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【忍殺】オレンジ農園のヘラルドへ

 「オレンジ農園」という概念がある。これが意味するものを一言で説明するのは難しいが、強いていうなら「落伍者がたどり着く、平穏ではあるが無為な人生」を表す言葉だろうか。ダイハードテイルズの所属作家・逆噴射聡一郎先生が、テキスト内でこれを用いた寓話を繰り返し語ることにより、この表現はヘッズ内である程度市民権を得た。先日公開された下のテキストにおいても、やはり「オレンジ農園」についての記述はあった。(無料公開部分にあるので、参考に読んでみてほしい)

 寓話の主人公は逆噴射先生が求める「真の男」にはなれないが、その最期はおおむね幸福そうだ。無為な日常や、失ってしまったものに対し、虚無や後悔を見せることもあるが、それは穏やかさの裏返しでもあり、「真の男」になれないことも、悪くないのではないのかと思わせる余地がある。

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 ヘラルドが初めて登場したのは、AOMシーズン1の「ザイバツ・シャドーギルド」だった。彼はそこで顔面を砕かれ、その逆恨みからニンジャスレイヤーへと一方的な憎悪を向けるようになった。その言い分はめちゃくちゃだ。理屈もなく、筋も通らない。恥をかかされた子供が、身勝手にこねる駄々。挙句の果てに、先のことを何も考えず、その衝動に任せてザイバツをヌケニンしてしまう。そしてそれによって生じた不都合を、全てニンジャスレイヤーに責任転嫁する。

 しょうもないニンジャである。しかし、構わないとも思う。ニンジャの動機なんて、おおよそがしょうもない身勝手だし、この小説はその身勝手をカラテで鍛え上げ、本物の「真実」にしてしまうお話を何度も紡いできたからだ。『ニンジャスレイヤー』は、ビガー・ケイジス、ロンガー・チェインズの構造を持つが、井の中の蛙を決して嘲笑することはなく、その一匹が井戸をぶち破る可能性を常に信じている。「なるほどヘラルドというニンジャのストーリーは、彼がイクサを通じて自らのエゴとカラテを鍛え上げ、真の復讐者になるものなのだな」 多くのヘッズがそう思ったと思う。少なくとも私は思った。「モータルソウルの結晶を核に持つ復讐者……なるほど、彼もある種の『ニンジャスレイヤー』であり、主人公なのだ」

 その予想が正しかったことを証明するように、彼はシーズン3にて登場回数を大きく増やし、プラスでは主役短編が二本も公開された。破格の待遇。まさに「もう一人の主人公」。エゴとカラテの物語を担うに足るキャラクター……。彼は、実際、それらのエピソードの中で、現状の自らの論理構築の弱さや瑕疵を突きつけられることになる。それは、彼が自らを見直し、より強固なカラテを組み立てるための布石になるはずだ。そういったドラマの進行と共に、シーズン3もまた「ナラク・ウィズイン」という佳境を迎えた。再度ニンジャスレイヤーと合いまみえた、ヘラルド。フジキドのように、彼もまた「全てに意味がある」 ことを証明する時が来た。ここまでの彼のドラマが束ねられ、一つの物語が決着を迎える。……そのはずだった。

 ヘラルドは、何もできていなかった。全ての意味は、ドブに捨てられた。物語は、破綻した。

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 ……しかし、それの何が悪い? 

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 物語の熱狂、エンターテイメントとしてのおもしろさが、絶対的な「正しさ」であって欲しくないという気持ちが昔からある。共感されないかもしれない。私の、個人的な嗜好だ。大昔に読んだ『巨人の星』で、プロを辞した野球選手が草野球をエンジョイするシーンがある。主人公の星飛馬は、その様子を見て「俺の求める野球ではないが、あれはあれでとても素晴らしい」と心から称賛する(記憶があやふやなので細部が違うかもしれない)。それがとても好きだった。近年読んだ漫画で強く印象に残ったのが『胎界主』の第二部だ。この漫画では、エンターテイメントしての絶頂、おもしろさの頂点を極めた物語の「正しさ」自体が、主人公の敵となって立ち塞がる。「全てに意味がある」に対して発された、「無意味が怖くてギャグができるか」という台詞はあまりにも衝撃的だった。今週のジャンプも、チェンソーマンがよかった。家族を殺した悪魔への復讐のために、自分の全てを投げ出していた登場人物が、もう後戻りなんてできるはずがないのに、気の迷いで復讐を放り捨てた。おそらく叶わないだろうが、それでも彼の選択は肯定され、祝福されるべきだと思った。

 スーサイドが、シンウインターの飼い犬になり、ドブネズミのような生活をおくっていたのを見て、それはそれで悪くないじゃないかと思った。コトブキがマスラダに永遠の休養を求めたのを見た時も同じことを思った。サワタリが、ネヴァーダイズで全てを投げ出してしまったのは、ボンモー無茶しやがるなと思いつつも、どこかその選択を嬉しく思った(ただし、サワタリについては、ヨロシサンスレイヤールート自体がミスであり、「正しい」方に修正されたと解釈することもできるため、この例に挙げられるかどうかは議論の余地があると思う)。

 正当性がなく、筋が通らずぐだぐだになったとしても、何も選ぶことをできないで適当に誤魔化し、何も本物を手にしないままに無為と虚無の日常に押し潰されたとしても、別に悪くない。そういった生活だって、素敵じゃないかと、思う。「おもしろくない」「盛り上がらない」「正しくない」。余計なお世話だ。しかし、全くもってその通りだとも思う。私だって、傍観者で、読者だからだ。エンターテイメントは熱く、おもしろくあって欲しい。むしろ、私は「全てに意味がある」お話が好きだ。おそらく、人よりも好いている。私が最も愛している物語フォーマットであるミステリが、その要素を強く持っているからだ。私にとってのオールタイムベストフィクションは、ほとんどがその要素を強く持ち、それを前面に押し出している。『ニンジャスレイヤー』も例に漏れない。私にとって、フジキド・ニンジャスレイヤーの物語とは、まさにそれだった。その熱と同種の熱さを持って、スーサイドも、マスラダも立ち上がった。全ての意味を束ね、輝かんばかりの物語を無数に紡ぎあげるサーガ。ソウカイヤ、ザイバツ、アマクダリもそうだった。彼らはただ、カラテの大小に劣っただけであり、その輝きはやはり同種のものだった。勿論、サツバツや諦念を重点したエピソードも多々あるが、根っこのところで、『ニンジャスレイヤー』は「蘇り」のお話であり、「全てに意味がある」フィクションなのだと思う。熱く、おもしろい。最高だ。

 しかし、そこから外れた、意味を拾い損ね、ぐだぐだになった支流もまた、いいじゃないかと思える自分がいる。そちらを見たいという読者が別のレイヤーに住んでいる。「おもしろくなくたっていい」とは言えない。私がどうしようもなく読者である以上、そこには別種の「おもしろさ」を見出しているからだ。ただし、それをエンターテイメントと呼んでいいかはわからない。

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 ヘラルドは『ニンジャスレイヤー』の登場人物だ。彼は蘇ることだろう。「正しい」物語の熱を伴って、「間違った」自らの物語を再生することだろう。トリロジーは終わった。皮肉も諦念も不要だ。それはきっと最高におもしろく、熱いエピソードになる。だからこのテキストは、彼に届くことは決してないだろう。そもそも、私は根本のところで別種の「おもしろさ」を求めている傍観者だ。口出しする権利はない。それでも、私は彼に向って、その「正しさ」に殉じる必要はないのだと、言ってやりたかった。どうしても言ってやりたかった。

 『ニンジャスレイヤー』のヘラルドではなく、オレンジ農園のヘラルドへ。