【短編推理小説】五十部警部の事件簿
事件その13
残された犯行の跡は白い喉についた深い痣の痕だけであった。
なんという恐ろしい殺人か。
五十部警部はため息を吐いた。
被害者が仰向けに横たわった白黒の写真にくっきりと黒く写るその痣は左の痕がより鮮明だった。
被害者はこの屋敷の末っ子である質朴な若い娘であった。
調べても動機らしいものは浮かんでこない。
これは単なる病的な殺人嗜癖が行った流しの犯行かと思い始めていたところに、若い合田刑事が一人の男を署に連行してきた。
リンという屋敷のコックであった。
「屋敷の運転手がこいつが事件が起こった夜の庭に独りでいて、辺りの様子を窺っていたのを見ていたそうです。指紋を取って本庁へ送りましょう。
前があるかも知れません」
戸惑った様子だったが差し出した左の手から指紋を取るなり、合田刑事は荒い調子で当時の夜の事をリンに訊き始めた。
リンは事件の夜に庭にいたことは認めた。
広い屋敷の庭の塀沿いの裏木戸をこっそり開ける手はずになっていたのだ。リンはその男を屋敷の庭木の茂った奥にある、もうだいぶ前から水の枯れた古井戸へと案内する約束になっていた。
男の目的をリンは知らないというだけだった。名前すら知っていなかった。
彼はその後、男が古井戸から出て来るまで周囲を見張り、男は古井戸から出てくると、また裏木戸から出て行ったと、懸命な様子で、腕を振り回しながら、その爪の伸びた長いしっかりした指の手をひらひらとさせて主張した。
「その後、屋敷の用人部屋に戻ったのだな。お前はその庭でお嬢さんを見なかったのか?」
「あいつが出て行った後、自分も早く部屋へ戻ろうとして、離れた茂みの方をちらっと見たらなにか人影が空を見ているような姿が目に入ったが、その夜は曇っていて月も無い夜だったし、自分は人に見られたのかと身を伏せてそっちを窺ったんだが、向こうはただ空を見上げているような様子だったのでそのまま、部屋へ帰ったよ」
「警部、こいつ怪しくないですか?」合田刑事が鋭い目つきでリンを見ながら五十部警部に尋ねた。
「いや、怪しいのはリンじゃないようだね」
警部はなぜそう考えたのか。
その夜リンが視た空を見る人影は、後ろから首を絞められている令嬢だったのだ。
闇に紛れて背後に屈むようにしていた犯人はリンからは見えなかった。
警部が見ていた白黒写真は左の痕が濃かった。
リンは左利きのようである。指紋を取る際に出したのは左手だった。
リンが屋敷の令嬢を後ろから絞めたのなら、正面の右の痕が濃くなるはずだ。
また、その喉に絞め痕以外が無いというのも変である。
爪の伸びた手で絞めたのなら、被害者の喉にわずかでも擦過傷くらいは残るはずである。
五十部は屋敷の運転手を任意で同行し取り調べの結果、運転手は犯行を自白した。