necro4:阿田華行最終バス(後編)
【前編より】
◇◇◇
「臓腐市役所 痛覚遮断維持保全局 契約第4課課長ニトウ」
「臓腐市役所 痛覚遮断維持保全局 契約第5課係長」
バス車内に投影された2枚の名刺と、前に立つ黒スーツの男2人を、プラクタは見比べた。『ニトウ』はすらりと足の長い細身の男であり、細く開けられたキツネ目とその下の隈をふちどるように、血のような紅をさしている。『係長』はひょろ長い手足を所在なさげにぶら下げた男で、透明なフルフェイスマスクをつけている。マスクの内側には顔面の肉に食い込む形でミキサー刃が生えており、喋ることすら困難に見えた。
「ご歓談中に申し訳ない。私はニトウ。市役所の痛遮局のものです。少々、お時間を頂きたく」
「ふぁふぁひはふぁふふぁふぇふ」
案の定、『係長』はまともに喋れなかった。もごもごと蠢く唇が刃によって裂け、マスクの内側がみるみる血まみれになってゆく。ニトウはそれを見て、にんまりと口角をあげると、プラクタたちに頭を下げた。
「失礼。彼は契約第5課のハツカです。ミキサーマスクの着用のため喋ることができませんので、私が代わりに紹介を。まったく課長職以上でないと名刺に名前を記せないというのはとんだ悪習です。『臓腐市の皆さまのより一層の安心と健康のために』という題目に反し、こうして市民の皆様に説明のための余計な時間を使わせてしまっている。しかし、我々は日進月歩そういった細やかな点にも目を配り、必ず改善を行います。プラン、ドゥー、チェック、アクト。明日の臓腐市が今日と比べてよりよき街であることを、我々はお約束いたします」
口先の軽い男だな。自分を棚にあげてプラクタは思った。
『要件を早く言ってくれないか。ぼちぼち最寄りの駅に着くんだ』
「おや、プラクタさんのご自宅は阿田華でしょう。まだ20分はありますよ」
『ニトウと言ったか。お前は俺たちの話を盗み聞きをしていたんだな。正直に言わせてもらうが、あまり愉快な気持ちにはならない。市役所に投書の窓口があるのなら教えてくれないか』
プラクタは喋りながら、2人に気づかれぬよう腹の中の腐敗気臓を温め、強化粘性痰弾の分泌とジェット・ガスの生成を行った。隙を見て殺そう。市役所の連中に話しかけられて、ろくなことになった試しはない。ましてや、痛遮局だと? プラクタが顔をしかめたのを見て、少女がおびえたように身をよせた。それを優しく押し戻し、席から立ちあがる。
『目的は彼女だな』
ほう、とニトウが両手を合わせ、感心する。
「よくわかりましたね。臓腐市の皆さまのより一層の安心と健康のためにも、痛みのない生活は守られなければなりません。〈魔女〉のごきげんを損ねないためにも、我々、痛遮局契約課としては、彼女に、より新鮮でみずみずしい激痛を捧げたい。ネクロさんから〈魔女〉が解放されたこのタイミング、絶好のチャンスだとは思いませんか」
〈魔女〉はネクロの恋人の1人であり、名前を〈痛みのギギ〉という。臓腐市に暮らす人間が傷ついた時、痛みは当人ではなくギギの体に反映される。今こうしている間にも、全市民の感じるべき痛みを彼女は全て味わっている。何が契約だと、プラクタは胸中で吐き捨てた。永遠の生を慰めるはずの刺激を欲望のままに簒奪し、独り占めしている癖に。
『……何万倍、何億倍もの激痛に、今さら人間1人分の痛みを追加したところで〈魔女〉は気づきもしないだろう。お前たちのやろうとしていることは意味がない』
「おっしゃる通り。確かにこの試みは海に1摘の水を垂らすようなもの。しかし水1摘分であっても、同じではない。わずかであろうとも、明日の臓腐市が今日よりもよい街になるのならば、躊躇する理由はありません」
何より、それは市民ではありませんから、とニトウは少女を指さした。
「プラクタさん……その人……えっと、ニトウさんは何を言っているんですか」
『大丈夫だ。気にしなくていい』
きみを捕まえて拷問をしようとしているとはさすがに言えなかった。ジェスチャーでこの場から離れるよう伝える。少女は顔を青くしながら席を立ち、バスの後部に移る。痛遮局の2人は無機質な目でそれを追った後、右腕の銃肛を自分たちに向けるプラクタに微笑みかけた。
「ご協力いただけないという解釈でよろしいでしょうか」
『構わない』
「わかりました。ハツカ係長」
「ふぉうふぁいふぇふ!ふぁんふぁふふぉーッ!」
ハツカがマスクを顔面に押しつけたのと、プラクタがジェット・ガスを噴射したのは同時だった。猛烈な衝撃を横腹に受け、バスが横転しかかる。プラクタは、ニトウが素早く身をかわしたのは見えていた。そして見えはしなかったものの、ハツカが潰れていないこともわかっていた。
「びゃびゃびょーッ!」
滞留するガスを裂き、ハツカがプラクタに掴みかかる。何とか身をかわすものの、異常な膂力によって右腕の肉がむしり取られる。すれ違いざまに聞こえたのは駆動音。マスク内側のミキサー刃が高速回転し、ハツカの顔面をすりおろしていた。予想通りだ。
『ははは、凄い力だな。『魔法』だろう。顔面をすりおろす痛みを献上することで〈魔女〉の力を借りている。目が潰れても狙いが正確ということは、聴力も強化しているのか? 』
「ずいぶん詳しいじゃないですか」
『昔、凝ったことがある。結社にも籍を置きはしたが……はは、偉大なるギギ様から寵苦を授かる前に辞めてしまった』
「我々も局が結んだ包括契約に入っているだけですので、彼女の結社に所属してるわけではありません。とはいえ『魔法』は一線級に鍛えています。……どれ、ハツカはまだ未熟ですので、私の方から手本を1つ」
ニトウはそう言うと、印を結ぶように両指を絡め合わせ、そのままへし折った。痛みを献上し、力を得る。ハツカと同じ術か……プラクタのその誤解を解いたものは、直後に全身を包んだ度し難い刺激だった。それが「痛み」であると理解できたのは数秒後だった。その理解に、脳の処理の全ては費やされ、五感と思考は放り出された。一枚残さず全身の皮膚をはがし、あますところなく針で突き崩したような激痛。
「『火傷』です。珍しいでしょう。全ての痛みは、本来〈魔女〉が独占するべきものですが、彼女に大きく貢献した契約者には、契約の部分的な破棄を行う権利が与えられるのです。詳しい発動条件を教えてさしあげてもいいですが……聞こえないでしょう」
聞こえなかった。激痛がプラクタの認識の全てを塗りつぶしていた。自分が倒れているのか立っているのかもわからない。隙だらけの自分をハツカは何度殴ったろう。絶叫しているつもりだが、喉もとうに潰れているかもしれない。行動が縛られているのがわかる。厭なことが定まれば、それを避けるという動機が生まれ、意味と価値になる。悪くない。自分は、今、必死だ。本物に近づいている。苦痛から逃れるために。消去法であろうとも。ネクロ、お前は、今の俺を見てどう評価する? プラクタは、友人が自分に対して向けるゴミを見るような目と、悪態を思い出す。
……ああ、そうだった。
「プラクタさん!大丈夫!?プラクタさん!」
『大丈夫だ。気にしなくていい』
こんなものは、本物ではない。
少女の声を聞き取るのはたやすく、答える余裕も既にあった。プラクタはのしかかかっていたハツカをジェット・ガスで天井の染みに変えると、ゆっくりと身を起こした。少女を捕えようとしていたニトウが驚いたように振り返る。つまり、今、少女は、自分の身が危険な状況下でありながら、それに対する悲鳴ではなく、俺への心配を口にすることを優先したのだなとプラクタは思考した。命の危機という制限下において、消去法から外れた選択を行っている。すばらしい。ならば、自分だって。ほんの少しでも。
激痛という制限の中で、プラクタは逃避ではなく、少女を守ることを選択した。
◇◇◇
『ごめん、グンジ。ちょっと理解が追いつかないわ。要は、プラクタくんは今、ハヤシの肉体といっしょにいるってことでいいのよね』
「正確に言うと、ハヤシさんの肉体とは言えません。彼女の肉体はあくまでも魂のレイヤー上にある我々の無意識集合魂です」
『でも、そもそも私たちって、物理のレイヤーにある肉体と、魂のレイヤーにある魂がセットにならなきゃ成り立たないものなのよね』
「その通り。彼女は矛盾しています。その矛盾を解消するために、この物理のレイヤー上に、彼女の肉体であって肉体ではない『何か』が発生している。ハヤシさんは区分上は黄泉帰りになりますが、そのように定義を狂わせているという点では、化け戻りに近いのかもしれません」
『魂のレイヤー上にあるハヤシの肉体の影が、物理のレイヤー上に落ちている、という理解でいいかしら』
「影ですか。さすがサザンカさん。いい表現ですね」
『今の話だとその影を動かす魂はないように思うのだけれど……今、バスの中で悲鳴をあげたり身を丸めたり、元気に動きまわっているわよ』
「影はハヤシさんの肉体であり、同時にハヤシさんの肉体ではないのです。実在と非実在が並立し、結果だけれ見れば動いている。動いたという結果がある以上、矛盾が生じないように因果が逆転し、後付けで魂が生じる。起き上がりの肉体が回復・蘇生する原理が、影の場合、魂において成り立っているのです」
『ややこしいわね。要は彼女の魂はハヤシのものではなく、ついさっき肉体にあわせて発生したってこと?』
「そうですね。ハヤシさんが不死者になったのは10代の頃ですから、脳みそもその頃のまま形作られているはず。それに合わせた魂が、その都度、補填されているのかと。記憶が中途半端なのもそのためです」
『その都度っていうと?』
「新規発生した魂ですから、不死者としての特性を持ちません。死んだら終わりです。また新しく肉体が発生して魂が補填される。ハヤシさんという存在に伴って、現れては消える泡のような現象が彼女です。些末な存在とはいえハヤシさんの関係者には違いありませんから、ネクロさんがハヤシさんを迎え入れる手がかりになるかもしれません」
『なるほど。わかった。プラクタくんに連絡をとって捕まえさせるわ。バスのラジオは……あら、壊れちゃってるみたいね』
「え、じゃあダメじゃないですか」
『そんなこと私に言われても』
「うーん、いいチャンスだったのに……。残念ですねえ」
『そうね。……ところで、彼女って、プラクタくんが思っているような本物ではないのよね。言ってしまえば、ヒトの模造品みたいなものでしょう』
「どうでしょう。プラクタが何をもって本物と言っているのか、私にはさっぱりわからないので」
◇◇◇
バスの中は、惨状だった。やわらかな果実と石を入れて回した洗濯機の中身だった。床にふきだまった2つの肉の山は真っ赤で、元々着ていたスーツの黒色は綺麗に塗りつぶされていた。その横に座り込みぜいぜいと息を切らしたプラクタも、血と臓物でずたぼろに汚れそれほど状態は変わらない。すがりつき、泣きじゃくる少女だけが断たれた右手を除いて傷1つなく、身綺麗な状態にある。
「1つ、教えて頂いてもよろしいでしょうか」
肉の山の片方から声がした。ニトウだ。黄泉帰りであるため回復はしないが、まだ生きている。さすがは市役所ご謹製の肉体だと、プラクタは感心を通り越して呆れてしまう。とどめを刺すべく銃肛を向けたが、1つくらいなら答えてやってよいだろうと改めた。
『何を教えて欲しいんだ』
「プラクタさんは、どうしてそれを渡してくれないのです。構わないじゃないですか。それは市民ではないのですよ」
『ははは、くだらないこと言う』
プラクタは笑い、しゃくりあげる少女の頭をなでる。火傷の痛みよりもよほど鮮烈なリアルの刺激。本物の動きだけが物体に宿らせることができる特別な温かさを掌に感じ、全身が痺れるようだ。
『理由なんて決まっているじゃないか。この娘は、不死者じゃない。生きている本物の人間だからだ』
「不死者じゃなければ、本物なのですか。生きていれば、本物なのですか」
『当たり前だろう。タイムスリップか、冷凍睡眠か、街の外の生き残りか。理屈はどうだっていい。何もかもいい加減で適当なこの街で、そんなことを考えても意味がない。オリジナルが今ここにいるという現実の前では、全ては後付けだ』
「オリジナルですか……。ですが、それは〈夢の中のハヤシ〉の……いや」
ニトウは言い淀み、口を閉ざした。
『どうしたんだ?』
「いえ、何でもありません。仕事が果たせなかった以上、私にできることはプラクタさんのよりよい幸福を祈ることのみです。あなたも大切な市民の1人。その望みが叶うよう、心より応援しております。それでは、失礼して」
ぷすんという間の抜けた音と共に、ニトウの肉塊は1筋の煙をあげた。自壊したのだと、プラクタは理解する。
「死んじゃったの」
『死にはしない。別の肉体に憑いて、黄泉帰るだけだ』
「本当に死なないし、痛みもないんだ。羨ましいな……」
車中で物音をたてるものは少女だけになった。車道に並ぶ街灯の光もいつの間にか途切れ、車内は薄闇の中にあった。天井を打つ雨音も既になく、血肉に塗り残された電光標示だけが無為に駅名を明滅させていた。あらゆるものが凍りついた時間の中で、彼女だけが動き、生きていた。彼女がいるから、このどうしようもなく停まったバスも終点に向けて走ることができているのだとプラクタは考えた。
泣き止んだ少女を座席に引き上げ、座らせる。自分はその横に腰を下ろす。彼女は黙ったまま、プラクタが渡した傷熊のガチャガチャを左手で握りしめている。人形がかわいそうだからと潰さないよう調整された繊細な力加減がその左手には働いている。その動きと、そこに紐づいた全てを考えるだけで、終点に至るまでの時間はどこまでも細分され、引き延ばされ、しかし、1つずつ確実に進んでゆく。それを証明するように、電光標示が『次は 阿田華』と最後の駅名を表示した。
どうする、と問いかけたプラクタに対し、少女は長い沈黙を返し、そして、首を横にふった。
「街の外には、私、1人で行きます。プラクタさんの気持ちはとても嬉しいけれど、でも、たぶん、着いてきてもらっても、意味がないと思う」
『どうせ、死ぬからか。意味がないならば、別にいいだろう。同じことだ』
「私の気持ちの問題です。意味はないかもしれないけれど、同じじゃないんです」
『……同じじゃない、のか』
プラクタは一瞬、思考が停止し、口を抑えた。少女に目を合わせることはできなかった。視線の先には、まだ傷熊のガチャガチャがあった。それを眺め、考えたが、やはり理解することはできなかった。
「プラクタさん、ありがとう」
少女が礼を言い、笑った。バスが停まる。アナウンスはない。電光標示が示すのは『阿田華』。少女と目を合わせることができないまま、プラクタは立ち上がり、バスの降り口に向かった。背後で少女が立ち上がった気配があった。懐を探る。激しい戦闘だったが、券を失くしてはいない。目の前で、扉が開く。阿田華の駅は街灯1つなく、真っ暗な闇がその先にある。プラクタは振り返る。そこに立っている少女と目が合う。にっこりと、笑う。どうしてだろう。見送るためか。理由はわからない。手を伸ばし、少女の肩をつかむ。引きよせる。少女が驚き、困惑の表情を一瞬浮かべる。少女に最初出会った時、こうしようと決めていた通りに、プラクタは行動する。唇を合わせる。表情が見えなくなるが、目は合ったままだ。抵抗の感触がある。それは徐々に激しく、常軌を逸してゆく。見知らぬ男にキスされたからではない。死を予感させる苦痛へ抗うためだ。
『俺の声帯は肛門にある。音声だけを喉の受信機から発しているんだ。こうして、体内にジェット・ガスを噴きこむ時、口がふさがってしまうからだ。問いかけるためには、喉以外に声帯が必要だった』
自分の肉が殴りつけられ、引っかかれる感触がある。痛みは全くない。まるで自分は人間の形をした空洞のようだ。みちみちと、肉が膨れ、引きちぎれる音が聞こえる。恐怖から激怒へ、憎悪から絶望へ、悲嘆から諦念へ、瞳の色が変わってゆく。本物の、なんというめまぐるしいことだろう。そして、そのめまぐるしさは、自分だけに由来しているのだ。
『教えてくれ。お前は、今必死なのか? ははは、凄いな。本当に凄い。そんなに死にたくないのか? 』
問いかける。問いかける。答えが返ってこないことなどわかっている。そんなことはどうでもいい。自分の問いに対し、生きている人間が、本物の行動を返すことが重要だった。彼女の輝きへの無限の紐づきが全て自分に接続されていることが重要だった。荒野をゆく旅の中で、ゆっくりと接続していってもよかった。しかし、そうでないならば、こうするしかない。少女も、ネクロも、本物だった。プラクタを接続し、その行動を変換するための本物だった。
『どうだ、俺は今、生きているか? 生きているように見えるか? 教えてくれ。お前は、どう思う?』
ばつん、という音と共に少女は破裂した。返答はなかった。飛び散った肉片と臓腑をぬぐい、プラクタは阿田華駅に降りる。背後で扉が閉まり、市外の荒野に向けてバスが出る。駅に街灯はなく、バスはあっと言う間に見えなくなる。周辺は真の闇で、伸ばした手の先すらもおぼろだったが、家の最寄りのよく知った場所なので明かりがなくとも特に問題はない。
しばらく歩いて、傷熊のガチャガチャを少女に渡したままだったことにプラクタは気がついた。スーパーのガチャガチャで当てた景品だった。愛着がある。バスの行き先はわかっている。追いかけたら、取り戻すことができるだろう。しかし、取り戻すことに意味があるとは思えなかった。捨てるにせよ、取り戻すにせよ、意味がない。プラクタにとって、やはりその2つは同じことだった。
【necro4:阿田華行最終バス】終わり
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