NECRO2136:指切りげんまん(3)
【(2)より】
■3:01 /// 南妃髄区 奇々葉町 奇々葉体育館■
『開始より既に8時間! 会場の興奮は更に膨れ上がり、さながら炸裂直前の爆弾のようだ! トップを走っていた〈蛇腹のチュウブ〉のまさかのバーストに加え、犯罪者〈腑分けのグンジ〉の介入による思わぬ大混乱! まさに波乱に継ぐ波乱! ここまで荒れたファイトが果たして今まであったでしょうか!? 現在トップは暴れる観客をもろともせずに食らい続けた前回チャンピオン〈輪切りのイカリ〉! リードを許した〈早仕舞いのハンザキ〉は果たして巻き返せるのか! ストマック・デッド・エンド、終了まで残り4時間です!』
つくづく、女米木の屍材を身に着けていてよかったとヒブクレは安堵していた。〈腑分けのグンジ〉の放送後、自分の意思に反して暴れ出したヒブクレは、到底、ハンザキの借り腹を務められる状態になく、無数の親父に殴り倒され、拘束されてしまった。自分の肉体が自分の思い通りにならないのは気色が悪かったが、それでも、あの飯で内臓が押しつぶされてゆく感覚よりはマシだった。
ロンドン、ヒブクレと2人の助っ人が脱落したことで、最後の借り腹は、当然ハマチの親父が務めることになった。ハマチの親父は自分の肉体にほとんど手を入れていない頑固者であり、ハンザキの嚥下速度に耐えられる胃腸を備えていない。ただ、千切れると増えると言う単細胞生物みたいな特技を持っており、普段はその能力を使って商店街を「1人」で切り盛りしている。暴徒と化した観客を取り押さえたのも、彼ら彼女らに引き裂かれ、100人以上に増えた親父のお手柄だった。
「つうか、親父さん、あれって反則じゃないんですか」
隙あらば暴れ出そうとする自分の肉体を押さえつけている親父の群れに、ヒブクレは話しかけた。向こうではハンザキと胃腸を繋げられた親父が、風船のようにみるみる膨れ上がっている。その後ろに並ぶのは、コマ切れ状態から復活して増えた、無数の親父の長蛇の列。親父の集団は、親父の破裂を合図に1歩前に進み、いそいそと次の親父に胃腸を接続した。
「あんなの、助っ人を無制限に呼んでるようなもんじゃないですか」
「細けぇことぬかすなヒブクレ! 俺は、『俺』で1人だ! 運営にも確認とってんだから問題ねえ!」
ケースバイケースが多すぎる臓腐市においても、個人の単位は自我の数に準拠するというのが一般的な解釈だった。まあ、理屈でいえばそうなるが、釈然としない。大体、それなら最初から親父がやればよかったのにとも思う。ただ、それを口に出したところで、親父の短気に火をつけるだけなのでやめておく。
「まあ、ルールならしゃあねえですけど、よく他の選手は文句言わないな、と」
「あいつらはマジだからな。てめぇらみたいな軟弱もんとは気合いが違うんだ。さっきのグンジの命令にも、誰1人操られることがなかったじゃねえか。人体改造に力を入れている奴らが、女米木んとこの製品を肉体に組み入れてないわけがねえのによ」
立派だぜ、と親父は鼻をすすりあげる。その熱っぽい視線の先では、ハンザキが飯を食らい続けている。破裂してゆく親父の群れに気づく様子もなく、鬼気迫る表情でどんぶりにかじりついている。意志の力。信念。そういう類のものかとヒブクレは考えた。無限の寿命の中、何もかもが変化し続ける心の内で、1つのものを保つというのはどういう心境なのだろう。
「約束があるんだと。小さい頃に指切りをしたらしい」
約束? 何の話スかと尋ねるヒブクレの声を、実況音声がかき消した。
『おおっとここでさらなるトラブル発生! 臓腑市内を現在蹂躙中の〈死なずのネクロ〉が、この奇々葉体育館に向かっているようです! まさに襲い来る危機、または、危機! しかし、これも運命が導く必然と言えるかもしれません! 目的は違えど、彼もまた市民全員をその腹の内におさめようとする大食いの戦士なのですから! 曳かれ合う食欲の星々! ストマック・デッド・エンドは果たしてここで本当のデッドエンドを迎えてしまうのか! 選手たちは一体どう対処する……』
轟音と共に、体育館の一角が崩れ、吐瀉物とヘドロの混じり合ったような肉の塊が、べしゃべしゃと館内になだれ込んできた。それがネクロであり、ネクロの手であるということを理解するのにヒブクレは少し時間を要した。人型を見失い、最早沸騰する不定形の肉と化したその姿に、あのネクロの面影はなかった。ただ、手さぐりに市民の肉を求めるその執拗さは、確かにヒブクレの知る、ネクロのそれだった。
「手」は観客席をねぶり、なぎ倒し、飲み込んだ。そして、それは自分たち借り腹と選手たちのいる壇上へと向かった。ここまでかと、ヒブクレは思った。しかし、ハンザキは食物から目を逸らさない。迫る危機に視線を向ける素振りすらもない。何がそこまでと呆れすら覚えるヒブクレに、こちらに向けて伸びる「手」の影が差す。
「「「ネクロやめろぉーっ!」」」
ネクロの「手」を止めたのは、ハマチの親父の絶叫だった。鼓膜が破れる程の音量。増えた全員が、声をそろえたのだ。
「「「こいつはなあ! ハンザキはなあ! 妹との約束を守るために、今、頑張ってんだ! 大昔にはぐれた妹を探すために、この大会で優勝して金を稼ぐ必要があるんだよ! それをてめぇがてめぇの都合だけで邪魔していいと思ってんのかこの腐れ野郎! 身勝手もいい加減にしやがれ!」」」
親父の啖呵が体育館の壁を震わせる。ハンザキは赤眼細魚の煮つけを骨ごとかみ砕き、野菜汁と共に飲み込んでいる。箸と咀嚼の速度には、微塵も衰えが見えない。
「「「別に街を壊滅させようが構わねえが、ここだけは許さねえ! わかるだろ! てめぇだって! ……てめぇだってよ、女との約束を守るために、そんなゲロみてぇな姿になってまで必死こいてんだろうが! わかんねぇとは言わせねえぞ!」」」
親父たちは怒鳴り終えると、脂汗を垂らしながら巨大なネクロと睨み合った。今やネクロのどこが目なのかはわからなかったが、それでも睨み合っていることがヒブクレにはわかった。選手たちの咀嚼音だけを残した静寂が、永遠とも思えるほどに続いた後、ネクロはその腕をずるずると引き抜いた。
体育館に空いた大穴からは、夜空が見え、涼しい風が吹き込んだ。異形の肉塊は地響きをたてながら歩み去っていった。床のあちこちにはネクロが迎え入れ切れなかったらしい溶解した市民たちが散らばり、びくびくと痙攣していた。その光景を前に、親父の1人が腰をぬかしたように、尻を床に落とした。
「へへ……ネクロの野郎も偶には粋じゃねえか」
なあ、と赤くなった顔をこちらに向けた親父の1人に対し、さあ、どうなんですかねとヒブクレは腑抜けた回答を返した。
■4:29 /// 妃髄区 上空■
アイサについて印象に残っているのは、自分に指を突きつけ、言い放ったあの言葉。せせら笑うような表情で、こちらの反応を伺うように放たれた「あまったれたふぬけのクズ」という罵倒だった。なるほど、彼女は無粋で幼稚な子供なのだとバレエは理解した。我慢の効かないぐずったれ。甘えと腑抜けが悪口になると考えていることも、バレエにとっては非常に好もしく映ったし、彼女から多くの被害を受けているはずの市民たちが言う通り、彼女は決して悪い人間ではないのだなと腑に落ちた。
それは、バレエがネクロに迎え入れられるよりも前、今となっては記憶も朧な大昔の出来事だった。街を飛び回り、破壊と殺戮の日常に明け暮れる彼女を、バレエは気まぐれにお茶に誘い、お気に入りのカフェテリアに招き入れた。周囲の多くは、それを優しい彼女が乱暴者のアイサをたしなめるためにとった行動だと解釈したようだが、実はバレエには全然そんなつもりはなく、自分と並べて「犯罪者」と称される彼女が一体どんな人間なのか、興味を持っただけだった。
アイサはこちらを挑発するように乱暴に腰を下ろすと、店内のインテリアから客層、バレエの容姿から目の前のテーブルに至るまで、目に映るもの全てを罵り、嘲笑し、こきおろした。店員が運んできたカップをひったくると、それをバレエの顔面に力いっぱい投げつけた。態度が気に食わないと店員の顔面をテーブルに叩き付け、その頭蓋を頭頂部から順に薄くスライスしていった。蛮行の限りを尽くしながら、アイサはこちらを横目で伺っていた。子犬のようなその反応にバレエが思わず微笑むと、アイサはひどく傷ついたように顔をしかめ、こちらに指をつきつけた。
殴られても殴りかえさない。おまえは、あまったれたふぬけのクズだ……。
「で、私になんの用なんだ、ふぬけのクズが」
バレエは、妃髄区のはるか上空でアイサと対峙していた。足元では絶え間なく爆発と倒壊が起き、彼女の愛するネクロがユビキを殺すべくのたうち回っていることを伝えていた。最早、自我も定かではないだろう。ただ、ユビキを殺すという約束を守るための意思の塊となったその殺戮は、届くはずのない熱でバレエの足裏を焼いていた。
西妃髄区の「埋め立て」を終え、腎痛区に向けて飛ぶアイサの元にサザンカから通信が入ったのは、30分程前のことだった。タマムシの手で逃がされたアイサが、妃髄区にいるネクロ目指して移動を開始したのだという。『タマムシにかなり痛めつけられたみたいだし、今のネクロを殺せるほどの力はないと思うけどね。念のために、一撃かましておいてもらえるかしら』。立て板に水を流すようにつらつらと語るサザンカは、まるで最初から全てわかっていたような余裕を見せており、バレエはとても不気味に感じた。基本、他人を嫌うことのないバレエだが、サザンカだけは少し苦手だった。彼女だけは、どういう人物なのかがよくわからない。
「……おい、だまってんじゃねぇぞ! 答えろ!」
「約束、したからかな」
それにひきかえ、目の前にいるこの少女の何とかわいらしいことだろう。いかめしく生えた青い炎を放つブースターと、刺々しく周囲を威嚇する鉄の牙。明確な敵意と悪意をもって組み上げられた宙に浮く要塞は、全てが彼女の説明であり、自己表現であり、笑ってしまう程に露骨であけすけなメッセージになっている。その全てが、愛おしく、バレエには嬉しかった。
「最初はアイサがネクロたちにちょっかいをかけるだろうと思って、それを止めに来たんだ。でも、実際にネクロに会って、考えが変わっちゃった。『邪魔しないでやってくれ』って彼は言ったの」
『アイサも、俺を裏切った。殺さなければならない』
これほどユビキのために全てを捧げながらも、他の恋人たちへの愛も微塵も揺るいでいない。ネクロはそうだ。昔から。絶望的なまでに、彼は変わらない。
「……凄いよネクロは。本気で私たちを愛してる。こんなむちゃくちゃで、何もかもがどうしようもない私たちを、彼は殺せると心の底から信じてる」
肩をあずけ、やさしく撫でたあの感触。暖かいを通り越し、燃えるような熱。彼の頼みを、バレエが断ることができるはずがなかった。それは、ユビキの件が終わったならば、アイサの邪魔は決してしないという約束だった。たとえ、力を使い果たしたネクロが、それで死ぬのだとしても。それなら、もう1度、キイロとユビキを殺し直すだけだと、バレエが愛する男は力強く言い切った。
「くだらねえ」
アイサは、吐き捨てるように言った。バレエを睨みつける眼光は、一層、高い熱を帯び、敵意と悪意をはち切れんばかりに湛えている。要塞を模した全身の肉は、攻撃の時を今か今かと待ちわび、漏れた燐光によって、薄青に輪郭をにじませている。
「ネクロの本質は応報だ。うらぎったやつを殺す、それだけだけだ。約束ってなら私もしたさ。うらぎったときに、ネクロは私を殺すと約束してくれた。それをまもらせようとしてなにが悪いんだ?」
「悪くないよ。邪魔する気もない。ただ、順番は守らないと。今は、ユビキの番なんだから。ネクロもそう言ってる」
「知ったこっちゃねえよ、ゴミクズが。愛だなんだとこわれた機械みたいに筋のとおらないことをぬかす、あの腐った自我に私は興味はない。てめぇみたいなバカは、一見こむずかしいあいつの哲学もどきにだまされているだけだ」
「なるほど、アイサはネクロをそう解釈してるのね」
「解釈してない! 解釈してるのはおまえたちのほうだ!」
癇癪を起す子供のように、アイサは吠えた。
「あいつはにごりのない暴力装置だ! 殴れば殴りかえす! 殺せば殺しかえす! 裏切られたやつを機械的に敵とみなして、地のはてまでおいつめて殺す、ただの敵意と悪意のかたまりだ! ふざけやがって! 本質をみてねえのは、てめぇらのほうだろうが! 何年も何年もむだにながく生きているくせに、なんでそれがわからないんだ! ゆるさない! ゆるさない!」
バレエもタマムシもギギも。応酬に参加せず、繰り返し繰り返し何度も繰り返し、増幅させてゆくべきそれを減じるだけの腑抜けのクズだとアイサは叫んだ。同級生も、両親もそうだったと、喚いた。殴られても、殴り返さない。怯えるだけ、悲しむだけまだマシだが、それでもアイサを殴り返しはしなかった。
ネクロだけだ。
「ネクロだけが、私に暴力をふるってくれる」
「アイサ、もしかしてあなた、不死者になる前のことを覚えているの?」
バレエの問いかけに、荒れ狂うアイサの怒気がぴたりと静止した。その眼光は、シャッターを降ろしたようで、最早、目の前にいる自分に対し、全てを諦めているようにバレエは見えた。
「……なんで、てめえらは、おぼえてねえんだよ」
アイサの全身が、青い燐光により発火した。怒りという燃料を注ぎ燃え上がった彼女の敵意と悪意は、他者を害し・殺し・滅ぼすだけの殺意というエネルギーに変換されていた。猛烈な勢いでこちらに向けて突進してくる火の玉を前に、アイサは右腕を振りかぶり、力を込めた。サイの表皮のように硬く、クジラのように大きく、ガゼルのようにしなやかな肉を。イメージは瞬時に関数へと作り替わり、彼女の肉体と魂のひもづきの中で実行された。
ビル1つ分ほどはあるだろう巨大な拳を産み落とし、バレエはアイサを殴りつけた。勝負はとても簡単に、一瞬で決まった。巨大質量の表面をほんの少し焼いただけのアイサの炎は、肉体の前面が平らにひしゃげる衝撃によって消え失せた。彼女がタマムシに削られていなければ、勝負の結果は変わっただろう。記憶の限りにおいて、バレエがアイサに暴力で勝ったことは、これまで1度もなかった。
「これも、サザンカの計算の内ってことなのね」
ボロクズのように吹き飛んでゆくアイサを心配しながら、バレエは呟いた。サザンカの賢しらさにはひっかかるものがあるが、やることは変わらない。次の目的地である腎痛区を目指し、バレエは翼をひるがえす。舞い落ちる羽毛の向こうで、赤々と燃える臓腐市は夜の帳を押し上げ、水平線を白ませていた。夜明けが近い。
■5:58 /// 腎痛区 垢庫 惰ツ綿通り■
白む夜明けの気配と共に、通りに面した入口から店内に噴き込んだ肉の波は、それ自身の重量によって我が身を潰し、骨を折り、赤々とした血と肉を混ぜ合いながら、体積の全てを埋め尽くした。ヒカルの武装の展開も間に合うことはなく、押し流されてゆく中で、マナコは彼女と逸れてしまった。生臭い魚の肉が吐いても吐いても口の中に流れこみ、ざらざらとした肉の塊に、何度も何度も臓腑を押しつぶされた。
苦痛はなく、冷え冷えとした屍骸の洪水の中で、上も下もわからずもみくちゃにされる。今は、自分はどこにいるのだろう。肉の川には明確に流れがあり、自分をどこかに運んでゆこうとする意思が感じられる。〈死なずのネクロ〉が、市民を殺しているというニュースはなんだったのか。それともこれこそが巨大化したという〈死なずのネクロ〉がもたらした災害の1つなのか。
肉と骨をシェイクされながら、特にやることがなく、うとうとと微睡んでいたマナコだったが、視界がほんの少し明るくなったことに気がつき、目を開けた。辺りを包む薄闇は既に弱弱しく、朝の気配が色濃い。いつの間にか、自分は雪崩の表層まで押し上げられていたようだ。平らに潰れた右脚を引きちぎり、重石となっていたものがカバの死体であることにマナコは気がついた。
通りは流動する動物の死骸で埋め尽くされていた。ざらざらとした皮はカバのもの、生臭い魚はイワシのものだった。ところどころに顔を出す尖った鼻はイヌか。また、押し流されてきた巨大なクジラが、ビルの側面にぶつかり、ガラスの雨を降らせた。4種の動物はいずれも、色素が抜けたように真っ白で作り物めいており、ただ、割り開かれて見える肉と、噴き出る血の色だけが、生々しい赤だった。
動物の洪水は、はるか遠くにそびえたつ巨大な壁から噴きこぼれているようだった。どうどうと轟音を鳴り響かせる肉の瀑布は、恐怖を覚えるほどに高く、その頂上には雲がかかっている。横幅にも際限が感じられず、まるで地の果てまで続いているようだ。断言できるが、これだけ巨大な建造部は腎痛区にはない。この災害を引き起こしている何者かが作ったに違いない。
「何者かっていうか、〈生命のバレエ〉かな」
動物の死体を創り出す能力を持っていると、ラジオニュースでやっているのをマナコは聞いたことがあった。犯罪者。〈死なずのネクロ〉の恋人の1人。暴れまわる恋人を助けるために、彼女はこの大破壊を引き起こしたのだろうか。つまり、この街は愛によって滅ぼされるのか。何て安っぽいんだろうとマナコは笑う。自分には愛がないとくだをまくヒカルの醜態を思い出し、吹き出してしまう。
何千年も続く生の中で、恋愛の経験も何度かはあった。しかし、それはやはり「生きている」人間たちの尺度でこねられた概念であって、どれも長続きは(「恋愛」というくくりにおいては、充分長く続いたのだろうけど)しなかった。そして、それがこの街の人間にとって、スタンダードな姿勢なのだ。既になにもかもがどうでもよく、雑に適当にいい加減に、危険を失って回る、不死者たちの街。〈死なずのネクロ〉の気持ちも、彼女たちの気持ちもマナコにはわからない。恋愛も、友愛も、博愛も、家族愛も……。
「嘘つき」
急に口をついて出た言葉に、マナコは自分で驚いた。嘘つき? 何に対する嘘なのだろう。決まっている、約束を守らなかったのだ。急ブレーキを踏んだ車のように、思考の制御ができなかった。芋づる式に言葉が思い浮かび、とらえられなかった輪郭が明らかになってゆく。キーワードは「家族愛」だった。兄貴。答えはすぐに浮かんだ。そうだ、兄貴は約束を守らなかったのだ。今、自分はこんなにも危ない目にあっているというのに。危ない? どこが? 起き上がりであるマナコは怪我も平気だし、もちろん死ぬこともない。危ないことなんて、何もないはずだ。
だから、その約束は、自分がまだ、「生きていた頃」のものに違いなかった。怪我をしたら痛くて、高い所から落ちたら死んで。高い所から? 自分は落ちたのか? いい加減にしろよ伊織と、普段は口数の少ない兄貴が声を荒げていた。伊織とは誰だ? 私はマナコ。違う。違う違う違う。それは、永い永い人生の中で、名前もわからなくなって新しくつけた名前だった。この街の人間の名には2種類ある。忘れないためにつけられた元々の名前と、忘れられたためにつけられた新しい名前。私は伊織。私は、伊織だ。マナコは、思い出した名前を繰り返し、口にする。
そう、マナコは、私は、半崎伊織だ。
「いい加減にしろよ、伊織」
口数の少ない兄貴だった。頭もさしてよくなくて、ルックスも大したことのない小太りの男。小学生のやんちゃざかりだった私は、7歳年上の兄貴相手に、ブタだデブだとはやしたてた。その度に両親は怒ったけれど、兄貴はむすっと口を曲げるだけで、特に何も言わなかった。こんなにボロカス言われてるのになんて情けない兄貴だと腹がたった。
「大丈夫だ。今度は俺が助けてやるから」
低い声で兄貴が言う。それが約束の文言だった。目は今にも泣きそうに充血しており、小さな私の手を恐る恐るとりあげている。何があったのだろう。何かあったのだ。じっとりとかいた汗の感触は、逆算してその夏の暑さを取り戻し、外気の気配と水の匂いが記憶の映像に縁側を追加する。学校ではない。長い休みの。夏休みの。祖母の家で。ド田舎の山の。思い出せ。思い出せ。思い出せ。思い出せ。思い出せ。
肉の濁流の上にへたりこみ、完全に呆けているマナコは、ビルをなぎ倒す巨体にも、1歩近づくごとに轟く地震にも気がつくことはなかった。死体の津波の先端にふきだまった腎痛区の市民たちの肉塊の上に、最早、両腕すらないネクロは、風呂に浸かるようにずぶりと沈み込み、それらを肉体と魂の中へと溶かしていった。迎え入れられると共にぼやけてゆく記憶の中で、マナコはそれでもあの夏の日を思い出し続け、兄貴と絡めた小指の感触を最後に、完全にその意識を途絶えさせた。
指切りげんまん。嘘ついたら針千本のます。