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necro0:深海博愛(後編)

【あらすじ】
・不死者の暮らす街、臓腐市で、主人公ネクロが無茶苦茶する。
・今回の主役はネクロではない。

【市役所職員一覧】
・市長:ゲレンデ
・暗黒管理社会実現部:部長ウォリア、係長ネアバス
・市民自我漂白推進部:部長シラギク、課長マルメロ
・臓腐いきいき生活部:部長クモツ
・都市人口調整計画部:部長シジマ
・魂魄産業戦略開発部:部長アサヒガワ、課長ヨツツジ、ニトウ、ハツカ
・市内災害拡大振興部:部長タマムシ(代理市長)、課長シュアン、キイロ
・屍材職員製造活用部:部長コマチ
・市バス管理センター:局長スロウ
・選挙操作委員事務局:局長ゴト

(中編)より

◇◇◇

 〈蛸〉の残骸が活性化したという一報を受けた瞬間、タマムシの前で複数のことが同時に起きた。①会議室中央に横たわる〈蛸〉の足が1度跳ね、直後、轟音と共に室内から消失した。②屋外に面した壁に突如大穴が開き、席に着いていたスロウがいつの間にかその横に移動していた。③身じろぎ1つすることのないシジマが、うたた寝でもしたのかガクンと頭を落とした。

 ①と②は簡単に説明がつく。現在、市内各地で発生している〈蛸〉の活性化がこの会議室でも起き、それを感知したスロウが目にもとまらぬ速さで足を市庁舎外に放り出したのだ。スロウは自身の現在位置をダメージと認識することで、少しずれた座標上に肉体を回復・蘇生することができる。言わば、物理法則を無視した高速移動であり、その〈急ぎ足〉を捕えられる者はほぼいない。

 なので、スロウがシラギクの攻撃を避けられなかったのは、行動の終わり際を狙われたためだった。大小様々な骨で形成された白い檻がスロウの小柄な肉体を内部に収めている。檻はそのまま絡繰り細工のように各部をスライドさせて、拳大に縮んだ。閉じた檻の隙間からスロウの血と肉とその他がびゅるびゅる噴出する。タマムシは少し腰を浮かせ、尻ポケットからハンカチを取り出すと、スーツが汚れないように同僚の肉の飛沫を空中ではらい落した。

「シジマ部長」

 シラギクを殺せ、という意を込めて、タマムシは〈黄泉送り〉の名を読んだ。だが、本来なら自分が命ずるまでもなく、シジマはシラギクを殺していただろう。③? うたた寝だって? そんな馬鹿なことがあるはずがなかった。あの機械のように生真面目な死神が、会議中に船を漕ぐなんて。シジマは返答せず、くぐもったうめき声をあげただけだった。そして、その理由はすぐにタマムシにもわかった。

 吐き気だ。あらゆる意思が吹き飛ぶような猛烈な吐き気が、タマムシの体内を圧迫し、脳を焼いた。ただ、それが吐き気という形をとったのは、その濃度をほんの少しで希釈するべくタマムシの脳が翻訳したからだった。……不快。その正体は、常軌を逸するほどの「不快」だった。気づけば床が眼前にあった。視線を上げる。ヨツツジと目が合う。黒い黒い人型の裂け目の頂点で、糸をひくような笑みのシルエットができている。

「〈魔女〉が苦痛を司るように、私は不快を司るのです。姉は痛み、私は苛む。私は不出来な弟で、姉のように力を体系化できてはいませんが」

 姉だって? 尋ねようとしたが、声が出なかった。ヨツツジはしゃがみ込み、タマムシの耳元で囁いた。

「何か訊きたそうですね。その通り、私は〈魔女〉の実の弟で……」

「どきなさい」

 喋りかけていたヨツツジを、シラギクが足で押しのけた。右腕を突き破って生えた骨の鋏が、音もなくその腕の中に引っ込んだ。切り落とされたシジマの首がごろんと床に転がる。いつも高慢ちきに笑っていた白スーツの老婦人は、珍しく神妙な表情になって、タマムシを見下ろしていた。

「ざまあないわね、代理市長サマ」

 やはり声は出ない。タマムシは、その同僚の顔をただ睨む。

「……長い付き合いってのも、嫌なものね。あなたが何を言いたいのか、目を見ただけでわかってしまうの。その通り。企んだのはわたしよ」

 シラギクはそう言って口元を緩め、憎々し気に微笑んだ。やはりかとタマムシも心中で笑い返す。油断も隙も無いばあさんめ。

「コマチ部長とアサヒガワ部長も一枚噛んでるの。〈魔女〉との仲介役はそこのヨツツジのお仕事ね。契約条件と算段が整った時点で、うちの隠し玉だった〈蛸)の主にもはたらきかけた。できるだけ市民を取りこぼさないよう、防御壁で街を取り囲むのも最初から決めてたことよ」

「……な、ぜ……?」

「なぜもなにもないわよ。わたしたちは仕事を全うしてるだけ。『臓腐ぞうふ市の皆さまのより一層の安心と健康のために』、この街から痛みを失くすことは重要な課題である……。あなただって主導してた話じゃない」

 痛み、苦痛。永遠の生を送る不死者を苦しめ苛む最大の要因の1つ。退屈に並ぶ、市役所の重要課題。だが、痛覚遮断の成功例は未だ少なく、職員すらも処置を受けたものはほぼいない。一方で、市民の中には既に痛覚を失くしている者がいた。彼らは口をそろえて〈魔女〉の都市伝説を語った。契約を結び、苦痛を受け渡したのだと……。

「〈魔女〉に市民全員と契約を結ばせる、それが目的よ。わたしたち市役所が個人単位で処置を施すよりも、よっぽどてっとり早いでしょ?  契約条件は市民を皆殺しにして、苦しめること。取りこぼしは契約外になるけれど、それは後から対応窓口を設ければいい。……適任もいるもの」

 シラギクは、恥ずかしそうに身をくねらせるヨツツジを害虫でも見るような目で見た。

「これは、こんなだけど、〈魔女〉とのパイプ役にぴったり。実力はアサヒガワ部長が太鼓判を押してくれているわ」

「どうも……魂産部痛覚遮断第1課課長改め、痛覚遮断維持保全局局長のヨツツジです」

 気が早いわよ! とシラギクがヨツツジの頭をはたいた。はたかれた形に、その特徴的なくせ毛が凹む。シラギクは、不潔なものにでも触れたように、ハンカチで手をぬぐった。

「……新部署を立ち上げる正式な申請は後で出すわ。いいでしょ? あなたの頭越しだけれど、内々に市長にも許可はとってあるわよ」

 市長本人はともかく、その息子のユキミについては事前に〈魔女〉と契約を結んでいるのだろうとタマムシは予想した。恐らく、市民たちとは違って、苦痛を伴わない穏便な条件の下で。

「ご明察。どうかしら? 今回の一件、認めてくれないかしら、代理市長サマ」

 タマムシは歯噛みする。味方であるシジマとスロウは既に排除され、自分自身もヨツツジの不思議な力によって動きと思考を縛られている。そして目の前には、自らに反旗を翻した部長級職員……「犯罪者」に匹敵する規格外の不死者〈真白ましろの檻のシラギク〉がいる。タマムシには、ここから逆転する術は何1つ残っていなかった。

「嘘おっしゃい」

「まあね」

 残っていなかった。なので、タマムシは自身の肉体を逆転可能な状態にまで「巻き戻し」、身を起こした。平然と立ち上がるタマムシを見て、ヨツツジが目を丸くする。その目と自分の指先との直線距離を時間軸経由で潰し、位置を重ねた。眼球を貫いた奥で、指先に触れた脳髄を「早送り」し、劣化させ、粉にした。脳ごと意識を失ったヨツツジは、床に膝をつくよりも早く、その体積と重量を空間ごと希釈され、その場から消滅した。

「……シラギク部長。一応きいとくけど、力づくでなんとかなるとは思ってないよね?」

 スーツについたほこりを払い落し、からかい気味に同僚に尋ねる。シラギクは、ふざけた調子で両手を上げ、それに乗った。

「まさか。この市で2番目のバケモノ相手にそんなことは考えないわ」

「だったら、何? まさか話を聞いてもらえると思ったの? 代理市長であるこの私が、市民を皆殺しにして街を滅ぼす提案を認めるとでも?」

「思ったわ。だって、あなた、その気ならこの程度の災害、簡単に片づけられるじゃない」

「……ふーん」

 死してなお肉体に魂が憑いているという矛盾を解消するために、肉体が魂が憑くに足る状態にまで因果が逆転……回復・蘇生する。臓腐市の中で最も典型的な不死者「起き上がり」。タマムシは、その起き上がりの不死性を拡張・応用し、自らの肉体に接触したモノの時間を操作することができた。因果の逆転の伝播。〈蛸〉に触れれば、それで終わりだった。全てを巻き戻し、壊れた街並みも、潰れた市民も、元の木阿弥にできた。

 ならば、それをしなかったのは。

「長いつきあいだもの。わかるわよ、あなたが考えてることなんて。あの時、助け船を出してあげたでしょう?」

 いたずらをした娘のようにくすくすと笑いながら、白スーツの老婦人はそう言った。『正気の人間の自我を漂白するのは手間がかかるから』。なるほど、彼女が会議で語った動機にはそんな意図があったのか。市内災害拡大振興部部長として市民の退屈を紛らわす災害を望みながらも、代理市長としてそう主張するわけにはいかなかった、タマムシへの配慮。

 いや、違う。

 タマムシは、シラギクの横を通り過ぎ、会議室の窓を開けた。途端に、外気が室内に流れ込んだ。血と煙と苦痛が練り込まれ、粘度を持った熱が、会議室に充満した。水平線に赤く落ちてゆく夕陽よりも、眼下の惨状ははるかに紅く、暴れ回る〈蛸〉の足は血と炎のとぐろを巻いて、街の全てを壊し尽くしている。

 部長としてでも、代理市長としてでもない。タマムシはただ1人の不死者として、この街が好きだった。この街の、こういうところが好きだった。無茶苦茶で、ぐちゃぐちゃで、はちゃめちゃなところが好きだった。だからこの街を守るために、この愉快極まりないふやけた地獄を永遠に継続するために、部長になり、代理市長になった。ただ、それだけだった。

「どうかしら、タマムシ?」

 シラギクは、白々しく再度尋ねた。なるほど、彼女の言う通り、長いつきあいってのも嫌なものだとタマムシは思った。以心伝心。互いのことを知り尽くした友人とは、こうも仕事がやりにくい。

◇◇◇

 市内各所で発生した〈蛸〉は、虚をつかれた市民を餌食にし、体積を増大させていった。その速度は西妃髄にしひずい区沖の海中のみを発生点としていた第1波とは比較にならない程速く、ウォリアやコマチと言った市役所の部長級職員すらも、いとも容易く圧殺した。ただし、ウォリアは呑まれる寸前、部下のネアバスに対して「飽きた」と通信を入れており、本件の黒幕の1人であるコマチは、自ら屍肉の海に身を投じたという目撃証言が後に寄せられた。

 シュアンのような特殊な肉体を持つ職員を除いて、ほぼ全ての市役所職員が、突然の〈蛸〉の活性化に対応できず、その大質量の固形の洪水に呑まれ、潰され、死に、蘇り、死に、蘇り、死ぬこととなった。つまり、他の市民と同じく、〈魔女〉を喜ばせる大きな苦痛の一部となった。最早〈蛸〉の侵攻を止める者はなく、その先端はついに市役所市庁舎の足元に達した。市の象徴とも言える巨大な庁舎は、その頑健な見た目に反して、まるで自ら望んだように容易く崩れ去り、市民をより細かくすり潰す瓦礫の歯を〈蛸〉に提供した。

 路地裏を、通りを、地下道を、屋上を。あらゆる隙間と広間を、飢えた子供のようにねぶり尽し、〈蛸〉はついに市の中心である臓腐区を踏破した。ウォリアが吹き飛ばした防御壁外の〈蛸〉も、既に復活を遂げており、荒れ地を蠢く屍肉の草原に変えていた。現在の臓腐市において、平らな土地が残されているのは、市民たちの避難先である挫傷ざしょう阿田華あだばなだけだった。そして、市役所が崩壊した以上、その阿田華の運命も、既に決していた。

◇◇◇

 『臓腐市の皆さまのより一層の安心と健康のために』。部署ごとに解釈が異なるとは言え、全ての市役所職員はそのスローガンを前提に自我を保ち、魂を残している。ナチュラルな人体から逸脱した肉体も、全てはこの街のための改造だった。だが、ニトウは今、その肉体の性能を駆使し、パニックになった市民たちを押しのけていた。全ては儀同うさぎを守るためだった。彼女も市民である以上、自分の行動は間違っていない。間違っていないはずだった。

「先輩! こっちです!」

 ハツカの声が上から聞こえた。民家の屋上。脚の筋肉を引き絞り、地面を強く蹴る。強化された肉体は望みどおりに動き、2階の高さにまで自分と儀同を容易く運んだ。屋上に着地し、握る手首から先から無くなっていないかとニトウは慌てて振り返る。儀同は跳躍の衝撃で肩が外れたようで、長袖に隠された細身の腕で、苦しそうに左肩を押さえていた。

「すみません……ご迷惑をおかけして」

 消え入るような声で儀同が言った。まったくですよ、とハツカがやや嫉妬の混じった声で言う。たしなめるつもりで睨んだが、生意気な後輩は不満げに口をへの字に曲げただけだった。

「先輩、ボロボロですよ」

 ニトウは言われて気がついた。右足の甲は踏み潰されて血まみれの雑巾のようになっており、左手の薬指と小指はありえない方向にねじ曲がっている。顔に触れると、どこでひっかけられたのか頬が裂けていた。不思議なことに痛みはなかった。脳内麻薬が分泌されているのだとニトウは思った。すみません、すみません、と繰り返し謝る儀同の声が、どこか現実感のない思考の中にこだまする。

「……終わりだな、もう」

 ニトウは、呟いた。屋上から見える阿田華の景色は、臓腐市の崩壊を告げていた。肉肥田にくひだ電波塔が傾き、倒れてゆくのが見えた。市庁舎のある方向には、既に何もなかった。建物の足元では市民が吹き溜まり、互いに押し潰し合いながら蠢いていた。〈蛸〉の足は喜ばし気に市民の塊に手を伸ばし、舐めとってゆく。ドン、とニトウの足元が大きく揺れた。継いで、爆音。トラックでも突っ込んだか。ここも長くない。

「先輩、行きましょう! このまま屋上を渡って、防御壁に取りつくんです! 壁を乗り越えて市の外に出れば!」

「ああ、そうだな」

 ニトウは立ち上がり、ハツカの後を追って隣の建物に跳ぼうとした。そこで、儀同を放置していることに気がついた。振り向くと、儀同は泣き笑いのような表情を浮かべたままへたりこんでいた。恐怖で腰が抜けたのか。ニトウは舌打ちをし、そちらに駆けよる。先輩! と背中に後輩の絶叫が届く。再び、爆音。足元の床が急に下がった。姿勢を保てず、転倒する。ゼリーの床に手を突いたように、建物はそのまま崩れていった。儀同を見る。表情はわからない。すみません、すみません、と繰り返していることだけがわかる。その理解だけを残し、視界が暗転する。

 ……ニトウは目を開き、自分が意識を失っていたことに気がついた。砕けた歯と噛み破った頬の肉を吐き出す。血に砂利が混じっている。顎に地面の感触。腕は動く。だが脚が動かない。痛みはない。視線を上げると儀同が膝をつき、両手で顔を押さえて泣いていた。その横ではハツカが何事かを叫びながら、崩れた建材を持ち上げようと四苦八苦していた。建材を掴むハツカの手が真っ赤に焼けただれているのがわかった。首を無理矢理ひねると、右脚が火に舐められ、炭化していているのが見えた。痛みはない。

 ハツカは、ニトウが覚醒したことに気がついたようで、こちらを見て何事かを叫んだ。声が聞こえないことでニトウは自分の鼓膜が破れていることに気がついた。ハツカは地団太を踏むような身振りをし、顔を真っ赤にして儀同をはり倒した。泣いてないであんたも手伝え、とでも言っているようだった。儀同は、ゆっくりと立ちあがった。泣くのはやめない。両手は顔を覆い、表情は見えない。指の隙間から、涙があふれた。

「痛い」

 あふれた涙は、血の色をしていた。顔を抑える両手の、指の先端が、眼窩に突き刺さっていることにニトウは気がついた。気になるニキビをいじくるように、儀同はぐりぐりぐりぐりとその指を動かし、血と水晶体をほじくった。

「痛い、痛い、痛いなぁ……」

 儀同の異常に気がついたらしく、ハツカが1歩、退いた。逃げろ、とニトウは口に出した。出せたかはわからなかった。喉が破れているのかもしれない。肺が潰れているのかもしれない。痛みはない。痛みはなかった。不自然な程、自分には痛みがなかった。それが彼女の正体を継げていた。契約の条件が、手土産を受け取ったことだったのか、引っ越しの挨拶に応じたことだったのかはわからない。だが、自分は契約を結んだのだ。儀同うさぎと。都市伝説の〈魔女〉と。

 儀同は、〈魔女〉は、自分の下目蓋を指で引き破り、そのまま己の全身の皮膚を剥いでいった。プレゼントの包装を散らかす子供のように、体中を掻きむしる。破りとられた皮膚はその野暮ったい長袖の服と混じり合い、綴じ合わされ、歪なドレスを形作っていった。皮膚の下から露わになった真っ赤な肉は、すぐに白磁のように美しい肌によって覆われ、〈魔女)本来の外見となった。彼女は最後に、自身の指でえぐり取られ空洞になった左の眼窩から、赤ぶちのメガネをずるりと引きずり出し、かけた。

「痛いよ、ハツカさん。……とても、嬉しい」

 血まみれの顔が、美しく笑みの形に捻じれた。反射的にハツカは跳んでいた。右手には引き抜いた焼けた鉄筋。やめろ、やめろ、とニトウは叫ぶ。〈魔女〉は笑んだまま、自分の右手の爪を噛み、剥した。真っ赤になった指の先端から、水晶の荊がこんこんと湧き出し、ハツカをあっと言う間に絡めとる。仰向けに拘束されたハツカに〈魔女〉はまたがり、その顔を上気させた。水晶の荊は〈魔女〉自身の肉体にも傷をつけ、透明なその棘に朱を混ぜた。

「ありがとう、ハツカさん。お礼に契約を結んであげましょう。あなたが望めば、あなたの苦痛は私のものになる。簡単な条件です。どうですか?」

 ハツカが何事かを叫んだのがニトウにはわかった。それは明らかに了承の言葉ではなかった。〈魔女〉はそれを聞いて、右掌に水晶の荊を固め、面を作った。面の裏側、顔に当たる部分には刃がびっしりと生えている。

「どうですか?」

〈魔女)はその面をハツカに被せ、両手を重ねて押した。途端、ポップコーンのように、ハツカの肉体が跳ねた。

「どうですか?」

 ハツカの悲鳴はニトウには聞こえなかった。やめろ、やめてくれ、と絶叫する自分の声も聞こえなかった。ただ〈魔女〉の肉体に伝わる面の裏側の刃の振動と、ごりごりごりと顔面の骨が削り取られる音だけが聞こえた。〈魔女〉が3度問いかける。跳ね動くハツカを押さえつけ、白磁の肌が興奮でうっすらと赤くなっている。

「……そう、ありがとうございます」

 痙攣するハツカを置いて、〈魔女〉は立ち上がった。唇を嬉しそうに舐め、感触を確かめるように指で頬をさすっている。〈魔女〉は、自分を呆然と見つめる視線に気づいたのか、ニトウの方を向き、照れくさそうに笑った。その表情は、ぞっとするほどに可愛らしく、常軌を逸していた。

「ニトウさんも本当にありがとうございます。あなたとはもう契約を結んでしまったからこれ以上、お礼はできませんが……。ああ、あと騙してしまってごめんなさい。儀同うさぎも本名ですけど、本当は私、ギギって言います」

〈痛みのギギ〉、〈魔女〉のギギです、と彼女は言った。

「でも、これも弟に言われて仕方なく……」

 弟? 疑問を呟くと、あなたの上司のヨツツジのことですよ、と〈魔女〉は応じた。鼓膜が破れて聞こえないだけで、どうやら喋れてはいるようだった。音も痛みもない、茫漠とした五感の中で〈魔女〉の声だけがはっきりと聞こえていた。

「痛覚遮断、と言うのですか。この街の皆さんは、痛みに苦しんでいるのですね。弟はそれを取り払おうとしている。かわいい弟だから協力してあげたんです。私は契約を結んで、他人の痛みを自分のものにすることができるから」

 ハツカが「怖い」と称していた、あの新しい上司。あの不気味なくせ毛の男が全ての黒幕だったのか? 嘘をつけ、とニトウは言った。黒幕はどう見ても、彼女だ。〈魔女〉はそれを聞き、心外そうに首を横に振った。

「やめてください。弟の頼みでなければ、こんなはしたないことしませんよ。本当です。好きでやってるだなんて思わないでください。苦しいのは私だって嫌なんです。仕方なくです……仕方なく。本当にひどい弟です」

 言葉とは裏腹に、うっとりと目を細めてギギは笑っていた。白磁の肌が悦びに震えているのが、ニトウにはわかった。彼女が悦んでくれるのならばよかったと、思いもしないことを思いかけるほど、その様は悪魔的だった。

「契約者の数は今、1,513人。人間1人が生きたまま押し潰される1,513倍の苦しみを、私は今、契約によって引き受けている。それだけでもとてもとてもとてもとても耐えられないほどに苦しい。なのにあの弟は、市民全員を契約を結べと言うんです。ひどいでしょう?」

〈魔女〉は言った。ニトウは返さない。

「ひどいでしょう?」

〈魔女〉は口角を上げた。磨かれた果実かはじけたような、魔性の笑みだった。

「ひどいでしょう?」

 ああ、ひどいな、とニトウは応じた。気づけばそう口に出していた。〈魔女〉を肯定していた。〈魔女〉は鈴を転がしたように声をあげて笑い、ニトウに歩み寄ると、その隣に腰を下ろした。親しみを込めてこちらを見下ろすその表情を見るだけで、脊椎がとろけるような心地がした。

「契約条件のほぼ全ては満たしました。あとは、この阿田華だけ。私が死ぬだけ。そしてそれももう間もなくです。ニトウさん、最期はあなたと過ごしたい。……ほら」

 〈魔女〉が通りの向こうを指さした。それを合図にしたように、わだかまる〈蛸〉がこちらに向けて這いよって来る。白抜きの触腕は押し潰された市民たちの血と臓物が練り混ぜられてうっすらと赤く、毛髪がその表面にびっしりと貼りついていた。その隙間から、命のない魚と蟲と海獣の眼球が、虚無を映しながらこちらをじっと見つめている。

「ああ、ここまでです。皆、苦しんでいます。決して死ぬことはなく、生きたまま体を潰されて、ただただ、痛くて、痛くて、痛くて……ただの苦痛を感じるだけの肉の塊になる。この街はなんてひどい街なんでしょう。私はこの街が嫌いです。大嫌いです。永遠に続く苦痛だなんて。ニトウさんもそう思うでしょう?」

 視界いっぱいが屍肉に埋もれる寸前に見えた〈魔女〉の表情は、間違いのない悦びだった。彼女は嘘をついていた。永遠に続く苦痛を彼女は誰よりも喜んでいた。この地獄のような街を、誰よりも愛していた。だが、その嘘に対して逆らうことを許しはしなかった。

「そう思うでしょう?」

 自分の体をからめとった〈蛸〉の肉は氷のように冷たかった。死の温度。そして、大量の死骸を含んでいるにも関わらず、死んだ魚介特有の臭みはない。強いていうなら、母親の頭皮の匂いに似ていると、ニトウは思った。

「そう思うでしょう?」

 そう、思う。ニトウは既に、口も、喉も、肺も、脳すらもなかったが、そう答えていた。この街は嫌いだと。最悪だと。市役所職員が口にすべきではない返答をしていた。だが、ニトウは最早自分が何を肯定したのかもわからなかった。痛みも苦しみもない冷たい深海へと沈みながら、ニトウには望むはずのなかった満足感だけが、ただ残された。

◇◇◇

 臓腐市全土を覆い尽くし、最早喰らう獲物を失った後も〈蛸〉はのたうち続けていた。依然増大し続けるその体積と重量は、ついには自分自身すらも押し潰し始め、やがてその動きを制限された。〈蛸〉の足全てに、いつの間にか水晶の荊が絡みつき、その棘を食い込ませていた。屍肉のプールの中で静かにその縄張りを広げていた荊は、防御壁すらも乗り越え、〈蛸〉と同じく市全土を覆い尽くしていた。それは〈痛みのギギ〉によって実体化された固体の「苦痛」であり、〈蛸〉が全市民から絞り出したエネルギーの結晶だった。

 臓腐市の東端、かつて阿田華があった付近から、幾本かの荊が空に向けて伸び上がり、縒り合わさった。その本数は徐々に数を増やし、やがては巨木と呼ぶに相応わしい太さになった。防御壁よりもさらに高く、地上数十kmの高さに達した荊の巨木は、その透明な幹の中を通して血を上へ上へと組み上げていった。やがて、透明な荊が全てに真っ赤に染まった時、その頂点部が微かに震え、巨大な花弁をねじ広げた。途端、何千万、何億もの苦悶のうめきが全て消え、〈蛸〉も完全に動きを止めた。それは、〈魔女〉の契約の成就を意味していた。

 死も苦痛も消え失せた臓腐市にあるものは、今や、屍肉と水晶の荊と、真っ赤な1輪の花だけだった。完全な静寂の中で、朝焼けとも夕焼けとも判別のつかない橙の光源が、水平線の向こうに沈んでゆく。臓腐市は壊滅した。そして、それは、数百年の歴史を持つこの不死者の街が迎えた、初めての平穏だった。

◇◇◇

◇◇◇

◇◇◇

◇◇◇

◇◇◇

 〈蛸〉の上陸地点。西妃髄区の海水浴場。ワインのコルクを抜いたような軽快な音と共に、屍肉と荊の地層に穴を開けて赤いパラソルが顔を出した。そこから億劫そうによじ登ってきた水着の女は、きょろきょろと周囲を見回した後、穴に手を突っ込み、もう1人、海パン姿の青年を引き上げた。

「いやあ、綺麗さっぱり何もなくなったねぇ」

「……やりすぎなんだよ、母さんは。むちゃくちゃだよこんなの」

 青年は、うう、気持ちが悪いとうめくと、口から〈蛸〉の肉片を吐き出した。その様子をにやにやと見守りながら、女は短く切りそろえられた茶髪を指で梳き、絡んだ市民の血と臓物を拭い落とした。

「予防接種みたいなもんだ。我慢しようね。これでユキミも今後は痛みに悩まされずに済む。私のかわいい市民たちもね」

「思ってもいないことを……最悪の市長だよ、母さんは。タマムシさんたちが本当に気の毒だ」

「いいの。何したって死なないんだから」

 市長と呼ばれた茶髪水着の女……ゲレンデは、そう言って青年の頭をがしがしと撫でた。過剰なスキンシップに、青年……ユキミは不快気に目を閉じ、しかし逆らっても無駄だとばかりに大人しくしていた。2人はしばらくそうしていたが、やがて自分たちに向けられた視線に気づき、振り向いた。

「……御無事で何よりです」

 黒スーツの特徴のない男が、〈蛸〉の肉の山の上に立ち、慇懃に頭を下げた。ゲレンデは、呆れたように肩をすくめた。

「ゴト局長。さすがだね。職員の生き残りはあなただけ?」

「不定形の改造肉体を備えた職員は、既に何人か上がってきており、復興作業を始めております」

「ふうん、みんながんばってるね。ところでその子は?」

 ゲレンデが指差したのは、落ちないようにゴトの頭にしがみついている子供だった。ピンクのフードパーカーに運動靴。臓腐市において、「子供」の外見した不死者は非常に珍しい。唇を噛み、何か言いたげにゲレンデの方を見つめている。

「先ほど、〈蛸〉の上に座っているのを見かけまして」

「なに? 誰?」

「見て頂くのが早いかと」

 肩車から降ろされた子供は、不満げにゴトの顔とゲレンデの顔を見比べ、しばらくもじもじしていたが、「ほら、早くしなさい」というゴトの優し気な声に促され、その小さな掌をぺたんと地面に着けた。その瞬間、ばくん、という咀嚼音と共に、足元の地面が……本来の地面である砂浜の上に積み重なっていた辺り一帯の〈蛸〉が一瞬にして消え失せた。数メートルの高さから危げなく着地したゲレンデは、感心したようにその子供を見た。

「なるほど、最近の実体消滅現象は、その子の仕業だったのね。シジマ部長に教えてあげないと」

「というより、その現象が今回の〈蛸〉による実体増加に伴って、ヒトの形をとって現れたのかと。正確に言えば不死者ではないですが……」

「ヒトの形をとっているなら、なんだろうと私の市民だよ。復興が進んで、市庁舎がまた建ったなら戸籍をあげなきゃね。名前は……そうだなぁ、ジルでどう?」

 ゲレンデがしゃがみ、子供に視線を合わせて言った。子供は不思議そうに首をかしげただけだった。よし、決まりとゲレンデはその頭をくしゃくしゃに撫でた。

「特に意味はないけれど、響きはいいでしょ。……で、ジルの他にもあともう1人、つけてあげないと、ね」

 ゲレンデはそう言って、海に足を踏み入れ始めた。母さん、と声を上げたユキミを置いて、その体が沈んでゆく。ゲレンデの肉体はナチュラルな人体であり、本来ならば水に浮くのだが、浮力の全てを無視して、彼女は海底を歩いた。いつものように思い通り、彼女はあっという間に目的のものを見つけることができた。

 ゲレンデが砂浜に引き上げたものを見て、ユキミは目を丸くした。ゴトは知っていたようで、平然としている。ジルは、その腐臭に鼻をつまんだ。人1人が収まる巨大な金網の中に、ぶよぶよに膨れた土座衛門が1体。ゲレンデは金網を引き裂き、その醜悪な不死者を外に引きずり出した。不死者は起き上がりだったらしく、みるみるその肉体を回復させた。彼女……〈蛸〉の主は自分を取り囲む不死者たちに気づいたようで、しばらく口をぱくぱく開閉させた後、言葉を発した。

「ここは……臓腐市ですか。ギギさんは、契約に成功したんですか。私は、街のみんなを助けてあげることできたんですか」

「ええ。市役所の代表としてお礼を言うね」

「私は、私のしたことは、本当に……」

「正しかった。ありがとう」

 苦痛がなくなり、市民自我の漂白が進めやすくなり、実体消滅現象のコントロールが容易になった。市街の再建計画の下地ができ、久しぶりの大騒ぎで市民たちの退屈は紛れ、何より、息子のユキミが住みやすい環境が整った。街の壊滅も、市民が味わった生き地獄も、永遠を生きるこの臓腐市にとって、そしてゲレンデにとって、大した問題ではなかった。

「……よかった。だったら、私を戻してください。私は、海の底にいないといけないんです」

「あんたをそこに沈めた奴なら、そのことをすっかり忘れてたよ。調べておいた」

 〈蛸〉の主は、ぽかんと口を開け、言葉を失った。ゲレンデはくすくすと笑い、手を広げた。

「バレエ、折角、自由になったんだし、この街に住まない? 今は何もないけど。数十年もしたら、どうせ元のやかましい街に戻ってる」

「……バレエ?」

「あなたの新しい名前だよ。私が今、適当につけた。何のバレエと名乗るかは、これからじっくり考えればいいよ。時間はいくらでもあるんだから。もしかしたら、好きな人だって見つかるかもね」

 バレエは未だ言葉を返さない。どうするか迷っているようだった。だからゲレンデは有無を言わせず手を差し伸べた。どろどろでぐちゃぐちゃなこの街へ、永遠に続く地獄のような大騒ぎへ、新たな混沌を招き入れた。

「ようこそ、臓腐市へ」


【necro0:深海博愛】終わり


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