偶然は妻を象って僕を呼ぶ
同期の兵藤に自宅に招かれたのは、彼が妻を亡くしてから三ヶ月後のことだった。揃えられた革靴。綺麗に手入れされた亀の水槽。がさつな男という印象に反し、室内はよく整っていた。ただ、台所のカウンターの上、写真たてだけがおざなりに倒されていた。
「馬鹿な女だったよ。三年もたなかった」
吐き捨てるように兵藤が言い、ウィスキーをあけた。そんなことを言うもんじゃない、と私の空々しい反論に聞く耳を持つ様子はない。短い結婚生活でどれだけ不満をため込んでいたのか、彼は堰を切ったように亡妻を罵った。私はその言葉の背景に隠れた愛情を探そうとしたが、難しかった。
酔いが回り、兵藤の悪罵が尽きた頃、食器棚から音を立てて二つコップが落ちた。
コップは床を転がり、ちょうど私と兵藤が座る前に辿り着くと、起き上がりこぼしのように回転し立った。続いて、コップの上、カウンター上の水さしが倒れ、零れた水がちょうど二つのコップの中におさまった。
「おいこれ兵藤……」
「偶然だ」
兵藤の顔は真っ青だった。トイレ、とよろけたように立ち上がりつんのめる。グラスが倒れ床を汚しナッツが散乱した。途端、空調が誤作動しリビング上に張られた洗濯ヒモから雑巾が滑り落ち、零れた酒を覆う。散らばったナッツは立ち上がる兵藤の裾に全てに綺麗にひっかかり、奇跡的に皿の上に転がり戻る。
「詩織さんの幽」
「偶然だ!」
叫ぶ兵藤の背後で、雑巾がふわりと浮かび、洗濯ひもにかかった。
「これもだ!」
兵藤が洗濯物を殴りつけ、床に叩き落とす。
「自由に飛び回る分子が、偶然、同じ方向に動いたんだ!天文学的な確率だがありえない話じゃない!」
激昂する兵藤に反し、私は冷めていた。昨夜、自室で本を整理した時、私は手を滑らせた。床に散乱した本はきれいに積み重なり、タイトルの一文字目だけが上から見えた。「私はあの人に殺された」。なるほど兵藤。お前の言う通り、あれも偶然に違いない。
【続く】