NECRO5:動物大集合(3)
【(2)より】
■■■
皿は骨でできている。ナイフも、フォークも、テーブルも。乳白色の朝日が檻で遮られ、タキビの前に配膳された朝食を格子状に区切っている。メニューは昨日と変わらなかった。皿に薄く敷かれた血に浸された肉。添えられたパンが2つ。この街に小麦があるとは思えない。骨粉と筋繊維を混ぜて作った代替品だろう。実際に口にして確かめたわけではない。
「ジルさん、また……」
タキビがそう口にするや否や、部屋の隅で横になっていたジルが寝返りを打ち、血と肉とパンが、ぱくん、と消え失せた。骨でできた食器だけがその場に残り、小さく跳ねて音を立てる。うつぶせのままピンクの芋虫のように這って来たジルは、その皿の端をくわえてむにむにとしゃぶり、渋い表情を作った。
「やっぱダメだね~。消せなくはないけど、すぐには無理。この1枚消すのに千年単位で時間がかかる」
スープに爪の先端を浸して「味わって」いたカットが、ジルの弱音に反応し、床をひっかく素振りを見せた。
「……タキビちゃん、通訳して?」
「私たちは死なないから千年なんてあっと言う間だって」
「うわあ、ありがとう。でもそれじゃあ市長選に間に合わないからさあ」
ジルはそう言って眉を下げた。悔しそう、なのだろうか? 罵声を浴びせるチャンスにも関わらず、アイサは静かにしている。閉じ込められてからずっとこの調子で、どうやら眠っているらしかった。檻には朝・昼・夕の3回、食事が5人分配膳されており、食事の習慣のないタキビと休眠中のアイサ、そしてカットの「食べ残し」が必ず残る。ジルは自分の分も含めて、それらをまとめて消滅させる。檻の中でまともに食事を摂っているのはただ1人、バレエだけだった。
タキビはその姿をそっと横目で眺めた。薄灰の髪がスープに浸らないようにかきあげながら、バレエは床に置いた皿に顔をよせ、水を舐めるキリンのように骨の匙を食んでいた。全ての所作がやわらかなのに、姿勢がけだものじみている。血のスープを反射した瞳はもの悲し気に潤み、咀嚼した肉を呑み込み上下する喉は、針を飲むようにおっかなびっくりだった。
臓腐市に食事の義務はない。染みついた生前の習慣に倣う市民も多くはいるが、タキビはそれに当てはまらない。樹脂でできた人造の肉体は消化の機能も備えているが、使ったことはほとんどなかった。味覚と触覚で口内全体に刺激を与えるのは、脳のやわらかいところをぐっと押し込むような中毒性がある。しかし、物を口に入れ、咀嚼し、嚥下するという面倒さに釣り合うものではないし、何より排泄とその後の処理が億劫すぎた。
……1日目の夜、バレエはその理屈を聞いて、「ネクロと同じだね」と身の毛のよだつようなことを言った。一緒にしないでください、とつい語気を荒げたタキビに対し、バレエは駄々をこねる子供をあやすように微笑みを向けた。
「タキビさんの気持ちはとても大切だし、偉いと思う。殺されて食べられちゃうだなんて、かわいそうだもんね」
同調をするような口ぶりに反し、バレエはタキビが話した内容と全く噛み合わないことを口にした。タキビは当然、困惑したが、彼女はそれをなだめるように、大丈夫、と肯いた。
「食事を通じて私たちを愉しませることができて、動物たちも喜んでいるんだから。私から産まれる子たちは死んでしまっているけれど、それでも幸せ。安心して食べていいんだよ」
安心も何も動物は既に絶滅済みだ。家畜職はこの街の一般的な職種の1つに過ぎない。臓腐市産まれのタキビにとって、食事が死とセットであるという認識はなかったし、そもそも死を忌避するという感覚自体が根っこの部分に染みついていない。バレエの言っていることは根本的にずれている。
「わかってる。体が樹脂でできてたって、タキビさんは立派な人間だよ。みんなと同じ。ネクロとも同じ。私なんかがこんなこと言っても説得力はないかもしれないけれど、もっと自信をもって。コンプレックスだなんて、この街には似合わないんだから」
話題の飛躍に追いつけなかった。食事の話がどうしてタキビの懊悩に結びつくのか。確かにこの街の価値観に自分がなじめていないことをタキビは自覚していたし、悩んだこともありはしたが、それは年齢のギャップが理由であって肉体の材質が原因ではない。
「バレエさん、違いますよ。あなたは一体何を」
「何も違わないよ。タキビさんとずっとこの話をしたかったんだ。ネクロの中から見てて、ずっと心配だったから。かわいそうだなって。サザンカの妹というのもあって、余計にね……少しでも私が力になれたらって。私はあなたに幸せになって欲しいんだ」
その時の会話はそこで終わった。いや、それはそもそも会話だったのかすら、疑わしかった。翌日も、次の日も、バレエの一方的でとんちんかんな決めつけを聞かされ、タキビの気持ちはささくれだった。いつものタキビなら苛立ちを隠さず伝えただろう。だが、バレエの浮かべる微笑がその熱を散らしてしまう。彼女のうるんだ瞳は、彼女が本心から相手を想って発言していること如実に語っており、大きな徒労感をこちらに投げ渡してくる。
……そして今、バレエは皿に残った血を舐め、指先に付着したパンの粉をしゃぶっていた。右の親指をくわえたところで、タキビに見られていることに気がついたらしく、赤く濡れた唇を恥ずかしそうにぬぐいながら、再び例の微笑みを見せた。タキビは挑むようにその顔を見つめ、目をそらさない。
「なになになに。喧嘩?」
張りつめた空気を緩めたのは朝食を下げに来たヤマネだった。囚人同士なかよくしなよと、とぼけた作り声をあげ、バレエが差しだした皿やフォークを骨の爪で器用に受け取ってゆく。配膳係はヒューと名乗るワニ男が務めることが多く、彼女と顔を合わせたのは「島」以来、今日が初めてだった。
「ヒューさんにも言ったんですけど、食事は3人分でいいですよ。私は食べないし、アイサはずっと寝てるみたいで……」
「ふ~ん。ヒューはなんて言ってた?」
「大した手間じゃないから気にするなって」
ひひ、とヤマネは意地悪な笑みを浮かべ、骨でできた犬耳をひくつかせた。
「じゃあ、あたしが本当のところを言ってあげるよ。『母さんが食事は1日3回、5人分配膳しろと言った』。それでこの話はおしまい。タキビちゃんたちの都合は知ったこっちゃないんだな」
「従順なんですね」
「だって、あたしはあの人の娘だもん。……で、その娘から悪いお知らせね。立候補のどたばたが落ち着いて、母さんもようやく時間がとれたみたい。この後、あんたたちと話がしたいってさ」
「〈真白の檻のシラギク〉が?」
「せいぜい緊張してなよ。まあ、怖い人じゃないからさ」
じゃね、と巨大な爪を打ちあわせ、ヤマネは食器を盆に乗せて背を向けた。タキビは慌てて、待って、と声をかける。シラギクとの面会も気になるが、ヤマネに会えたこの機を逸するわけにはいかない。
「なんなの? あたしも忙しいんだけど……」
「ヤマネさん、〈死なずのネクロ〉と何かあったんですか」
時間が一瞬、凍りついた。その後、「何かって」と発された声は明らかに震えており、ヤマネ本人もそれに気がついたようで、唾を大きく飲み下した。「何もないよ」とこちらを振り向くが、ひきつった表情の上で、感情が細かく千切れている。
「逆に何? なんでそんなこと聞くわけ?」
「私はネクロの敵です。アイサも、カットも、ジルさんも同じです。『島』に渡ったのも、あの男と別れるようバレエさんを説得するためでした。今は〈支配のコマチ〉についていますが、あの男をぶちのめせるなら別にどこでもいいんです。シラギク・グループと敵対するつもりもありません」
「それは母さんに言ってよ。ほんと何? あたしがネクロを恨んでるように見えたの? だから懐柔できるかも……って、ナメないでよ」
そんなつもりは、というタキビの言葉は、ヒステリックに爪で床を叩く音にかき消された。骨でできている盆と皿だけが、激昂から取り残され大切に抱えられている。
「はいはい、その通り。あたしは〈死なずのネクロ〉と交戦したことがあります。ぼっこぼこにされました。これで満足? この街で暮らしてたらそういうことも偶にはあるし、恨みもなにもありません。期待外れでごめんね~! これでいい?」
「だから、そんなつもりは……」
「大丈夫!」
微温めたミルクのような声が、その甘さで緊張を溶かし、割り込んだ。床にこぼれたパンの粉と血の雫をぬぐっていたはずのバレエは、いつの間にか格子近くに寄り、ヤマネの両腕に科せられた骨の爪を見つめていた。その瞳はいつもより強くうるみ、今にも泣き出しそうだった。
「ひどいよね。女の子なのにそんなごっつい骨をつけられて……。大丈夫。私はネクロといっしょだった時もよく彼の目を借りていたから、あなたたちのことも覚えているの。商店街で私たちと戦ったんだよね」
ヤマネの顔から血の気が引いたのを、タキビは見た。
「ネクロは頑固だけど、私から何とか頼んであげる。あなただって自由になりたいでしょ? シラギクさんには恩があるから、あまり強くは言えないけれど……やっぱひどいよ、これは。自分の子供たちを、こんな風に拘束してさ。でもこれもあなたたち家族を思ってのことだから、許してあげてね」
ヤマネは噛み破るほどの強さで唇を噛んでいた。骨の犬耳はぴくりとも動かない。わからないがバレエが踏み込えるべきではないことを口にしているのは明らかで、タキビはそれを止めようと袖を引く。博愛の化身は、大丈夫、といつもの微笑みをこちらに向けた。
「タキビさん、知ってる? シラギクさんの骨は、ネクロなら壊せるの。私たちは一度、彼女たちの骨を全部壊してあげたんだ。……あ、ごめん。1人だけ自由にしてあげられなかったんだよね。えっと……」
ギジン、とヤマネが小さく呟いた。タキビはその名に聞き覚えがあった。「島」で自分たちを倒した、車椅子の不死者。1人だけ肉体の外に骨格を帯びておらず、明らかに正気を失っている様子だった。
「そう! ギジンくん! 彼だけ、内側から閉じ込められているんだよね。元々あった骨が、シラギクさんの《骨》に置換されている。あの蠅は厄介だったってネクロも褒めてたよ。彼のこともネクロに頼んで……」
「誰のせいで!!」
ヤマネがかすれた声で叫び、我に返ったように口を押さえた。驚愕に見開かれた目は、やがて燃えるような怒りに塗り変わった。バレエはそれを見て悲しそうに俯き、ごめんね、と口にした。
「あなたたちは結局またシラギクさんに囚われている。あの後、また捕まっちゃったんだね。私が間違ってた。ネクロに壊してもらうだけじゃだめなんだ。シラギクさんに改めてもらわなきゃ、意味がないんだ」
屈託のない優しい声に、ヤマネの怒りが散らされるのをタキビは見た。空を殴って肩を痛めたように、彼女は荒く息を吐き、一体、何を言っているの、と呆然と呟いた。バレエはやはり微笑みしか返さない。わかってる、と何もわかっていない慈愛に満ちた笑みで言う。
「ちょうどいいよね。この後、シラギクさんが私たちに会いに来てくれるんでしょ? 私からあの人に直接頼んであげるよ」
頼むって、何を、とあえぐ声。
「あなたたちがシラギクさんの本当の子供を殺したのを許してあげてって。この家から自由にしてあげてって」
やめて、とヤマネが絶叫した。大丈夫、わかってるから大丈夫、とバレエが子供を撫でるように優しく言った。カットはおろおろと床で丸まり、アイサは何の反応も見せない。タキビは耐えられず、バレエの肩を掴もうとし、床に寝っ転がっていたジルがこちらを見てクツクツ笑っていることに気がついた。だから言ったでしょ? と、その表情は言っていた。
『バレエちゃんはね、恋人の中でいちばんネクロに似てるってさ』
その真意をタキビが掴みかけた時。
コッ。 コッ。 コッ、と。
骨でできた屋敷の、骨できた部屋の、骨でできた扉が3度鳴り、真白の檻を挟んだ狂騒は、あっという間に静まった。乳白色のドアノブが回り、硬く湿った音をたてる。扉は、その主の手によってゆっくりと開かれた。
■■■
〈真白の檻のシラギク〉は、臓腐市の中で最も精力的で、最も多くの顔を持つ不死者だと言われている。市役所で市民自我漂白推進部部長のポストに就いていた時は、悲願であった自我漂白技術を実現一歩手前まで押し進め、その副産物として、〈魔女〉と〈生命のバレエ〉の協力の下、痛覚遮断契約の基礎を完成させることに成功した。彼女が繋いだ〈魔女〉の結社とのパイプは、現在も痛覚遮断維持保全局として市役所内部に残され、この街のあらゆる苦痛を封じ込めている。
優秀だった彼女が市役所を辞すること、しかもそれが「結婚」というなんとも前世紀じみた理由だったことは多くの市民に驚きを与えたが、それは〈真白の檻のシラギク〉の引退を意味しなかった。報道。飲食。興業。郵便。ペット。市井に下ってすぐに彼女が立ち上げた幾つもの事業は、崩壊しかけていた前世紀の生活様式を幾らか再興し、このアンデッドの街に再び根付かせた。蘇った業種は企業の体をなし、シラギク・グループという巨大な組織を完成させた。その成功の原因としてよく挙げられるのは、市役所時代に築いた多くの伝手、そして彼女が抱える強力無比な戦力……養子6人で構成された《白菊邸の私兵》だった。
「いやぁ、本当にごめんなさいね。いそがしくっていそがしくって。これはオフレコにしといて欲しいんだけど、こんなんなるなら立候補しなけりゃよかったなって、正直ちょっと思ってるのよね」
元市役所部長にして、シラギク・グループ総帥。白菊邸の老主人〈真白の檻のシラギク〉は、はしたない手うちわで顔を扇ぎながら、タキビたちの前に姿を現した。片手で車椅子を押しており、その上では例のヤマネの弟……ギジンと呼ばれる不死者が虚空を見つめていた。
「……あの、はじめまして、タキビ、です」
ヤマネは俯き、バレエは困ったように眉を下げている。ジルは床で無視を決め込んでいた。タキビは仕方なく、勇気を出して声を上げた。カットが怯えたように、右足首に巻きついた。
「真白の、いえ、シラギク……さん」
「はいはい、はじめまして。あなたはタキビさんね? ヤマネの斬撃を止めたんですって? すごすぎ。拍手。ただの勘だったけど、連れてきてもらって正解だったわ。閉じ込めることになっちゃったのは悪いけど……お詫びもね、色をたくさんつけてわたすから。許してちょうだいね」
ぺらぺらと早口で喋りながら、シラギクは部屋の隅の椅子を乱暴に引き寄せた。息子を乗せた車椅子をその横に停めると、優雅な身のこなしで椅子の前にまわり、どっかと尻を置く。乳白色のドレスが一瞬はためき、死んだ蝶が地面に落ちるように床に降りた。
「で、早速本題だけど……」
シラギクは一度言葉を切り、棒立ちのヤマネに不思議そうに視線を向けた後、ドレスの裾がめくれるのも構わず脚を組んだ。口角に喜色を滲ませ、値踏みするように檻の中のタキビたちを眺める。互いの視線が絡んだ時、バレエが小さく一礼したのをタキビは見逃さなかった。
「今度の選挙でわたしに加勢して欲しいのよ。うちの私兵は強いけれど、たくさんの人間を殺すのには向いていなくてね。その点、あなたたちがいれば大助かり。何よりいちばんはタキビさんね……あなた、すばらしいわ」
いきなり自分の名を呼ばれ、タキビはどきりとした。シラギクと正面から目があう。緩やかに掘られた湖底の砂紋のように、幾重にも重なり合った皺が顔から首へと流れドレスとの境目に溶けていた。美しい白の流れの中で、それを遮る髪と瞳の黒さが強く目を引く。
「……買いかぶりですよ。アイサたちと違って、私は何も力になれません」
アイサのような力も、カットのような判断力も自分にはない。ジルのように特別でもない。あるのは、ほんの少しだけ不死者の平均からはみ出した、ささやかな共感能力……。
「あなたの共感能力が、わたしは欲しいの」
こちらの心を読んだかのように、シラギクはタキビの自嘲を上書きした。
「具体的に話しましょうか。あの〈皆殺しのアイサ〉と親交を結び、ある程度その行動を制御できている。タキビさん、これはね、本当に凄いことなのよ。わたしは、他人と話をし、わかりあおうとするあなたの姿勢をとても尊敬しているの。それができなくて、これまでどれだけ苦労したか……」
そのぬばたまの瞳からタキビは目を離せない。「島」で覚えた無力感、そしてバレエとの会話によって疲弊した心の間隙をつくように、シラギクの声は強く響いた。バレエと一緒の檻に閉じ込めたのは、この効果を狙って……? 打算が透けてもなお、安堵を覚えてしまう。ヤマネの言葉を借りるなら、まさに今、自分は「懐柔できるとナメられている」。そうわかっていても、流されそうになる。
「シラギクさん、私は」
「よくもまあ、ぺらぺら嘘をつくおばあさんだよね」
口を挟んだのはジルだった。いつの間にか身を起こし、床の上であぐらをかいている。ピンクフードの影になり、その表情は見えない。
「大量虐殺に向いてない? 私兵はそうかもしれないけれど、そんなのあんたとバレエがいれば充分じゃん。この街を10分後には滅ぼせる」
本当の目的は私だよね、とジルは言った。
「魂離記録式投票という選挙の〈ルール〉自体に介入できれば、有利に投票を進めることができる。同類の私を通じて、ゴトをゆさぶろうって算段なんでしょ?」
「あら、鋭い」
シラギクは、自分の頬をぴしゃりと叩き、ケラケラ笑った。……ゴトというのは、確か選挙操作委員事務局の局長だったはず。今回の市長選を取り仕切る市役所職員……その不死者と同類? タキビの困惑に応じるように、ジルは「ゴトはこの街の〈ルール〉そのものなんだ」と小声で補足した。
「言っておくけど、私でもゴトをどうこうするのは無理だから」
「……だったら話は元に戻るわ。あなたは嘘だって言ったけど、私がタキビさんのことを高く評価しているのは本当よ? アイサさんだけの話じゃない。この選挙で勝つ上で、彼女のコミュニケーション能力は大きな戦力になるはずだわ」
「じゃあ、タキビちゃんがOKなら、私もいいよ」
ジルは投げやりにそう言って、床に寝転がった。シラギクの視線が再びこちらに向く。巨木の根に絡めとられるような魔力を感じつつも、先ほどよりは冷静にタキビは応じることができた。
「……さっき、ヤマネさんにも言ったんですが、私は選挙自体にあまり興味がありません。今は知りあいを通じて〈支配のコマチ〉の下にいますが……」
「その知りあいって、女米木の〈腑分け〉かしら?」
「はい。カットは彼女の部下でしたけど、もう辞めています。従う義理はないですし、〈支配のコマチ〉なんて顔も知りません。私はネクロ……〈死なずのネクロ〉の邪魔ができればそれでいい」
「あの厄介もの。だったら話が早いわ。協力しましょう。この市長選において、あれの排除は立候補者全員の総意よ」
「ネクロの排除が総意なら、あなただけを特別に選ぶ理由がないですね」
タキビの挑発に意味はなかった。ひょうきんに振舞うこの怪物の素顔を覗いてみたい。それだけだ。だが、シラギクはそれには乗らず、品なく手を叩いてケラケラ笑っただけだった。その振動で車椅子のギジンから垂れる唾液が揺れた。
「タキビさんは若いのにほんと立派ねえ。わたしにつくメリットを提示せよ、と。承知しました! ……『今の立場を理解しなさい。言うことを聞かなきゃこの檻から出さないわよ!』」
明らかに本気ではない口調でそう言い、シラギクはひとりで噴き出した。
「嘘よ、嘘。つまんないわよね、そんなの。……そうね、間違っていたらごめんなさい。ヤマネの攻撃を防いだっていうあなたの武器。それってやっぱり《ネクロのナイフ》への対抗手段ってことでいいのかしら?」
タキビは肯定し、シラギクが来て以来、一言も発していないヤマネに目を向けた。電源を落としたように宙の一点を見据えており、その心中は全く読み取れなかった。
「専門ではないけれど理屈はなんとなくわかるわ。〈皆殺しのアイサ〉の鉄と女米木の新製品。強い材料を足して作った強い武器ってわけよね。だったらタキビさん、そこにわたしの《骨》を加えればもっと強くなると思わない?」
「それは、私にこの家の私兵になれということですか」
「まさか。それはわたしの家族だけよ。あなたには自由に着脱できて、形状の融通も利く鎧を仕立ててあげるわ」
「……わかりました。受けましょう」
そう答えながらタキビは別のことを考えていた。犬の爪。ワニの口吻。鳥の脚部。そして蠅。ヤマネたちが身に着けていた動物を模した骨格。シラギクの言葉の裏を返すなら、あれらは自由に脱着ができず、形状の融通も利かないということになる。だとしたら、やはりその本質は檻なのだ。『あなたたちが、シラギクさんの本当の子供を殺した』……終身刑。バレエの言葉とその先の想像が自然と浮かび、1つ忘れていたことに気がつく。
「あの、すみません。シラギクさん。勝手に私が代表みたいに交渉してましたけど、バレエさんに関しては、私の仲間ってわけじゃなくてですね……」
「ん? ああ、それはいいのよ」
シラギクは、道に転がった小石か何かを見るように、バレエに視線を向けた。
「あれは、他人から頼まれたことは断れないモノなのよ。誰の言うことでもきくから、誰にも制御ができない。早いもの勝ちだったけど、この市長選ではわたしがいちばんだったみたいね……バレエ!」
「はい、シラギクさん」
よくしつけられたペットが尾をふるように、バレエはうるんだ瞳で老婦人を見返した。
「久しぶりね。こうして話すのは〈蛸〉以来? あれも檻越しだったから、そう思うと運命的よね。あの時はまだ、バレエなんて名前はなかったかしら」
「うん。ゲレンデさんから頂いたんだ」
「我らが元市長サマの命名だったのね。道理でで適当な……いえ、そんなことはどうでもいいの。あなた、またわたしの役に立ってくれるわよね?」
「もちろん。でも、ひとつお願い」
条件をつけられたのが予想外だったのだろう。シラギクは驚きの表情を見せたが、それはすぐにガサツな仕草で覆い隠された。なんでも言ってごらんなさい、と鷹揚に応じる。ヤマネたちの許しを請う気だと察し、タキビは唾をのみ込み、シラギクの表情を注視した。檻の前で無感情を装っているヤマネからは、激情と動揺が湯気となってたちのぼってくるようだった。
「ヤマネさんたちが、あなたのお子さんを殺したことを許してあげて欲しいの」
一瞬。
ほんの一瞬だったが、タキビは見た。シラギクと呼ばれる不死者が持つ偽物の顔が全て剥げ、その地肌が露わになったのを確かに見た。そこにあるのは、部長でもなく、総帥でもなく、主でもなく、母でもなく、永遠も半ばを過ぎて白濁に呆けた、ヒトとしての輪郭だけだった。ただふたつ、瞳と髪だけが溌剌と黒かった。それは骨にこびりついた煤のようで、あるはずのない何かを期待して何もない虚空をじっと見ているようだった。
「……ヤマネ。そろそろ屋敷の警備にまわってくれるかしら」
つまみを回してヒトに寄せるような、わざとらしく明るい声でシラギクは言った。
「痛遮局のヨツツジがまた〈魔女〉がらみで暗躍しているらしいの。忍び込まれたら面倒だわ」
「はい、母さん」
「ありがとう。頼むわね」
ヤマネは、母親の横に座っている車椅子の弟を一度見た後、背中を震わせながら部屋を出ていった。シラギクは扉が閉まるのを見届けた後、いつもの調子にもどって、困ったわね、とひょうきんに肩をすくめてみせた。
「大抵の条件ならのんであげるけど、それはダメよ。市長選の勝利と家族だったらわたしは家族を選ぶわ」
「シラギクさん、恨みに囚われないで。あなたが殺されたお子さんを想う気持ちは想像できる。ヤマネさんたちが許せないんだよね。だから本当の子供を殺した張本人を養子に集めて、こうやって罰しているんでしょう」
「相変わらず、わかったような口を叩くわね」
「ううん。わからない。想像してるだけ。私は誰かを特別に愛する気持ちがわからない」
バレエは言う。愛。自分にとってそれは周囲の全てに等しく向けるものなのだと。なにか1つの特別が、ただ1人だけを愛する気持ちが、昔からどうしてもわからないのだと。だから裏切った女を愛するネクロの特別も、我が子を殺した相手を憎むシラギクの特別も、強い意味と価値があるに違いない。自分にはない意味と価値が。死んだ動物しか産みだせない、冷え切った我が身にはないものが……。
「私はあなたたち全員に幸せになってほしい。私なんてくだらないものが、その役にたてるならなんだってする。だから、あの子たちのことを許してあげて。あなたもそうすれば、もっと幸せになれるはず。恨むんじゃなくて、亡くなったお子さんのことを想う時間が増えるはずだよ」
博愛の化身に詰め寄られ、シラギクは辟易したようだった。たかる蠅をはらうように手をふり、ギジンの車椅子を引き寄せた。
「……言いたいことはたくさんあるけれど、ひとつだけ。バレエ、あなた、本当にこの子たちが自由になることを望んでいると思っているの?」
シラギクはバレエに見せつけるように、ギジンの頭を撫で、顎の下を指でなぞった。ギジンは顔を傾かせ、口の端から涎を垂らし、一切の反応を返さない。バレエはそれらに普く慈愛の眼差しを向ける。
「当たり前じゃない。檻の中に閉じ込められて喜ぶヒトはいません」
「あなたは自分で望んで、ウン百年、檻に閉じ込められていたじゃない」
「私なんかといっしょにしちゃダメです。あなたたちは、私と違ってまっすぐに誰かを愛することができる温かい人間だから。檻に閉じ込められて喜ぶなんて、そんなの動物か私だけだよ」
「……よくわかったわ。何も変わってないのね、あなた」
反吐が出る、と言いたげにシラギクは顔をしかめた。タキビも同感だった。確かに彼女はお似合いだった。あの男と。〈死なずのネクロ〉と。ジルの言う通り、この2人はそっくりだ。タキビはその意味を理解した。
■■■
骨でできた棚に、骨でできた食器を戻す。有機質の硬さが触れ合う音は陶器のそれと似ているが、よく聞くと少し湿りを帯びている。母に命じられて部屋を後にし、ヤマネはすぐに平静を取り戻した。自分が熱しやすく冷めやすいことは知っていた。しかし、それが本当の自分かはわからない。母の子供を殺した自分がどんな人間だったのか、今となっては思い出せない。
精神を壊す前、ギジンは自分こそが母の息子を手にかけたのだと言っていた。それが本当かどうかヤマネにはわからない。その性別も本当に息子だったかわからない。誰が殺したのかも、そもそもなんで殺したのかも、集められた6人が元々は誰だったのかも覚えていない。永遠の生はあまりに長く、全てがあやふやになってしまった。ただ、自分たちが殺したのだという事実と学生服だけが母の檻によって保存され続けた。気が狂っても気が狂っても、焼け場に骨が燃え残るように、それだけは残り続けた。
『母さんは、おそらく自分たちをもう恨んでいない。これに終わりを作らないために閉じ込めているんだと思います』
罪と罰が擦り切れても続けるために……それは、ギジンの解釈だった。虚無的で陰湿。あの弟らしい。ヤマネの解釈は違う。終わりを作らないためではなく、苦しませ続けるために閉じ込めるのだ。誰もいなくなった無人の荒野で、それでも罪と罰を残し続けるためにこの骨の檻は建てられたのだ。そして、全てが移ろぎあやふやになってゆくこの暮らしの中で、その罪と罰だけがただ1つの確かな自分だった。絶対に擦り切れず、壊れないから。これだけは不変であり続けるから。そのはずだった。
びしり、と。
あの夜までは。あの音が鳴るまでは。あの時、両手で鳴ったそれ。水平線に走ったライン。母の檻は壊れない……全ての基底を打ち崩したナイフの一撃の幻聴に、ヤマネは強く目蓋を閉じた。びしり、びしり、と。幻聴は続いた。室内の空気がゆったりと動き、鼻をくすぐった。記憶は臭いと強く紐づいているという。鉄臭い血と、歯垢のような腐臭。あの男の臭いが幻聴に引きずられて臭った気がした。自分の全てを否定した、あのけだものの……。
違う。気がしたのではない。
ヤマネは目を開いた。食器棚の右、大きくとられた格子の窓に切断線が走っており、そこから臭気が流れ込んでいた。この屋敷の全ては母の骨でできている。つまり壊れることはない。切断されるはずがない。それが可能なものはこの世でたった1つだけだった。貫通し、2度3度見える切っ先。動体視力が回転する鋸刃をとらえる。その正体は悦ぶように震える恋人の歯5人分。壁が崩れ、破片が床に。有機質の硬さが触れ合う音は陶器のそれと似ているが、よく聞くと少し湿りを帯びている。
「……あのくせ毛野郎の情報は確かだったみてえだな。バレエは確かにここにいる。そうだ、キイロ。その通り……俺にはわかるんだよ。裏切りのレコードは魂のレイヤーに刻まれるもので、位置や時間は関係ない。ハヤシとミィの受け売りじゃない……理屈じゃねえよ……」
朦朧と何かを呟きながら、黒々とした巨大な肉と機械の塊のようなそれは壁をくぐり、ヤマネの横を通り過ぎた。鉄鍋が煮えるような声だった。あの夜、聞いた声だった。自分に触れる全てを見下げ果て、汚損し、唾棄するように、それは屋敷の床を土足で踏みにじり、たわむれに骨の食器をつまみあげ、鼻で笑って投げ捨てた。
「……バレエも、お前たちも、魂と肉で溶け合った俺そのものだ。レコードがそれを記録している……俺はお前たちの全てがわかっているし、お前たちは俺の全てをわかっている……ユキミ、おい。お前は違うぞ。調子に乗るな。誰がてめぇなんか……」
「待て」
「……おい、なんでそこでタキビの話になるんだ。あの女の話はやめろ。ハヤシ!ミィ!理屈っぽいのもいい加減にしろよ……ああ、大丈夫。そろそろどちらか決めないとな。愛や裏切りが歪んだわけじゃない。問題があるのは俺の方だ。こんな簡単なことがわからないでどうする……」
「待て!」
ゆっくりとその瞳がこちらを向いた。ヤマネは息をのむ。そこに人間らしい情動は一切浮かんでいなかった。虹彩の奥、頭蓋の中で、理解のできない理屈に基づき組み上げられた歯車が狂った歯同士を噛み合わせ、気が違ったように回り続けていた。
「何の目的? 市長選の牽制のつもりなら……」
「目的だと?」
あの時の恐怖を噛み殺し震えをこらえて問うたヤマネを、それは軽蔑し切った眼で見降ろした。それは知能の低い動物に対して向ける視線だった。ヒトであるならば誰でも知っていることすらわからないままに、檻の中で走り回っている間抜けなけだものを蔑む眼光だった。
「バレエは俺を裏切った。だから俺はバレエを殺す」
当たり前のように滑らかに。この世の真理を語るように。〈死なずのネクロ〉は、その自分勝手で乱暴な真実を口にした。
「なぜなら、俺はバレエを愛しているからだ」
【最終セクション(4)へ続く】