necro0:深海博愛(中編)
【(前編)より】
◇◇◇
ネアバスは己を手足と考える。与えられた仕事は2つ。市民の避難誘導と、指示変更を受け取れるよう通信回線を空けておくこと。前者の采配は明らかなミスで、誘導位置に立ってから数時間、ネアバスは市民を1人も見ていない。動線から外れた地点が誤って割り振られていたのだろう。こういった無為な仕事は好もしい。手足は思考せず、ただ脳と脊髄に従って動作するだけであり、是非を問わない。それは永遠を生きる上での自分の理想像だった。
ただ、2つ目の仕事である『通信回線を空けておくこと』については、十分に全うできているとは言い難く、不愉快だった。ネアバス自身のミスならば幾らでもリカバリが効くのだが、残念なことに自分にコントロールできない地点に問題があった。暗黒管理社会実現部における「問題」とは、おおよその場合、1人のことを指し示し、今回も例に漏れない。
『左腕が〈蛸〉にもぎ取られたぞネアバス。恐ろしく痛い!』
「部長は起き上がりですから、問題はないでしょう」
『その通りだ! お返しに蛸足を1本引き抜いてやったが焼石に水だな。本体を叩かない限り意味はないとみた』
「でしたら、無許可の交戦はここらで取りやめ、タマムシ代理市長の指示に従って市庁舎に向かわれてはどうでしょう」
『嫌だ』
取り付く島もない。ネアバスの上司の上司にあたるウォリアは独断専行と命令無視の常習犯である。今回も西妃髄区壊滅の第1報を受けてすぐ、〈蛸〉との交戦を勝手に始めてしまった。それだけならまだいいのだが、「戦闘が単調で暇だ」と駄々をこね、ネアバスと通信を繋ぎ、話し続けている。
「今更、代理市長の指示に従えと言うつもりはありませんが、せめて通信を切ってもらえませんか。私はこの回線を空けておく必要があるのです」
『タマムシの命令でか? お前も暗黒管理社会実現部の一員ならば、あの犯罪者に屈しない姿勢を見せたらどうだ』
「部長がごり押しされていた代理市長の犯罪者認定は、否決されています」
『今、再決裁させている。宙に浮いた案件だから、この俺が部長権限で事後承諾を認めてやろうというわけだ。まったく役所ってのは愉快だな!』
ガハハハハハ、とコミックキャラクターのような笑い声が大音量で突き刺さり、ネアバスは反射的に通信機から耳を離す。顔をしかめていると、通りの向こうから3人連れが駆けてくるのが目に入った。狐目の男性と、手足の細長い男性。そして、季節感のない長袖を着た女性。ネアバスは、ウォリアとの通話を中断できることを内心喜んだ。
避難バスの臨時停留所の位置を3人連れに伝えると、狐目とひょろ長が互いに顔を見合わせ、逡巡した。狐目の方が懐から名刺を取り出し、こちらに差し出す。市役所。魂魄産業戦略開発部。痛覚遮断第2課。同僚だったか。名前の記述がないということは、係長か担当ということになる。
「ニトウと言います。こっちはハツカ」
「彼女もか?」
ネアバスの眼鏡越しの視線に対し、長袖の女性はおびえたようにニトウの後ろに隠れた。
「いえ、儀同うさぎさんと言って、一般市民です。部屋が隣で……」
話をひと通り聞いた上で、ネアバスは3人を見送った。ニトウたちは〈蛸〉との接触を避けられたらしく、未だに現状に対して半信半疑の表情を浮かべていた。随分と運がいい。……いくら何でもよすぎではないか。動線から外れたこの区域に入ってきたことにも違和感を覚える。だが、思考は自分の役目ではない。ネアバスはそう結論づけ、先ほどからがなり続けている通信機を耳に当てた。
よくも俺の話を無視したな、と騒ぎ立てるウォリアをなだめ、ネアバスは事情を説明した。ウォリアは2人の職員のことを妙に知りたがった。名刺から得た情報を伝えると、なるほどヨツツジのところの連中か、と何かを納得したように呟いた。
『気になるだろ? 教えて欲しいか』
「いえ、知ることは私の業務ではありませんから」
『出たぜ、十八番の手足理論。知ってるかネアバス。蛸の腕には脳があるんだぜ。手足でも多少は考えて動かなければ、箸にも棒にもかからんよ』
「自発的に考えて行動をせよという指示があれば、私もその通りに働きますが」
『このクソ歯車め!』
ウォリアは、再びガハハハと笑い、お前はどうしようもない無能だが、そういうところが可愛げがあっていい、と気色の悪いことを言った。
『可愛い部下のためだ。大好きなその指示ってやつを与えてやろう。ここから離れて〈蛸〉に食われろ。いわゆる人身御供だな』
「何を……」
『安心しろ。俺じゃなくてタマムシ代理市長閣下のご命令だよ。さっきフラスタからこっちに通信が来たんだ。ネアバスに連絡が取れないと課長サマはご立腹だったぞ。歯車ぶるんなら、ちゃんと仕事をしないと格好がつかんぞ? んん?』
怒鳴りつけてやろうかと思ったが、かろうじてネアバスはこらえた。自分が何故〈蛸〉に食われなければならないのか。ネアバスはまだ痛覚遮断措置を受けていないため、この命令に従うと地獄を見る破目になる。だが、仕事に是非を問わないのがネアバスだった。そして、このふざけた上司と話しているよりは生きたまま〈蛸〉に食われるほうがよっぽどマシというのが、正直な感想だった。
◇◇◇
〈蛸〉は既に臓腐市の西半分を死体の海に沈めていた。触手の一端は腎痛区の西部にまで及び、この街の中心である臓腐区に被害が及ぶのも時間の問題だった。蠕動する魚と虫と海獣の屍肉の中で、市民はペースト状にすり潰され、最早悲鳴をあげるための口すらも形を残していなかった。絶叫の搾りかすのような呼気だけが肉の内部に充満し、時折、血の混じった蒸気となって隙間から吹き上がる。街半分を埋め尽くすそれは、同量の体積と質量を備えた、ひとかたまりの苦痛と言えた。
しかし、被害規模の大きさに反し、被害者の数はそれほど増えていなかった。クモツが〈蛸〉の侵攻を遅らせることができた時間はわずかだったが、それでも、市民の多くを市の東端である挫症区阿田華に避難させるには十分だった。また、屍材職員製造活用部部長〈支配のコマチ〉は既に一帯の地盤との同化を終えており、今すぐにでも臓腐市を東西に遮る巨大な防御壁を隆起させることが可能な状態にあった。さらに、懸念事項であった市長との連絡もとれ、タマムシたちの目論見は通話越しに了承された。
ただ1つ残る問題は、防御壁の隆起箇所をどこに設定するかである。コマチの肉体と同化しているとはいえ、市を縦に割るほどの大質量を動かすには、それ相応の時間がかかる。隆起途中に〈蛸〉が防御壁を乗り越えてしまえば意味がない。かと言って余裕を持たせすぎると、本来守れた土地まで破壊されてしまうことになる。侵攻速度を正確に見積もるために市役所が立てたプランは、定点に職員を立たせ、彼ら彼女らが潰されたタイミングを集積するという非常に原始的かつ非合理なものだった。
◇◇◇
「現状、痛覚遮断措置を受けた職員と一部の志願者を優先的に配置していますが、数が足りません」
「生きたまま潰れろって命令だし、ナチュラル肉体の職員にやらせるのはさすがに酷よね」
「気にする必要なんかないわよ。みんな、自我の稀薄した腰抜けばっかりなんですもの」
「自我漂白で恐怖の感情を欠落させた試験課があったと記憶している。痛覚遮断が未措置でも、恐れなければ問題ないのではないか」
「うちのキイロをモデルにした奴ね。シラギク部長、出せる?」
「いいわよ。代理市長サマのところに血液を肉体にしてた奴がいたわよね。アレとかもいいんじゃないかしら? 潰れても平気でしょう」
「シュアン課長ね。試作品も結構残ってるから、適当なのに憑かせて現場に行かせるよ。ついでにキイロも」
コマチによる防御壁隆起の実行間近。部長会議の今の議題は〈蛸〉の侵攻速度を測るための配置人員の決定だった。上がったリストを逐次各部各課に共有しながら、タマムシはそれらの輪に加わろうとしない不吉な男に目をやった。
ヨツツジはホワイトボードに後頭部をあずけ、その特徴的なくせ毛を潰していた。〈蛸〉の主の名前と来歴という、さして役にも立たない情報だけを一方的にべらべら喋り、いきなり全ての興味を失ったように黙ってしまったのだ。曲者揃いの部長陣も、彼のトリッキーさにはさすがに辟易させられたようで、その存在を無視している。アサヒガワ部長は一体何を考えてこんな男を送りつけてきたのか、タマムシには疑問だった。
「あ……」
ヨツツジが突然声を上げ、タマムシを見た。手に持っていたマーカーを、床に落とし、蹴り転がす。すると、マーカーの表面が沸騰したように泡立ち、その体積を急激に増大させた。みるみる内に膨れ上がったそれは、角ばった人型の輪郭と、巨大な何かを造形し、やがては〈蛸〉の足を抱えた市役所の職員の姿になった。シラギクの部下、自白部の職員である。
「マルメロじゃない。ごくろうさま」
「シラギク部長、これは……?」
タマムシが尋ねると、シラギクは胸をそらした。
「1本、千切ってくるように言っておいたのよ。実物を見ながら話したいじゃない?」
よく貴方の力でやれたわね、とシラギクが言うと、マルメロはウォリア部長から頂きました、と答えた。シラギクは途端に不機嫌になり、犬でも追い払うようにしっしっと手を払った。マルメロは一礼すると、そのまま膝から崩れ落ち、死体に変わった。魂が抜け、現場に戻ったのだ。
後に残された〈蛸〉の足の周りにタマムシたちは集まった。落雷によって折れた、大木の幹のようだった。ただ、粘液によって濡れた表面に色はなく、作り物のように白い。表面のひだのように見えるものは魚の死骸同士が接着している境目のようだが、押し固められており形がよくわからない。露出した目玉だけが、虚無をこちらに映していた。
死骸同士はきつく絡み合っており、タマムシが爪で掻いても分解することはできなかった。シラギクが手袋を外し、自らの指の骨を用いて簡易なメスを形成する。滑り込むように、刃は〈蛸〉の足の中に入った。切り開かれた断面は植物の維管束を思わせた。強く締め固められた結果、足を構成する死骸の胴が全て管のように縮んでしまっているのだ。
「本当に海の生き物だけでできているのね。気色の悪いこと。沖に沈んでるナントカさんは、肉体の一部としてこれを回復っているのかしら?」
「違う。魂とひもづいた肉体なら、私が殺せる。これは死体だ」
シラギクの問いに、シジマが答えた。〈黄泉送りのシジマ〉は、対した相手の魂を肉体から引き剥すことができる化け戻りである。発動条件は特になく、シジマが殺意を持った時点で相手は死ぬ。その力が〈蛸〉に対して効果を発揮しないことは、既に実証済みだった。
「アサヒガワ部長の〈神降ろし〉に近いものだろう。死体のレコードを魂のレイヤーから物理上に降ろしているのだと予想する」
「ですが、それなら自由に動かすことはできないのでは」
スロウが坊主頭を撫でながら呟いた。シジマは、確かにと頷き、すぐに推測を口にした。
「恐らく、増殖箇所・増殖速度を調整することで重心を変え、動かしているのだろう。所々に瘤のようなものができているのがその名残だ」
「明らかに市民を狙った動きができているのは? 不死者当人の肉体でない以上、この足が得た情報が本体に伝わるとは考えづらいでしょう」
「協力者がいるんじゃない? 少なくとも、うちの部長の誰かは通じてるよね」
タマムシが言うと、ヨツツジ以外の全員の視線がこちらに集まった。驚いたふりすらしないあたり、さすがに皆、肝が据わっている。いや、当たり前すぎて誰も口にしなかっただけか。臓腐市をまるまま滅ぼせるのほどの能力規模を持つ不死者が、市役所に一切関知されず姿を隠していたとは考えづらい。それが海底であろうとも。
「まあ、今は犯人捜しはしないけど……」
「協力者の正体なんて、決まってますよ」
タマムシの発言に割り込んだのは、ヨツツジだった。その声は何故か若干上ずっており、奇妙な陶酔が入り混じっている。
「市役所の誰かはともかく、外部の協力者は明らかです。海底の彼女をそそのかし、この街を巨大な苦痛で塗りつぶした。そんなことをやりたがるのはこの街に1人だけしかない」
ヨツツジは、タマムシに視線を向けることなく、天井を見上げ、誰に向かってでもなく、神に捧げる祝詞のように唱えた。
「〈魔女〉ですよ」
◇◇◇
職員たちの定点観測の結果、防御壁の最適な位置が導き出された。その情報は現場のコマチに伝えられ、すぐさま防御壁の隆起が実行された。既に破壊され尽した臓腐市西部、及び市外の地盤を寄せ集める形で、壁は地上数kmの高さまで立ち上がり、臓腐市を東西に分割し、直後、屍骸の怒涛を受け止めた。思わぬ障害物に進路を塞がれた〈蛸〉は、横側から回り込むべく壁と平行にその体積を流した。しかし、防御壁が市境沿いに延び、臓腐市東部をまるまま取り囲む方が早かった。
行き場を失った〈蛸〉は、しばらくの間困ったように触手を彷徨わせ、やがて壁の足元に積み重なり始めた。自身を足場にして防御壁の登坂を開始したのだ。だが、市役所もその動きは予測しており、防御壁外で交戦を続けていた暗黒管理社会実現部長〈星のウォリア〉に、身体重量の部分開放許可を出していた。ウォリアは人型大に折りたたまれた約6𥝱トンの肉体を〈蛸〉に向けてほんの少しだけ「開いた」。直後、物理法則を無視して炸裂したウォリアの体は、一帯の地形ごと屍骸の海を吹き飛ばした。
海洋生物ののたうつ屍肉で埋もれていた臓腐市西部は、一瞬にしてえぐり掘られた何もない荒野になった。コマチは自分の肉体を回復・蘇生させる要領で地形の復元を開始し、「開いた」体を収納したウォリアは、元凶の不死者を捕えるべく〈蛸〉の発生点である西妃髄区沖に向かい始めた。臓腑区の市庁舎ではタマムシたちが緊張を解き、ヨツツジが明かした〈魔女〉の捜索の算段をたてはじめた。市民たちの避難先である挫症区阿田華でも、事態の終息が報じられた。かくして、臓腐市の壊滅は防がれた……かに、見えた。
◇◇◇
「あっぶないなあ……」
シュアンが〈蛸〉の体内から脱したのは、ウォリアが重量を開放するほんの数秒前だった。余波に引っ掛けられて消滅した半身を補充しながら、悪態をつく。シュアンの所属は市内災害拡大振興部だが、その肉体は屍材職員製造活用部が開発した改造品であり、全てが血液でできている。液状の肉体は叩こうか潰そうが意に介さず、当然、痛みも感じない。〈蛸〉の定点観測要員に選ばれたのも当然だった。
ただ1つ問題なのは、定点観測要員は防御壁隆起後にウォリアによって〈蛸〉ごと吹き飛ばされてしまうことだった。シュアン用にチューンナップされた血液肉体は貴重であり、いたずらに失うことは災振部も屍活部も望まなかった。そのため、シュアンには〈蛸〉に飲み込まれ次第、すぐに脱出し、現地から離れることが指示されていた。脱出が間際になったのはシュアンの過失によるものだ。〈蛸〉に呑まれた後輩を助け出していたのだ。
「おーい、キイロ、大丈夫?」
シュアンは飛行高度を落としながら、自分の腹から顔らしき部位を突き出しているボロ雑巾に声をかけた。ボロ雑巾は、顔らしき部位の中の、口らしき部位をもぞもぞ動かした。
「ず……ぜん、ぜん、ば……ば……」
「すみません、先輩、わざわざ」だろうか。〈蛸〉の内部で骨という骨をへし折られ、頭からつま先まで扁平に潰された後輩の姿は、それはもう見るも無残なものだった。指示を無視してまで助けたのは、痛覚遮断も受けないままに〈蛸〉行きを命じられた後輩を不憫に思ったからだ。失敗ばかりのお荷物職員とは言え、ここまでひどい目にあう必要はない。
脚部血液の蒸発噴射を緩めて着陸し、体内から取り出したキイロを地面に横たえる。腐っても起き上がりと言うべきか、その平らな肉体はみるみる厚みを取り戻し、回復していった。ただ〈蛸〉の体内で引きちぎれた衣服は戻らず、キイロは裸だった。一応は男性に属しているシュアンは、慌て、何か羽織らせるものはないかと周囲を探ったが、何もなかった。
……何もなかった、言葉通りに。元々は臓腐区西端の市街地であったその土地は、南方向の海岸線、あるいは西方向の水平線まで、一切視界を遮るもののないただの荒れ地になっていた。一方で、東側にはほんの数分前までは存在しなかった巨大な壁が雲をつくような高さまで立ち上がっている。部長たちの性能の異常さは知ってはいたが、実際にその力を見せつけられると愕然とするものがある。
「くぅ……ふぅー………! あー……痛かった」
シュアンが防御壁を見上げて呆けている間に、キイロは回復を終え、起き上がっていた。申し訳程度に掌で局部を隠しながら、肩をぐねぐねまわしてほぐしている。ついさっきまで生きたまま体を潰されていたにしては、随分とのんきな面構えだった。
「ほんと助かりましたよぅ、シュアン先輩。タマムシさんの頼みならと引き受けたんですが、思ってたよりもきつくてきつくて」
「怖いもの知らずのキイロでも痛いのはつらいんだね」
「痛みが一瞬だったらいいんですけどね。それがずーっと続くのは、さすがに参りました。ああ、〈魔女〉がいてくれたらなあって」
白磁のように美しい〈魔女〉。不死者たちの前に時折姿を現し、契約を取り交わして苦痛を奪い去ってゆく魔性のもの。シュアンたち市役所は、それを、永年、益体もない都市伝説だとみなしていたのだが……。
「いたらしいよ、〈魔女〉」
キイロは首を傾げた。短く切りそろえられた前髪が、額を撫でる。
「さっき通信で共有があったんだよ。今回の一件、実行犯は西妃髄区沖の〈蛸〉の主で間違いないみたいだけど、それとは別に絵を描いた首謀者がいるんだって。それが〈魔女〉らしい」
「……それっておかしくないですか」
キイロが口をすぼめて言った。その通りだ、とシュアンは思った。〈蛸〉と言い〈魔女〉と言い、これだけの事態を起こしうる不死者が今まで市役所の目から逃れていたのはおかしい。部長の内の何人かが1枚噛んでいるはずだ。アサヒガワ部長あたりが、特に怪しい。
だが、キイロの違和感はシュアンのそれとは別だった。
「〈魔女〉はわたしたちから苦痛を消してくれるんでしょう? やってること逆じゃないですか。わたし、すっごく痛かったんですけど」
言われてみればそうではある……否、苦痛を奪い去るというのはあくまで巷間での話であって、事実ではない。シュアンは体内に気泡をたてながら思考し、キイロに返答しようとした。しかし、それは果たせなかった。キイロが突如、風船のように膨張し、破裂したからだ。視界いっぱいに広がった後輩の内容物は、またたく間にシュアンの血液肉体を呑みこみ、飛沫に変えた。
勿論、シュアンにダメージはなく、パニックになることもなかったが、何が起きたかを理解するにはしばらく時間を要した。キイロの体内に残されていた〈蛸〉の一部が活性化し、増殖したのだ。〈蛸〉が切り離された状態でも動き、増えるというのは想定外だった。防御壁内にいる避難市民の中にも、キイロと同じく〈蛸〉に襲われたものがいるだろう。彼らの体内にも、〈蛸〉の一部がまぎれているはずだ。
……なるほど。
色のない手足に埋もれ、シェイクされながら、シュアンは現状を把握した。市役所の防御壁は、そのまま市民を閉じ込める檻になる。自分たちは失敗したのだ。臓腐市は、壊滅するだろう。
◇◇◇
一部の市民の体内から発生した〈蛸〉により、阿田華は阿鼻叫喚を成した。大木ほどもある太い手足は、密集した不死者の群れをなぎ倒し、悲鳴と断末魔をまき散らした。痛みへの恐怖から正気を失った市民たちは、我先に逃げ出そうとし、状況を悪化させていった。〈蛸〉に潰されるまでもなく、押し合いへし合い互いに潰し合う市民たちの口からは内臓が絞り出され、将棋倒しに崩れた人の山には火が燃え移った。
死だけが取り除かれたその災害の中に〈魔女〉もいた。〈魔女〉は、この騒動の渦中、ずっと市民の中に紛れていた。市役所にいる弟からは反対されたが、苦痛の味がよく溶けた熱と振動を浴びるためには、この位置取りが重要だった。〈魔女〉も一緒になって、逃げ惑い、恐怖し、苦しむ。その共有体験の元で、臓腐市は1個の巨大な痛みとなる。それが今回の〈魔女〉の契約条件であり、〈蛸〉の主と描いた地獄絵図だった。弟はいつものように〈魔女〉の我がままに折れ、部下2人を案内役として自分に与えてくれた。
2人はどうやら、弟から事情を聞かされていないようだった。自分たちが手をひく隣人が、〈魔女〉であることは知らないようだった。だから〈魔女〉は2人に対して、生きていた頃の名前を名乗った。〈魔女〉としての名は、その姓と名から1字ずつ取ったもので、だから〈魔女〉は不死者にしては珍しく、未だ生前の記憶を持っていた。
儀同うさぎ……〈痛みのギギ〉は、自分を降り注ぐ瓦礫から庇うニトウとハツカの背を、じっと眺め続けていた。
【(後編)に続く】
ーーーーー
▼関連エピソード