々に力を込めて。
「――んっ、く……」
「……」
美月が苦しそうに眉根を顰める。抵抗は、無い。
「かっ、は……! あ……ぐ、かはっ……」
血管を締められてるためか、苦痛に歪む顔が段々と紅潮してきていた。ああ、もうすぐオチるのかな――なんて、まるで小学校の理科の実験観察でもするような気分で自分に組み敷かれて痙攣する少女を眺めていた。
「………………ぃ、ゃ…………!」
「――!」
途端、俺は突き飛ばされたかのように手を放した。その時になってやっと、抵抗するかのような脈動や生々しい体温の感触が途轍もない罪悪感と共に俺を苛んだ。
「かひゅっ、ゲホッゲホッ!」
「…………満足したか……?」
「ハァ、ハァ……ごめん、なさい…………」
喉をひゅうひゅう言わせながらうわ言のように「ごめんなさい」と繰り返す美月を、俺は黙って見ている事以外に思いつかなかった。
† † †
「修治先輩、好きです」
その翌日も美月は変わらずやってきた。
出会い頭にこの一言である。
「……何だって?」
「好きです、先輩。大好き」
「寝言は死んでから言え」
「それ心霊現象ですから」
くすくすと自然体で笑われる。告白は冗談じゃないようだ。
「昨日殺されかけた相手によくそんな事言えるな。ていうかまた会いに来た時点で驚きだよ」
「お付き合いしてください」
「聞けよ」
美月は今日も変わりなく自家製弁当を広げ始める。しゃがんだ時に制服から覗くうなじに、くっきりと残った赤黒い跡が目に付いた。
「……で、どうなんですか? 可愛くて巨乳かつドSな修治先輩好みの後輩がコクってますよ?」
「自分で可愛いとか言うなよ。あと巨乳って嘘だろ」
昨日の谷間を若干思い出しつつも平静を装う。
「わたし結構着痩せするんです。昨日見えませんでしたか? 何なら脱ぎますけど」
「それこそ付き合ってからにしろ」
シャツのボタンに手を掛ける美月のデコにチョップを入れる。
「あうっ……もっと、強く殴ってぇ……」
「何お前超キモい」
昨日のアレで何か要らない性癖に目覚めさせてしまったのだろうか。それともこっちが素だろうか。
……どっちにしても良い思いはしないだろうし、訊きたくない。
「それで、返事はどうなんですか?」
「駄目だ」
「……ヘンな感情を抱くのもバカバカしくなるぐらいバッサリ行きますねー」
「期待させんのも不誠実だろ」
「そういう誠実さもわたし大好きです。どうしてダメなんですか? 変態はお嫌いですか?」
振られたにも関わらずアピールしてくるコイツの根性には呆れを通り越して尊敬の念すら出てきそうだ。
「自覚は有るんだな……。いや、変態とかはともかく、お前の場合それは恋愛感情じゃなくて依存に近い」
「……認知、してるつもりです」
美月が俯く。やはり後ろ暗い気持ちはあるらしい。
「……俺は、お前の生きる理由になってはやれないんだ」
美月の悲しみを押し殺すような表情は、俺を胸に鉛でも流し込まれたかのような気分にさせた。
――仕方ないだろ。俺は、こういう『役割』なんだ。
「はい、わかりました。ありがとうございます」
「……おう」
美月が頭を下げると、造り物の鐘がプログラム通りに校舎全体へ鳴り響いた。
「……ほら、授業だろ。行ってこい」
「はい。……あ、お弁当、よかったら食べてくださいね。では!」
そう言い残し美月は二人分の弁当を置いて行った。……二人分、食っていいものだろうか。
† † †
わたしは、修治先輩に振られた後も暇さえあれば屋上へ上がる。昼休みに加え最近は放課後にも行き、場合によっては授業間の休みにも顔を出す。
先輩は、わたしが行くと必ず屋上にいて、いつも少し不機嫌そうでぶっきらぼうにしている。
――どうしていつも、必ず屋上にいるんだろう?
そんなことを考えながら、今日もいつものようにわたしは二人分のお弁当を手に屋上へと階段を上る。
「こんにちは、修治先輩」
錆びついた鉄扉を、苦労しつつも何とか押し開ける。開閉が重たいのは扉の重量だけではないようだ。
「……おう」
いつもの不機嫌そうな、それでいてくるものを拒まない優しい瞳が出迎えてくれた。
「梅雨も明けましたし、もうずいぶん暑くなりましたね。いかがお過ごしですか?」
「いかがもどうも、絶賛夏バテ中だ。太陽高くて日陰無ぇとかマジで死ねる」
そう言う割に修治先輩は軽く汗をかいているだけで、少なくとも何十分も日当たり良好の屋上で過ごしていた訳ではなさそうだ。日焼けも殆ど見られない。
「そう仰ると思いまして……」
わたしは持参の包みを解き、重箱を開けた。
「じゃーんっ、今日のお弁当はウナギです♪」
「……マジか」
いつも感情の起伏が少ない先輩も、今回ばかりは驚いてくれた。
「ちょっと奮発してしまいました」
「ちょっとどころの出費じゃねーだろこれ……お前んトコの家計どうなってんだよ……」
言いつつも、わたしが差し出したお箸を手に取る先輩。そういう男らしいところも素敵です。
「寒気すんだけど」
「な、何のでしょう……すーすー」
「吹けてねぇぞ」
口笛でごまかす作戦は失敗したようです。
「……前にも言ったけどさ。俺、お前の気持ちを受け止めてはやれねーんだわ」
「……存じています」
わたしの言葉を聞くなり、先輩は大きく溜め息を吐き、煙草を銜えて火を点けた。
「じゃあなんで、こうやって毎日毎日ここに来るんだ。こんな高ぇモンわざわざ買って餌付けして……お前は俺のお袋か何かか?」
「いえ……わたしは、修治先輩の後輩です。それ以上でもそれ以下でもありません」
ギリ、と歯軋りの音がした。
「……もう、お前……ここ来んなよ」
「……えっ? わ、わたし、何かお気に触ることしましたか? もしかしてウナギはお嫌いでしたか? すみません、すぐ別のお弁当買って来るんで……」
「…………っせーな」
「……え?」
紫煙と共に吐き出された言葉を聞き取ることはできなかった。
先輩の視線が、わたしの瞳をまっすぐに射抜く。
その眼差しの奥には、暗い炎が燃えてるような気がした。
「――うっせーって、言ってんだよ!」
コンクリートと骨がぶつかり合う鈍い音。老朽化した壁の塗料の一部がパラパラと剥がれ落ちて先輩の腕にくっついた。
「せん……ぱい……?」
「お前を見てると……あぁ、クソ! ムカつくんだよ! 何なんだよテメーは!? 勝手に人ン所にズカズカ入ってきやがって!!」
先輩がわたしの胸倉を掴み、押し倒す。
後頭部や背中の痛みを気にする暇もなく、わたしの首を重圧が包む。途端に気管が塞がれて、近くに落ちた煙草の煙にむせ返ることすら許されない。
「せん、ぱ……や、め……」
先輩の腕に触れる。思ったよりも硬くて逞しくて、わたしがどう暴れたところでどうしようもなりそうにない。
視界が端から霞んで行く。だんだん、思考も回らなくなって――
ポタリ、と何か液体が顔に落ちてきた……気がする。
そのまま続けて、ポタ、ポタ、と。
――修治先輩、どうしてそんな、悲しい顔して泣いてるんですか?
――どうしてわたしなんかを殺すのに、そんな苦しんでいるんですか?
――どうして、わたしなんかのために――――
気付けば、わたしの手は先輩の涙を拭っていた。
先輩の手は、わたしの首筋に触れるだけとなっていた。
「――済まん、悪かった」
「いえ、大丈夫です」
先輩がわたしを抱えて起こし、パンパンと制服を軽く叩いて埃を落としてくれた。
「……お、お気遣い感謝します……」
「……気にすんな」
言いながらも、先輩は目元をゴシゴシと擦っていた。そんな彼が堪らなく愛おしく思えてしまうわたしは、もうどこかやられてしまっているのかもしれない。
「お昼ご飯食べましょう、先輩」
† † †
ぽた、ぽた。
「……チッ、また嘘吐きやがったなあの石原次男」
頭上に広がる鈍色の空は、俺が銜えた煙草から立ち昇る煙と良く似た色だった。夏の雨にしては珍しく、小雨で長く降りそうだ。
――さて、今日の雨はどう凌ごうか……。
「先輩っ! 修治先輩いらっしゃいますか!?」
いつもその重量感に見合う鈍重さで開く塔屋の扉が、今日ばかりは盛大な大音響とともに軽快に押し飛ばされていた。
「……おー、よう美月」
「『おー、よう』じゃありませんよ! あと名前呼んでくれてありがとうございます昇天レベルで嬉しいです!」
「キレながら喜ぶなよ器用だな」
ていうか用件なんだよ。
「はっ、そうでした! 雨降りますから校舎に入ってきてください」
「…………ああ」
何だ、そんな事なら。
「それなら、別に良い」
……マズイ。せめて、煙草は吸いきっていきたい。
「別に良いってなんですか! 良いから早くそのタバコ消して!」
「……勿体ねぇ」
「後でお金払いますから! 早く濡れる前に入ってください!」
ぐいぐいと美月に腕を引っ張られる。仕方なしに煙草の火を消し、引かれるままに校舎へと入っていった。
「オイ、美月。お前、どこに連れてく気だ……?」
「? 普通に教室ですけど……あっ、先輩の教室の方が良いですか? どうしてもって訳じゃないですけど上級生の教室に入るのはちょっと……」
「ああ……そう、だよな……」
先程から、修治先輩の様子がおかしい。苦しそうに頭に手を当て、足取りもどこかおぼつかない。
「……ひょっとして、具合悪いんですか? もしそうなら、今から保健室に……」
先輩の顔を覗き込むと、突如わたしの体を衝撃が襲った。踏ん張りきれずに尻餅をついてしまう。
「いたた……」
「すんませーん!」
声の方向を見ると、騒ぎながら走り去っていく男子生徒が複数人。……どうやら、鬼ごっこをしているらしい。
「……もう、高校生にもなって鬼ごっこってどうなんですかね? ねぇ、先輩?」
視線を上げて先輩を見る。
「……あれ、先輩……?」
そのまま周囲を見渡す。私と同じ、赤い上履きの生徒ばかり。
修治先輩が、居ない。
† † †
――ユヅキ シュウジ? 名簿にそんな名前は無いぞ。聞き間違えたんじゃあないのか?
――大変申し訳ありませんが、この捜索願は受理できないんです。お力になれず申し訳ありません。
――大丈夫、泣かないで。貴女は少し、疲れてしまっただけなの。きっと誰にも相談できなかったんでしょう? もし良かったら話してくれない?
――この学校の屋上がずーっと立入禁止のワケ、教えてあげようか?
――昔この学校で屋上から飛び降り自殺をした生徒が居たんだって。名前? 知るワケないじゃん昔の話だよ?
――まぁ、その生徒は今では悪霊になっちゃっててさ。夏でも冬でも、雨が降っても屋上に現れるんだって。
――何をしてるかって? そんなん、決まってんじゃん。
――屋上に来た人を、呪い殺すんだよ。
† † †
秋空の元、俺はいつもと変わらず煙草をふかし、薄汚れた床に吸い殻の山を作っていた。
――なんとなく、体感というよりは勘だが。
――『終わり』は、近い。
「……!」
この音を聴くのはいつ振りか、あのクソ重たい鉄扉が軋みながら開く音だ。
「…………久し振りだな、美月」
入ってきた人物を確認もせずに声を掛ける。直後、胸から腰に掛けて柔らかい衝撃。
「先輩っ、修治先輩! 会いたかった……! 会いたかったよぉお……!」
二回目に俺を呼んだ頃には既に美月は涙声で、言い終わると同時に堰を切ったように大泣きし始めた。
「勝手に居なくなったりして、悪かったな」
「いいえ……いいんです……! わたしは、また先輩に会えて……それだけで……!」
「……そうか」
彼女が泣きじゃくりながらも頬を摺り寄せ笑う姿は、俺の心に残酷なほどの慈愛を生み出した。
――けど、これ以上は続けられない。
――終わりに、しなければ。
「目、覚めたか……?」
気付けば、わたしはベッドに寝かされていた。嬉しさのあまりか泣き疲れたせいか、屋上で事切れてしまったようだ。
「ご、ご迷惑おかけしました……」
ベッドの脇で診ていてくれたらしい修治先輩に礼を言う。
「別に、良い。安静にしてろ」
そう言って、先輩はわたしの頭を撫でてくれた。
「ねぇ、修治先輩……。先輩は、幽霊や、幻覚じゃないですよね」
大きくて暖かな掌を確かに感じながら、わたしは問うた。
「……バーカ、何言ってんだよお前は」
撫でていた頭で小突かれる。途端に胸の奥がじくじくとした痛みに似た、甘い苦しみに満たされた。
「……修治先輩。わたし、あなたと過ごした証が欲しいんです」
吐き出す息が熱を帯びたような錯覚を感じながら、リボンを解き、シャツのボタンを外していく。
「愛してます、修治先輩。大好きです」
先輩は、否定しなかった。無言でわたしの上に跨る。
「嬉しい、です……」
「こんな誘い方あるかよ……首にアザ、残ってるし」
「消えないように、治りを遅くする努力をしましたから」
先輩がわたしの痕を指でそっとなぞる。微かな痛みと名状しがたい爛れた快感を覚え、思わず蕩けた声が出た。
「……ホント、お前はバカだな」
お前の変態さには呆れた、と言いたげに先輩の顔が近づく。互いの吐息が掛かる距離。彼の頼もしい首に腕を回す。
「せんぱい……愛して、ください……」
† † †
さあ、茶番はこれでおしまいにしよう。
思えば、この半年は人生の中で一番光り輝いていたかもしれない。
自分の使命すら忘却の彼方に追いやり、互いに相手を求め合った。
しかし、そんな空虚な幸福も、これで最後にしなければ。
――でないと。
「――美月ッ!!」
わたしが愛するこの先輩は、私に殺されてしまうも同然だから。
「……こんばんは、修治先輩」
「こんばんは、じゃねぇよ」
息も切れ切れな先輩は静かに怒りを露わにする。きっと一階の保健室から屋上まで一直線に階段を走ってきたのだろう。
「……止めようとか、助けようなんて、思わないでくださいね」
ゆっくりと近づいてきていた先輩がピタリと足を止める。先輩とわたしの間には三メートルの間合いと高さ二メートルのフェンスが割って入っていた。
「……どうして」
「解ったんです。……というより思い出したんですよ」
修治先輩が俯く。……ああ、この優しい先輩は、最初から知っていたのだ。何もかも。
「わたし、ずっと昔に、この学校で自殺してたんですよ」
わたしは死んだ記憶もなしに、屋上に居ついた修治先輩に近づいた。――無意識に、先輩を『喰う』ために。
「全部、知ってたんですよね? どうしてこんな、根暗で陰湿な地縛霊に近づいたんですか? ……成仏でもさせる気、だったんですか?」
「…………」
先輩は答えない。眼差しは肯定とも否定とも取れる。
「……仮にそうだとしても、先輩の手を煩わせるには及びませんよ。大体、先輩はもうボロボロじゃないですか」
半年以上に及ぶ悪霊との邂逅は、先輩の心身ともに大きなダメージを与えていた。――思い返せば兆候はあったが、それを確信したのは先刻、先輩と身を重ねた時だった。
「……随分、察しが良くなったな」
「ずっと先輩を見てましたから。……むしろ、今まで気づかずごめんなさい」
フェンスから手を放す。一歩、いや半歩でも後ろに踏み出せば、わたしは重力に引かれて十メートル以上の高さを自由落下し、硬い地面に叩き潰される。
「やめろ」
覇者の一喝の様な、それでいて泣きじゃくる子供の懇願の様な制止の声。
しかし、わたしは止まらない。止まる訳にはいかない。
「わたしは、これで消えます。だから先輩、生きて――」
体を後ろに傾ける。自分の身体に質量があるのかどうかすら怪しいが、ちゃんとわたしは落ちていった。
先輩が、視界から消える。
――これで、いい。
十数メートルというのはこんなに大層な高度だっただろうか、と思うほど長い滞空。――もしかしたら、奈落の底へと堕ちていっているのかもしれない。
どれだけ沢山の人間を呪ったかは覚えてないが、悪霊にはお似合いの最期かもしれない――
「――お前を、墜とさせたりなんかしない!」
力強く、腕を引かれる。次いで、全身を包む頼もしい体温。
「うそ……先輩……!? どう、やって……」
先輩は、堕ちるわたしに追い付き、わたしを抱き締めていた。
――このままでは、先輩もわたしと一緒に……。
「……方法なら、ある」
「え……」
――この状況を打破し、先輩を助け、かつ私にも都合がいい方法があるとでも言うのか。
「成仏しろよ、お前」
「……は?」
成仏。未練を持って現世に留まってしまった霊が、願望を遂げて彼岸へ渡るといわれるアレだろうか。
「……む、無理ですよ! わたし悪霊ですし地縛霊ですし、大体願いが何かなんて覚えてないですしそんな事してる暇に堕ちますし!」
「それこそ言ってる暇に成仏しろよ! 忘れたんなら新しく願い作れ! 俺が叶えてやる!」
言われた瞬間、スッと胸の閊えが取れたような気がした。
――そうだ。願いなんて、一つしかない――
「――キスして、ください」
返事は無かった。
多少強引に、唇を奪われる。
重力に引かれ、風圧を感じながら。
一瞬の事だったかもしれないが、わたしたちの間に流れた時間は永劫と感じるに充分な刻だった。
唇を離し、互いに見つめあう。
躰が、軽い。涙のせいか、視界の先輩の姿が滲んでいく。
「修治、せんぱい……」
これだけで良い。これだけは、伝えないと。
「――――愛してくれて、ありがとう」
† † †
湿っぽい地面に寝転がったまま、銜えた煙草に火を付ける。元々は魔除け目的だったが、今はこれ無しにはやってられそうにない。
スマートフォンが振動する。見透かしたかのようなタイミングだ。
『やぁやぁお久しぶり。今回の《浄化》は随分掛かったネ』
耳障りな、厭に明るい男の声。本名は知らない。
「……寄りたいところがある」
『半年以上も悪霊が造った迷宮で過ごしてまだ活動できるあたり、本当にキミ、化物だよネ。それで、どこ行きたいの?』
「墓。ここに通っていた、美月って名前の女子生徒」
『正確には「かつてここに存在した学校」の、ネ。大丈夫、そういうと思って調べておいたヨ』
仰向けに寝転がったまま、首を回して辺りを見回す。――殺風景な、荒野と見紛うほど広大な空き地が続くばかりで、飛び降りた校舎など跡形もなく消えていた。
「……助かる」
『良いって良いって。……だから、ボクが迎えに行くくらいにはとりあえず泣き止んでおきなヨ? 流石に御当主と奥様にキミの泣き腫らした顔を対面させちゃ、ボクも立場が危ういしネ』
返事はせず、そのまま通話を切る。
「フー……」
肺を満たした煙をゆっくり吐き出す。こんなに、不味いものだっただろうか。
「……」
スマートフォンを取り出し、アドレス帳に入っているたった一つの番号に発信する。
……無駄な足掻きだという事は、百も承知だった。
『――この電話番号は、現在……』
投げ捨てる。切るのもかったるい。
――そう、これは単なる『仕事』だったんだ。入れ込むべきでは、なかった。
――入れ込まないと、心に決めていたつもりだった。
やっとの思いで紙巻一本を吸い終える。もう随分とニコチンは回っているが、懲りずに二本目を銜えてオイルライターを擦った。
――美月のことが、頭から離れない。
解っている。この感情は、単なるエゴだ。俺は勝手に女に惚れて、勝手に霊を消滅させて、勝手に傷付いているだけのアホンダラだ。
「――――チクショウ」
毒性の紫煙は安息効果を放棄したらしく、俺の気管を傷める役目しか担ってくれないようだ。
ぼろぼろと溢れ出る涙が、いつまで経っても止まらない。
未だに美月の体温が、感触が、腕の内に残っている。
俺の躰とこころに刻み付けられた美月の呪詛が、儚くも優しく、包み抱くように俺を蝕んでいた。
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