【忍殺第1部再読】「スワン・ソング・サング・バイ・ア・フェイデッド・クロウ」
個人的にはシヨン版がベスト
第一部を、いや、『ニンジャスレイヤー』を代表すると言ってもいい、名作エピソード。下世話な言い方をするならばいわゆる「泣ける」作品であり、忍殺ニュービーにとって、「キックアウト・ザ・マザーファッカー」に並び、ネタ小説という第一印象を覆すきっかけになるお話ではないでしょうか。重篤ヘッズ的には「ニンジャの子づくり」が写実的に描かれた貴重な資料ということになるのかな? シルバーカラスが言葉とカラテを駆使してミーム伝達を試みる姿は、「センセイ」と呼ぶに足るものであり、忍殺本編の主役を務めるドラゴン連中がいかに例外的であったかがつきつけられます。あの人たちのやってること、基本的にドラゴン・ドージョーのミリしらなんですよね。公式からの供給がないから1テキストを延々膨らませてほぼほぼ別のオリジナル作品になっちゃってるカラテ。
囲んで棒で殴られそうですが、実を言うと、私はそんなに好きなエピソードではありません(ラストセンテンスの美しさは忍殺史上最高峰だと思うので、それだけで充分プラスなんですが)。理由としては二つありまして、一つはこの頃のヤモトさんがどういう奴なのかがよくわからないため。そしてもう一つが、私の基準では文章がウェットな方向に傾きすぎておりそれが単純に好みではないためです。前者に関しては今回の再読で覆りました。それは、ヤモトがどういう奴なのかがわかったからではなく、「ヤモトがどういう奴なのかわからない」ことがこのエピソードの肝であるように読めたためです。後者については、今回の再読でもやはり同じ感想ですね。私はこの叙情性はくどく感じますし、最後のインストラクションなどは胃もたれしてしまいます。ドラマCD版についてもこれは同じであり……ゆえに、私にとってスワンソングのベストは、アニメイシヨン版です。
久しぶりにブルーレイを引っ張り出してきて観たんですけど、いや~やっぱめちゃくちゃおもしろいですね、このアニメ。ソードダンサー戦のスピード感や、緊張のひりつきとかハンパねえ。私が原作で最も好きなのは、ラストシーンのヤモトが煙草を吸おうとして吸えないシーンであり、アニメにおいてそれは煙草の空き箱を見つめるという描写に変わってしまっているのですが、それでも私はこのシヨン版が一番好きです。最後のインストラクションが、人形劇を映すような平坦なカメラによって、あっさりと描かれているのが本当にすばらしいし、それがすっとフェードアウトしてあのED曲に移る流れは、何度観てもしびれます。
ずるい男:シルバーカラス
あなたが、丸太で殴りつけたいニンジャは誰ですか? 街頭アンケートの一位がフィルギアであることはあまりに有名ですが、私の意見は違います。シルバーカラスです。断然こいつです。このスケコマシ陶酔ポエム野郎~!許せねえ!殴る! ……彼は本作の主役を務めるニンジャであり、この物語は彼のミームのお話です。ゆえに、彼が死を迎えるその瞬間まで、このエピソードは彼の視点に憑依され、彼という人間そのものが言葉となって視界を埋め尽くすことなります。むせかえるほどの濃度のカギタナカ原液は、かっこよさ、かなしさ、弱さ、情けなさ、善性、邪悪、諦め、あらゆる味わいと色彩を含み、分かてないほどに混じり合っていますが……それでも、彼を一言で表すならば、やはり「ずるさ」であると私は思います。
彼を味わう上で大切なことは、彼が決して善良なニンジャではなく、邪悪なニンジャであることではないでしょうか。本エピソードは、シルバーカラスを主役としながらも、様々な点で、彼に決して共感し切れない、しかし、感情移入はしてしまうという、絶妙な線引きがなされています。彼が仕事の中で標的とするモータルはろくでもない奴が多く、しかし、それに巻き込んで殺すモータルは何の罪もないモータルであることが多いです。こういったバランス調整の中でも、私が一番好きなのは下のシーンですね。
こらっ!ちゃんとゴミ箱に捨てなさい! そんなんだからヘッズに家を燃やされるんですよ。また、読者が彼に感情移入する入口であり、本作で最も明確に示された善性である「ヤモトを助ける」という行動すらも、それは、あくまでも死を目前にした異常な精神状態が生む「気の迷い」であることは本編中で何度も強調され、そこから、平常の彼は、決してそういうことをするニンジャでないと想像させる余地を持たせています。殺しの人生を主体的に選び取っておきながら、最後の一瞬だけとったバグめいた異常行動がインガオホーの天秤に適用され、煙草一箱分まで傾きを戻してしまう。彼が積んだDKKポイントは到底「タバコが吸えない」で精算できる量ではないはずなのに。ニンジャアノヨの邪悪ニンジャたちがずるいずるいとブーイングを飛ばし、髑髏めいた月も苦虫を噛み潰したような表情を浮かべています。
また、彼は恐ろしく主観的でありながら、その内にかりそめの客観性を持つ人間であり、当然自身の邪悪は十分に自覚しています。自覚してはいるのですが、それについて語る言葉が、これまた実に小憎らしいというか、なんかそんな風に綺麗にまとめるの違くない?と言いたくなる感じになっており、これまた実に噛みごたえがあってたまらない。欺瞞と言えるほどの醜悪さは決してないのですが、そうですね、これはやはり「ずるい」のだと思います。
最悪の所業をとんでもない美文でクールにまとめやがってこの野郎! そもそもシルバーカラスって、「無益な金の為に殺す」という自身のスタンスに反し、カネが必要でなくなっている寿命発覚後も普通に仕事を継続して人を殺しまくっているんですよね。ヤモトをかくまう際にある程度の資金が必要だったから?(「マネーあるんでしょ?」は医師の言葉であり、実際は貯蓄がなかったか?) 仕事として笑い男相手の義理を通す必要があったから? いくらでも理屈はつけられそうですが、個人的には、シルバーカラスというニンジャの殺しは、そういった何かしらのテーマをもってまとめられるような綺麗なものではなく、不明瞭で未整理のままに放り出した自己に他者を巻き込むような、ただのやけくそを惰性として続けてしまっていたような、もっと見栄えの悪い、生っぽい動機によるもののように感じます。少なくとも彼は殺しにおいて明確に言語化されたエゴを伴わせることができるような、強いニンジャでは決してないと思うのです。
しかし、彼の彼による彼自身のための物語のまとめに対して、反論の余地はありません。このエピソードはどこまでも彼の視点の物語であり、それを参照する者も、彼のミームを受け継いだヤモトしかいないのです。横合いから殴りつけ、物語を終わらせる不条理は欠落しています。スワンソングにはニンジャスレイヤーは登場せず、シルバーカラスの物語は、彼の語る方向性のままで、見事、完成をみるのです。美しい幕引きを奪い取られ死ぬことを許されないキャラクターたちと、物語のエネルギーを使い果たさぬままに打ち切りにように死んでゆくキャラクターたちが織り成すこの『ニンジャスレイヤー』という小説において、彼が迎えたそのエンディングはあまりに例外的でした。「ドラマが自分の望む形で完結する」だけでも贅沢なのに、その上、受け渡したミームが生者によって汚染されぬよう、方向性を言葉で教え込む時間的余裕までも……! メタレベルですらも発揮される彼の「ずるさ」は、同量の色気へと転化しうるものであり、それはスワンソングを歌いあげる魅力的な声となっています。そしてその「ずるさ」こそが、シルバーカラスというキャラクターを、今もなお忘れがたい、唯一無二の存在として輝かせ続けているのだと私は思います。
ヤモト・コキへの漸近線
ヤモト・コキというキャラクターは、私にとって長らくずっと謎でした。たとえば本作における彼女は、「シルバーカラスのミームの継手」であり、「シルバーカラスが迎え入れた死(シ)」であると読み取ることができるでしょう。すなわち、触媒であり、役割であり、舞台背景であり……で、ヤモト・コキというニンジャ本人は、一体どういう奴なのでしょう? 悲劇的な運命の中でそれでも強く前進し続けていく少女? 他者への高い共感性を持ち、強い善性を放ちながらも、邪悪に対しては誰よりも苛烈なシの女王? 言葉によって設定を並べることは幾らでもできますが、彼女を彼女たらしめる、彼女のカラテの原理はなんなのかという点を、私はずっととらえることができていませんでした。つまり、私にとって、ヤモトは「魅力的なキャラクター」ではなく、「魅力的なエピソードの材料」だったんですね。第一部のユカノ・ダークニンジャ状態です。(その一端を捕えることができ、彼女を生きたキャラクターとして好きになれたのは、本当に最近のこと、「フォ・フーム・ザ・ベル・トールズ」以降です)
さて、本エピソードにおいても、彼女は「描かれていません」。改めて読み返してみても、驚くほどに彼女がどういう人物なのかという説明が排されいます。画面上に映るのは、あくまでも彼女の仕草、反応、表情、そしてカラテと言った、アクションばかり。唯一、彼女の視点にカメラが大きくよったサードアイとのイクサですらも、彼女の描写のほとんどは、彼女本人ではなく、シルバーカラスのインストラクションによって埋められており、その徹底ぶりがうかがいしれます。
とどのつまり、スワンソングとは、シルバーカラスの物語なのです。より正確に表すならば、シルバーカラスのミームの物語なのです。本作の主役は彼のミームであり、その視点もそのミームのものであり、ゆえに、カメラに映し出されたヤモトの仕草、反応、表情、そしてカラテは、彼女を外側から観測したものに過ぎません。彼女がどういう奴なのかはわからなくて当然なのです。ここで描かれるヤモト・コキは、「シルバーカラスが彼女をどう見ていたか」「シルバーカラスのミームにとって彼女が何者だったか」だからです。では、シルバーカラスの死後は? 本作の主役であるシルバーカラスのミームが、ヤモトのものになった後ならば?
冒頭にも書いた通り、本エピソードのラストシーンが私は大好きです。特に「吸いこもうとしたが、無理なものはニンジャであろうがやはり無理で、彼女は激しく咳き込んだ後、火を押し消した。」は、ニンジャスレイヤー連載史の中でもベスト・センテンスの一つだと思っています。この文は多くのものを含んでいます。女子高生でありながらニンジャとなった彼女の悲劇性を読み取ることもできますし、カギ・タナカに対して発された医者の言葉のリフレインとして咀嚼することもできるでしょう。そして、タバコを吸うことができないというシルバーカラスのインガオホーが、共有するミームを通じて、ヤモトにも適用されている、と読むことも可能です。ここで示されるのは二人の同調であり、ミームの継承の完了です。
主役がシルバーカラスのミームであるがゆえに、彼女を外側から映し続けた本エピソードは、この同調を理由として、ついにヤモト・コキという人物にぐっと近寄ることになります。カメラは、ついにはその素顔を真正面からとらえられるほどに近づき……それを覆い隠すフードも外れ……そして、「その髪があらわになった」瞬間、物語は消灯してしまう。そのタイミングは、素顔が露わになる直前。一瞬のタイミング差により、テキストはヤモト・コキが何者なのかを語らないままに、お話の電源を落とすのです。これは凄い。本当に凄い幕切れです。シルバーカラスのミームが、ヤモト・コキへのミームへと変わる臨界点がこの終わりにはあります。限りなく漸近しつつも、これ以上先は、ヤモト・コキの物語になるという一線。どこまでも彼女に近寄りつつも、彼女の素顔は見えないということ。わからないということ。つまり、ヤモト・コキとカギ・タナカは別人であるということ。スワンソングは、誰の歌であったのかということ。
エピソードとは「どこを切り取るのか」ということであり、本エピソードのその見極めは、冷や汗が流れるほどに、美しく、極まったものでした。ゆえに、「スワン・ソング・サング・バイ・ア・フェイデッド・クロウ」は傑作なのだと私は思います。
未来へ……
第一部はシンプルな作りをしていることもあって、横方向への広がりは抑制されていることが多いのですが、本作に登場するシルバーカラスやソードダンサーが見せてくれた「市井のニンジャ」の在り様は非常に想像がかきたてられていいですね。生活感……暮らしなのですね、という滋味深さがありますし、ソウカイヤに所属していないニンジャがどういう形でニンジャ社会に受け入れられているのかというシャードめいた興趣もある。ソウカイヤの輪郭・裾野に広がる領域の解像度が高まることで、それらの中心に位置するソウカイヤ自体も、存在の深みが増してゆく。第一部においては徹底して「悪の組織」として盛り立ててくれた彼らですが、それだけで消費し切ってしまうにはあまりにももったいない。彼らがネオサイタマにとって、どのような存在だったのかというのは、今後もどんどん描かれて欲しいです。
あ、あと、シルバーカラスがクロスカタナ・エンブレムつけてるシーンで、第三部のあのシーンってここからだったのか、と驚きました。完全に忘れてた。
第三部のこれね。
■note版で再読
■2020年11月4日