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【2018忍殺再読】「フォ・フーム・ザ・ベル・トールズ」

女子高生は女子高生性を持つ

 この読書体験を個人所有することに耐え兼ねたプラスヘッズの投票により(私もその一人です)、twitterにより解き放たれ、多くのヘッズに混乱と恐怖を与えた2018年随一の怪作にして、オールタイムベストクラスの大傑作短編。ヤモト・コキというニンジャが今後、どういう形で活躍を遂げるのか……自警団型ヒーローから「ニンジャ型ヒーロー」へとどう成長を遂げたのが語られるエピソードであり、『ニンジャスレイヤー』という小説を楽しむ上で重要な「であること」と「すること」の差異を明確に示したエピソードでもあります。本エピソードに練り込まれた要素は非常に多く(そしてその全てが奇跡的なほど見事に噛み合っている)、全てを語ろうとするといくら字数があっても足らないので(エピソード公開後、ヘッズたちの議論と考察が何時間にも及んだことは未だに記憶に新しい)、今回の感想はそれらのみに焦点を当てようと思います。エヴァポさんの魅力と謎や、情景描写の美しさについての言及は断腸の思いでカットすることとする。

 現代日本の様相を様々な形でネオサイタマナイズしてきた原作者二人ですが、本エピソードで示される「女子高生性」という概念は、その中でもピカ一の奇想・発明と呼べるでしょう。いわゆる、何事もない日常やら個人的な趣味やらを女子高生にやらせることでコンテンツ化した様々なコミック・小説・アニメ・ドラマ……それらを「女子高生は『女子高生性』を持ち、接触物にその『女子高生性』=価値を付与する」と解釈・言語化した功績はあまりにデカい。

 穴はそれ単体では、ただの穴だが、「女子高生が掘った」という情報が付くことで、「女子高生性」が宿り、コンテンツになりうる価値を持つ。穴掘り+女子高生性=『あなほり!』 もうこれだけで、幾らでも実験的な作品を量産できそうなものですが、このエピソードの凄まじいところは、この着想がスタート地点に過ぎないところです。原作者二人は、この奇想を、誰もが予想できぬ異次元の方向に飛躍させました。背筋の凍る底抜けの悪意によって。

女子高生性を持たぬ女子高生はない

 女子高生収容所! 「女子高生は『女子高生性』を持ち、接触物にその『女子高生性』=価値を付与する」。では、女子高生との接触により価値を獲得した事物の価値を否定し続けるとどうなるか。「女子高生性」から価値をはく奪し続けた時、それの源泉たる女子高生は何になるのか。……この施設の悍ましさの最たるところ、それはやはり、その主眼が実在の人間ではなく、「女子高生」「女子高生性」という概念に向いているところにあるでしょう。「女子高生を苦しめたい」「女子高生を犯したい」「女子高生を殺したい」、それらの悪意と興味はあくまで実在する人間に向けられたもの。しかし、女子高生性収容所は違うのです。実在する女子高生自体は、あくまで、「女子高生性」を抽出し「女子高生」という概念を害するための材料にすぎません。物理世界に暮らす我々にとって、一段上のレイヤーに存在する欲望と興味。女子高生を苦しめる施設ではなく、「女子高生」を害するための思考実験場であり娯楽施設……で、あればまだよかった。

 女子高生収容所は、女子高生性から価値を剥奪したらどうなるかを探る思考実験場ではありません。「女子高生」という概念を害する娯楽施設ではありません。なぜなら、この施設のには監視カメラがなく、実験結果の観測も娯楽としての享受も不可能だからです。思考実験の動機は「興味」、娯楽の動機は「欲望」。それらを行ってしまっては、「女子高生」が、「興味」「欲望」の対象となると認めることとなる。そこに価値を認めることとなる。ゆえに、この施設からは、この施設が作られた目的すらも削除されている。そこに残るのは「概念を永遠に害し続けるという仕組み」だけです。全ての色が脱色され、そこに何も動機・理由が付与されていない無色透明な悪意だけがそこにある。「そうである」という事実だけがそこにある。これは怖い。本当に怖い。人間が最も恐れるものは「わからない」ことです。女子高生収容所とは、あらゆる解釈をはねのけ、あらゆる因果から遮断されるように製作された、究極の「わからない」悪意なのです。

女子高生性は女子高生ではない

 女子高生性、そして女子高生収容所。二つの狂った着想を得てなお、原作者はそこでとどまらず、思索をさらに一歩進めます。それは、「女子高生性から価値を剥奪する行為は、本当に『女子高生』を害することとなるのか?」 そして、そこで登場するのが女子高生ではない「女子高生のニンジャ」ヤモト・コキ。ここです。ここがこのエピソードで一番凄い。虚無と狂気と悪意をガイドに概念の迷宮を彷徨う物語に、既存キャラクターであるヤモト・コキの特性と「ニンジャ型ヒーロー」という忍殺の根幹を為すテーマがぴったりと当てはまる。狂った指針と異常な飛躍による迷走の歩みが、俯瞰すると緻密な絵を描いている。構造的な作り込みの凄さ、物語とキャラクターへのある種パズルめいたテーマの落とし込みという点において、このエピソードは忍殺の中でもベスト1と言ってよいでしょう。ちょっとこれは凄すぎる。

 女子高生収容所(エヴァポレイター)の打破として作中で用意されたものは二つ。ヤモトにより再度意味づけがなされた女子高生作成のオリガミと、主人公女子高生の三角関数の知識……そして、決め手となったのは後者でした。言うまでもなく、前者は女子高生性を指し、後者は生きた女子高生の振舞を指します。ここまで徹底して概念レベルの話を展開しておきながら、決着が三角関数という恐ろしく卑近なもので成されるふり幅のデカさにもニューロンがぶっ壊されそうになりますが……なりますが……我々は思い出さなければなりません。そもそも、女子高生とは概念ではなく、生きた人間であることを。「であること」ではない、「すること」の総体であることを。

 女子高生収容所は、「女子高生性」の価値を否定することで「女子高生」を害する施設です。しかし、女子高生性は、女子高生ではないのです。女子高生とは「であること」ではなく、「すること」です。日々の営み……数学で三角関数を学んだり、恋をしたり、帰り道にアイスを買い食いしたり、休みに友達とカラオケに行ったりすること、何より、高校に在籍すること。そう言った様々な「すること」の総体こそが女子高生を女子高生たらしめており、ただそこから何か一つを取り出したとしても、それは構成要素の一片でしかなく、それ単体は「女子高生性」を帯びていたとしても、女子高生とは全く無関係の一事物にすぎません。ゆえに、「女子高生性」を抜き取り、それを通じて「女子高生」を害することはできないのです。女子高生収容所のコンセプトは、根底から破綻し、失敗しているのです。

 作中で、「女子高生性」の化身として描かれるヤモトが、最後にアサリとお酒を酌み交わすシーンが、女子高生収容所のコンセプトに対する最大の反駁となっているのも巧みなところ。「女子高生のニンジャ」でありながら、女子高生ではない彼女は、その存在自体が「女子高生性」と「女子高生」が必ずしも結びつかないことの証明であり、女子高生たちを捕らえた底抜けの虚無と悪意を無効化する「ヒーロー」なのです。

■twitter版で再読
■12月31日