NECRO4:地獄くんだり(5)
【(4)より】
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地獄の空は依然、不吉に赤々と照り、屋上の全てを塗りつぶしていた。一体どれほどの時間をこうして過ごしただろう。このイメージと観念の世界には位置も時間もなく、それは俺の体感として、解釈としてしか存在しないものだった。俺は学校の屋上に立ち尽くし、制服を着た亡者が身を投げるのを何度も何度も見送っていた。数え切れないほどの彼女の投身は既に網膜に焼きついており、その動きの全てを目を閉じれば再生することができた。だが、俺は見るのをやめなかった。彼女が死ぬまでの10分間を、永遠に繰り返し続けた。
俺の横では、白いワンピースに身を包んだハヤシがその小さな膝小僧に頬を乗せ、こちらを眺めながら体育座りをしていた。影としておぼろに霞みながらも動きは生々しいミィの……樋村美衣の自殺の風景と違い、ハヤシの肩に沿って流れる黒髪は、床にこぼしたミルクのように広がるワンピースの流線は、やはりどこまでも実在感がなく、喋る度にちらちら見える口内の肉以外の全てが虚構に満ちていた。
「ネクロ、君はほんとうにしつこい奴だ」
呆れたように、だが嬉しそうにハヤシは言った。愛おしむようでありながら、どこかイラつきを感じさせる口調だった。
「俺は必ずお前を殺す」
「『なぜなら、お前が俺を裏切ったから』……笑っちゃうよね。昔から本当にそればっかり。バカだよ君は。思い込んでるだけだ。君に私が愛せるものか」
「そんなことは絶対にない」
「そんなことは絶対にあるね、なぜなら、私は嘘だからだ」
レコードにとり憑いた黄泉帰り。形のない肉体を持った不死者。形而上のゴースト。ハヤシは自分の特徴を列挙し、そんなものは全て方便で説明だと言った。解釈であり、理屈であり、どこにもいない私を説明するための嘘に過ぎなくて、そして私はミィのようなどこにもいないものですらなく、その嘘だけが私なんだと言った。
「君は小説を読まないだろう。探偵小説なんて、まるで興味も持ってない。君の愛はどこまでも現実志向であって、フィクションを読んで満足することはない。君はヘンタイだから、ミィのように目の前に実在する『無』や、ジルのように人格はなくとも存在する『現象』を、擬人化することなくまるまま愛することはできるかもしれない。だからこそ、擬人化された、擬人化でしかない私を愛することはできない」
「そんなことはない。なぜなら」
「『お前が俺を裏切ったから』」
ハヤシは、俺の言葉を先取りし、くすくす笑った。
「定型文。強い意味を持った言葉であっても、同じことばかりを繰り返したら、ただの陳腐なギャグになる。そういうことを考えない君の愚直さは嫌いじゃない。君は本当に疑わない。ネアバスくんのように、私が提示した条件を全く疑問に持たない」
「お前が嘘をついていないことはわかっている」
「『俺はお前を愛しているからだ』……それも定型文。でも嬉しいよ。ありがとう」
ハヤシはそう言って、空を見上げ、フェンスに取りつく亡者を見て、大きなため息1つ落とした。それは、何かを諦めたような、全てを吹っ切ったようなため息だった。
「……タキビさんがね、君の体を持ったアイサと、ジルを連れてミィのところに向かってる」
「タキビが?」
完全に予想外の名前に、俺は驚いた。
「彼女たちは君の体をミィにぶつけて、君とアイサを分離させる気なんだ。アイサの肉体が無機物だからこそできる裏技だね。私にとって大切なのはそっちじゃなくて、今の体にも君の自我は1割程残っているってことだ。アイサの自我から切り離された瞬間、1割の自我が君の体の主流になる。小規模であっても『ネクロ』は当然、恋人を迎え入れようとするだろう。ミィをね。ミィは『いない』から、もちろんそれに抵抗はしない。その試みは成功すると思うよ」
喜ばしい話だった。だが、それに何の関係がある?
「関係はあるさ。彼女たちはね、無意識を通じて私が誘導したんだ。ジルに意識はないから、タキビとアイサをね。必要だから、目的をもって、意図して、やったんだ」
これは条件外のホワイダニットだよ、とハヤシは言った。作者は何を考えてこの文章を書いたのか答えてごらん、とハヤシは言った。問題の製作者の立場になって、裏道から謎を解き明かしても構わないと。
「お前が、何を考えているか」
「わかるはずだ」
ハヤシは立ち上がり、地獄の空を背負った。大きな麦わら帽子を両手で抑え、笑いながら、こちらを見下ろして。今の背丈は俺よりも小さいはずなのに、そういった物理的な制約など最早関係なく、そういう作り物として俺を見下ろした。
「わかるはずだ。君は、私を愛しているんだから。私と君は相思相愛なんだから。そうだろう? 君がそう言ったんだ。私のことはよく知っていると、君がその口で言ったんだ。だったら、それは絶対に正しいはずだろう? 」
空の赤は今や不吉を通り越し、ただただ凄まじい色彩の渦になって、真っ白な入道雲を縁取った。そのワンピースに似合うように、わんわんわんわんわんわんと鳴り始める唸りは、既に亡者の悲鳴ではなく、夏の夕方の蝉の声であり、狂ったように鳴り続けるチャイムの音だった。
「何をうだうだ考えているんだ、自分勝手な乱暴者。強姦魔。他人の感想を破り捨てて間違っていると断言するクズ野郎。君は探偵なんかじゃない。誰かの納得のための装置じゃないし、自分の納得のために苦悩もしない。私みたいな幽霊の正体なんて、最初からずっと知っている」
夏の夕方、学校の屋上、ただ2人の空間で、地獄の下で、ハヤシは言った。
「いつまで推理なんてくだらないことをしてるんだ。探偵小説なんてやめちまえ!」
……その通りだ。
考えるまでもない。最初から俺は知っていた。事件の目撃者、林凪紗を見て、俺はハヤシと同じ人物には見えないと思った。それならば林凪紗はハヤシではない。そして樋村美衣を見た時、俺はそれに見覚えがあった。それは俺が知るはずのないミィの素顔であり、ハヤシの口内の肉の生々しさでもあった。だったら、それはそうなのだ。俺が、愛する女たちのことを間違えるはずなどないのだから。
「犯人は、ミィ。そしてお前、ハヤシだ。真相は自殺。死体の消滅は、死の瞬間の力の発現によるもの」
「つまり?」
「ミィの肉体から離れ、固定された魂は、固定されたまま魂のレイヤーでレコードに取り憑いた。お前とミィは、同一人物だ」
「……正解!」
夏の夕空高く、ハヤシの、樋村美衣を語る物語の声が響き渡った。
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ハヤシは口中に腕を突っ込むと、体をまるまま裏返すように、その赤い血肉を引きずり出した。飛び降りようとしていた亡者はかすれて消え、べしゃりと床に置かれた女の肉体だけがそこに残された。気弱そうな顔をしたメガネの女だった。白いワンピースでも、セーラー服でもなく、紺色のジャージを着ている。
「樋村美衣のボディだよ。ミィから、そして私の魂から失われた肉体だ。君は私とミィと一緒にこれを迎え入れなければならない」
ただ1つ、血肉の通った証明であったそれを失って、ハヤシは最早、どこにもいなかった。どこにもいないという形ですらそこにはおらず、ただのフィクションとして、物語として、嘘として、そこにいた。全てが虚構だとわかった今、既に視覚的な翻訳など意味はなく、冷めた目でパラパラとめくられる小説のように、読まれないテキストのように、そこに記されていた。
「お前の目的はミィと再び同一の存在になることだったんだな」
「おまけの方の回答かな? いいね。それも正解だ」
ユビキがそうであったように、極端な死の同一性は魂を1つにまとめてしまう。俺に殺され、迎え入れられることで生じる「ヒト1人分になる」という出来事でそれを実行したならば、魂どころではなく、肉体や自我すらも1つになれることだろう。元々が同一の存在であるというレコードもそれをより容易にし、「ない」状態であるというミィのコンディションも、凸凹をはめ合わせるように都合よくはたらくに違いない。
後付けで思いついた理由は更にある。このプランを実行する上で最も難しいのは、ミィとハヤシの迎え入れを、完全に同時に行うことだ。完全な「同時」というものは、概念上の直線と同じく、それこそ魂子エネルギーでも介さない限り発生しない。しかし、俺が今いるのは位置も時間もない魂のレイヤーだ。タイミングはこの世界の支配者であるハヤシが、ミィの迎え入れに合わせてしまえばいい。
探偵小説を銘打って、俺に謎解きゲームをさせたのもそうだ。この遊びを通して、俺はミィとハヤシが同一であるという理解をし、知識を得、納得をした。俺はこの世界に不慣れであり、形をもって過程を踏み、文脈を作り出すことで自らをコントロールしている。そして、ハヤシに「真相を知る」文脈を作られてしまった以上、最早2人を別人して迎え入れることは不可能だった。
ハヤシの目論見は、既に成就していた。作者の意図は既に実を結んでいた。ただ1つの問題点を除いて。
「そう、たった1つ残った問題がある」
既に何の姿でもなくなったハヤシは、いつの間にか消え失せたフェンスを越えて、屋上の縁に立つ。そこには何も立っていないが、ハヤシという嘘だけが立っている。狂ったように鳴り響き続けるチャイムを静寂と解釈し、地獄の全てから、俺に話しかけてくる。
「私はミィの魂が元となって創られた不死者だけれど、ミィの魂自体は既に『ない』という形でミィに備わっている。ミィは、樋村美衣の魂と肉体と自我の『ない』が1セット備わった彼女そのものの裏返しであるけれど、私はそうじゃない。私は、副次的に発生した彼女を語るただのお話だ」
ハヤシはもう地獄の空を背負ってはいなかった。赤々と不吉な色彩は、赤いという尺度すらも通り越し、入道雲の後ろでただ凄まじく渦巻いている。
「君に迎え入れられた時、私は消える」
「そうだろうな。俺の中で完成する恋人は、反転したミィ、樋村美衣だけだ」
俺を裏切り、俺が愛し、俺を愛するハヤシという女は、上書きされる言葉からふるい落とされどこにもいなくなる。俺が裏切りへの対価という形でハヤシを迎え入れることが、ハヤシとの別れを引き起こす。それは俺の愛の在り方に矛盾を突き付けるような仕組みだった。俺という存在が引き起こす現象に対して、臓腐市という街が用意した、とびっきりの抵抗だった。
「さあ、ここからが本当の問題編だ! 君は私を迎え入れられるのか!」
狂ったように鳴き晴らす蝉の声とチャイムを飲み込み、ハヤシは夏の夕空に向けて絶叫した。自分が一体なんなのか、ずっと解釈できなかったと。ネクロに出会って初めて、自分自身を読み解くことができたのだと。ミィと同一になりたいという目的なんて、ただの「目的」であって何の意味もないのだと。ハヤシという虚構は、不死者として、永遠に読み終わることのできない小説として、この行き止まり目がけて綴られ続けてきたのだと。
「君が、私を意味づけた! 読み終わることのできない、解決編のない出来損ないの探偵小説に、書かれるべき価値を与えた! 君の愛を迷わせるために、私という物語は存在したんだ! 樋村美衣の自殺も! それがボタンによる魂の実在化と重なった偶然も! 全ては君にここで読まれる私を書き上げるための伏線に過ぎなかった!」
増えすぎる物体への抵抗としてジルが発生したように、ネクロという暴力の抵抗として自分は在るのだと、ハヤシは絶叫した。
「さあ、ネクロ! 私を迎え入れてみろ! 『君に迎え入れられない』という概念すらも、迎え入れてみろ! そんなことはできるはずがない! できないなら、君は私を愛していない! 君はフィクションを愛せない! 他人の感想を破り捨てるだけのクソ野郎。……だったら、そうすればいい。私が君に約束したのは、迎え入れられることではなく、殺されることだけだ」
『殺されてやってもいい』と、確かにハヤシは言っていた。俺はそのことを思い出す。
「君は本当に愚直だよ。問題文を疑いもしないで……。ネアバスくんも呆れてる」
「俺はお前が嘘をつかないことを知っている」
そうだね、とハヤシは呟き、屋上の縁で、実在しない両腕を広げた。
「殺してくれ、ネクロ。君が突き落とせ」
うっとりと、夢を見るように解釈した。
「自殺は、もう嫌なんだ」
俺はその声を聞いて、屋上の縁に、そこにいないハヤシに向けて歩き始めた。ハヤシによる翻訳は既に誤字と誤訳にまみれ、鳴きわめくチャイムと蝉の声は亡者のわだかる影のようにたゆたった。不吉な空は針の山のように匂い、教室のように俺の肌に触れていた。最早全てに位置と時間はなく、10分間は壊れ切っていた。だが俺は確かに訳し残ったその屋上の縁めがけ、いつまでもどこまでも歩き続け、そして永遠と一瞬の果てに、落ち続ける無間地獄の底で、ハヤシに触れた。
突き出した俺の右手には、振動するナイフが握られていた。
俺は突き落とさなかった。突き落とすわけがなかった。そんなことをする理由はどこにもなかった。握りしめるほどに強く、女たちの悦びで奮える13人分416本の歯が、突き刺さったハヤシの心臓を切り刻み、絡めとる。嘘を、虚構を、お話を、物語を、ヒト1人分の形に折りたたみ、綴り、まとめあげてゆく。ハヤシは黙って、胸を抑え、息を吐く。
「お前は俺を裏切った。だから俺はお前を殺す」
そして、俺を見上げ、表情を見せた。
「なぜなら、俺はお前を愛しているからだ」
迎え入れられてゆくハヤシと共に、地獄の風景はばたばたとはためき、しわくちゃに丸まり、知覚できる全てを失い崩れ去ってゆく。ハヤシはそれを別れと言ったが、俺はそうは思わなかった。そして、俺がそう思わない以上、それは別れではなかった。裏切りのレコードは、俺に迎え入れられることで愛として魂のレイヤーに刻みつけられる。ハヤシは確かに消滅するだろうが、刻みつけられた愛に、過去も未来もあるものか。位置も時間もない魂のレイヤーの中で、俺とハヤシの愛は、間違いなく今ここに在り続ける。俺がそう解釈し、俺が納得している以上、愛はやはり破綻なく、どこまでも正しかった。
「そんなわけあるかクソ野郎」
突然、視界が明瞭に像を結び、周囲の情景を知覚した。荒廃した大地と、こちらに迫る金属製の拳。魂のレイヤーから物理のレイヤーへの切り替わりの瞬間を狙った不意打ちに、到底反応できるはずもなく、俺は真正面から殴り飛ばされ、地面に転がった。
顔を上げると、そこは痔獄だった。
「おかえり、ネクロ」
そして、タキビが立っていた。
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四肢に内蔵されているアイサをバネ状に変形させ、タキビは体を弓のように引き絞った。臓腐市に帰って早々に顔面を殴打されたネクロは、未だ状況を飲み込めていないらしく、地面に尻を付けたまま呆けている。敵意と悪意の鉄が生む強烈な張力をもって放たれる蹴りは、アイサとのコンビネーションに慣れないタキビ本人にも制御不能で、ネクロの横の地面を爆散させるに留まった。
その衝撃で意識の焦点が合ったらしいネクロは、座った姿勢から一瞬にしてタキビの頭上に飛び上がり、左腕から引き抜いた尺骨に節目を刻み込み、鞭に変えた。幾らアイサの力を借りたと言えど、タキビの戦闘経験はネクロと雲泥の差がある。一撃食らう。反射的に目を閉じてしまったタキビだったが、衝撃は来なかった。
ネクロは、目測を見誤って空振りしていた。作りあげた鞭を13人分の長さだと誤認していたようだった。タキビは、いつまで夢を見ているつもりなんだと心中で呆れ、アイサのバネで体をたわませた。勢いよく放たれた右拳は再び見当違いの方向を殴りつけたが、ジルによる距離の調整により、ちゃんとネクロの腹部に突き刺さった。不快な男の不快なはらわたで、タキビの腕はぬるくなる。突っ込んだ掌の中に、硬い軸がある。ネクロの脊椎だ、とタキビは気づき、それを強く握りしめ、鞄を振り回すように巨体を地面に叩きつけた。
「タキビ……!てめぇなんのつもりだ!」
タキビは応じず、ネクロに馬乗りになり、その顔面を殴りつけた。アイサは脇腹から棘となって分離しネクロの体を地面に縫いつけているため、それは、正真正銘、タキビだけの力で放たれるパンチだった。タキビの腕力では頑丈なネクロに対してダメージを与えることはできなかったが、口を塞ぐことはできた。こんな男の言葉なんて、1つも聞きたくなかった。湧き上がる猛烈な怒りと嫌悪によって、タキビはネクロを殴り続ける。
腹の内で、アイサが爆笑している。遠巻きに眺めるジルが、にやにや笑いを浮かべている。嫌いな男をひとことも喋らせないままに殴り続けることはとても気持ちがよかった。でもそれで終わるわけにはいかなかった。カット、アイサ、ジル。言葉の通じない不死者たちに連れられ、痔獄くんだりまで出向いて、ようやくタキビは学んだ。自分はヒパティだけではなく、やはりグンジとプラクタにも謝るべきなのだ。自分が悪いからではなく、言葉を交わす機会を作るために謝るべきだったのだ。理解できないのだとしても、行き着く果てに誤解しかないのだとわかっていたとしたも、それでも、彼女たちと言葉を交わし、その閉じた系の中にある理を推しはかるべきだったのだ。
だから、自分も、ネクロに、伝えなければいけない。
「私はあんたが嫌いだ」
タキビは吐き気を覚えた。〈恐怖のキイロ〉が迎え入れられる直前に全く同じことを言い、ネクロに抱きしめられたと姉から聞かされたことを思い出し、おぞましく思った。サザンカはそのエピソードを指して「素敵ね」と言っていた。悪趣味な笑みを浮かべて、笑っていた。素敵なもんか。それが、断じて、素敵であってたまるものか。
「あんたの、自分の考えを、他人に押し付けるところが大嫌いだ」
口にしてみればそれは極めて平凡な理由で、でも、平凡な理由であったからこそ、自分は理由なくネクロを嫌っていると思い込んでいたわけで、やはり言葉にはするべきだったのだ。自分の「嫌い」と言葉を交わすべきだったのだ。そして、タキビは予測する。ネクロはそれに「そんなことは、前から知っている」と答えるだろうと。その予測は余りにも容易だったけど、しかし、タキビは決めつけはしなかった。半ば祈るような気持ちで、タキビは返答を待ち、
「そんなことは、前から知っている」
そして、ネクロを諦めた。
「……あんた、本当に知ってるの。私はあんたの恋人でも何でもないのに」
恋人であっても、知ってるわけがないだろうとは、もう言うつもりはなかった。タキビは、立ち上がり、ネクロから離れ、手をはらった。自由になったネクロは、タキビに襲いかかることはなく、ジルのことをちらちら横目で見、殴られた顔をさすりながら言った。
「確かに、タキビ、まだお前は俺の恋人じゃない。まだ俺はお前を愛していない。まだな。……1つ訊きたいんだが、俺はお前と約束をしていたはずだ。俺はよく覚えてる。『サザンカと再会できるまで、俺の恋愛の手助けをする』という内容だったはずだ」
「そうだね」
「だったらどうして、てめぇは俺からアイサを奪った?」
問いかけるネクロの瞳は、真っ黒なガラス玉のようになにもなく、ただカチカチと音をたてて動く機構だけがその内側にあった。これに女たちは飲み込まれてきたのだろうと、タキビは冷めた気持ちで思った。こんなガラクタみたいな取り決めに。言葉未満のプログラムに。
「まだ、間に合う。約束を守れ、タキビ。俺を裏切るな。アイサを返せ」
「嫌だ」
そうか、とネクロは答え、立ち上がり、懐から振動するナイフを取り出した。タキビは〈夢の中のハヤシ〉が迎えただろう顛末を、ジルを通じてミィから聞いていた。この男に殺され、1つになるということを。無限の生の果てに、少し偏った不死者たちがたどり着いた、たった1人だけの閉じた密室。ネクロの理屈は、それを都合よく映す鏡だ。
「タキビ、お前は俺を」
「裏切ってない。約束は必ず守るから」
それはあらかじめ用意しておいた回答だった。
「アイサをあんたから奪ったのは、ミィさんを迎え入れさせるのに必要だったからだよ。実際、それは成功したし、これはあんたの恋愛を手伝ったって言えるでしょ? 」
「だったらアイサを」
「アイサは当然返すつもりだけど、彼女はもうかなり肉体を回復させてるし、今のあんたの力じゃ、間違いなく勝てない。だから私に任せて。説得するから。私はネクロの恋の協力者だからね。あんたの恋愛を手伝ってあげる」
「……待て」
ネクロは停止した。
「待てタキビ……」
どんな時でも傲慢であり続けた不死の怪物は、混乱したように口を抑え、よろめいた。絞り出すように、タキビに言葉をなげかけた。
「お前、それは……口から出任せ……『嘘』だろう?」
「どうしてそんなことがわかるの」
「どうしてって……」
定型文。何もかもが事前に想定した通りだった。決めつけるべきではないと誓ったからこそ、タキビは、それをとても悲しく思った。ネクロは嫌いだったけれど、それでも哀れに思った。胸が触れ合う程の位置に立ち、今や鈍重に濁りつつあるその目をまっすぐに見上げ、にらみつける。
「どうしてって、お前は、俺を」
「裏切ってない。だから、あんたは私を愛していないし、私もあんたを愛していない。愛している女のことならなんだってわかるんでしょ? じゃあ、愛していない女のことはわからないよね。こんな簡単なことだって」
「いや、そうじゃない。その裏切っていないというのが」
「わからない。私が裏切っているかどうか、自分が私を愛しているかどうか、私を愛していないあんたにはわからない」
「待て、待ってくれ……」
本当に軽薄で頭がわるいと、タキビの腹の中でアイサは笑い転げていた。裏切りと愛の構造。それはシンプルだからこそ強く、シンプルだからこそ簡単にエラーを引き起こす。その脆弱性は年若いタキビの頭でも、ちょっと考えればすぐに思いついた。ハヤシと違い、タキビはネクロが騙る愛なんてものをまるで信じていなかったから、この問題を作ることができた。
タキビの目の前で、ネクロは、タキビが今まで見たことがないほど狼狽し、固まっていた。機械がフリーズを起こしたように、全身を停止させ、眼球だけが答えを探し求めて、飛び回る蠅のように激しく動き回っているのが見えた。いくら辺りを見回したところで答えが見つかるはずがないのに、とタキビは思った。推理を放棄したネクロには。他人の理を推しはかることをしない、自分勝手な乱暴者には。
「ネクロ」
振り向いたネクロの顔面を、タキビは思いっきり殴りつけた。先ほど何のダメージも与えることができなかったタキビのパンチは、今度は、ネクロに尻もちをつかせることに成功した。ネクロは立ち上がることすらせず、自分を殴りつけたタキビを不思議そうに見上げていた。あの時、グンジやプラクタに対し自分が向けた目と同じだとタキビは思った。自分は、ネクロにとっての閉じた系になったのだ。
小さくあろうとも、その完成は自分という不死者にとっての1つの成熟であり、さすがにそろそろ名前を決めてもいい頃だ。しかし、特に思いつくものがなく、タキビが自分の語彙のなさに呆れていると、ジルが駆け寄り、耳打ちした。元々は自分の名前のつもりだったけれど、いつの間にか私は底なしになっちゃったからと、ジルは笑った。
「タキビちゃん、あなたにもぴったりな名前だと思う」
それは少々、露悪的ではあったけれど、自分を言葉にする上で、適している。
「じゃあね、ネクロ」
ミィとハヤシが統合されたことで、恋人たちの番号はボタンを除いて1つ上に繰り上がる。13番目の恋人未満にして、ネクロの宿敵の恋の邪魔者。人工の肉体を備えた新たな不死者。タキビ、改め愛を知らない〈人型のタキビ〉は、未だ立ち上がれないネクロを置き去りにして、痔獄を後にした。
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【エピローグ】
電波塔での事件を発端に、〈死なずのネクロ〉を中心として起きた幾つかの事件。それらが臓腐市に与えた変化の内、特に大きなものを3つ挙げるとするならば、以下の通りになる。1つは〈魂と肉のボタン〉を除く12人の「犯罪者」の開放、1つは〈死なずのネクロ〉と〈生命のバレエ〉による臓腑市全土の壊滅、そして最後の1つが〈夢の中のハヤシ〉の消滅に伴う魂のレイヤーの回線速度向上だった。臓腐市に暮らす不死者たちは皆、多かれ少なかれこの3つの変化を受け、それを自らに都合よく解釈し、行動を始めていた。その変化と比べたら、〈死なずのネクロ〉の帰還など全くどうでもいい些事だった。
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サザンカは、臓腐市全域に拡大していた自身の魂が、今までになくスムーズに動くの感じとり、ハヤシが迎え入れられ、消滅したことを悟った。ラジオ・ケーブル伝いに入ってくる街の情報は、より精度と速度を増し、痔獄に入ったことで行方を追うことのできなくなっていた自分の妹の顛末も類推することを可能とした。だから、タキビが最後に彼女の家に立ち寄った時、サザンカは真っ先に謝ることができた。カットを連れてゆきたいという妹の要望を叶えるために、渋るグンジを説き伏せる手伝いをすることもできた。妹と言葉を交わせたことで、共感はできないままに、その気持ちをほんの少し理解することができた。〈全てのサザンカ〉は、自分に背を向けて去ってゆく妹の門出を心から祝福し、そして、肩を落としてとぼとぼ家に帰ってきたネクロの姿に爆笑した。
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市役所の部長室で、タマムシは決裁に訪れた部下の言葉に相槌を打ちながら、今後のプランを立てていた。屍材職員製造活用部が現在推し進めている市内再建プロジェクト自体はどうでもいいが、その計画に必然的に付きまとうエネルギー問題には興味がある。死滅細菌の消滅により痔獄町の新設事業にも取りかからなければならないこと、魂子エネルギー技術の実用化がほど遠いことも踏まえると、禁忌であった「あの燃料」……〈無限のユキミ〉の活用は必須だった。しかし、それは同時に現在行方不明中の市長への反逆を意味していた。ユキミは市長の息子であり、彼を燃料とすることは市長から明確に禁じられていた。しかし、市内災害拡大振興部部長〈様変わりのタマムシ〉は、差し出された書類に印を押す。この街に一層の破壊と混乱を引き起こし、永遠の生に飽いた市民たちの助けとなるために。
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薄く張られた湯に肉体を浸し、魔女はこれまでを悔いていた。広い広い浴槽を埋め尽くす水晶の荊は、市民からかき集めた「痛み」が結晶化したものであり、彼女の陶磁のような肌からほんの少しはみ出した余りに過ぎなかった。彼女はその棘に指で触れ、その肌を裂き、血を流した。途端に同じ色をした薔薇の花が荊伝いに咲き乱れ、その末端に接続されている敬虔な苦痛主義の教徒たちの悲鳴が1オクターブ上がった。「痛み」という悦びの独占。何という許されない所業。責められるべき魔女の悪行。後悔のふりをして現れるそれも、結局は魔女の欲望の新たなステージに過ぎなかった。肉の痛みから、心の痛みへ。この素晴らしい悦びを全て市民に返してしまったとしたら、自分はその喪失にどれほど心を痛めるか。ハヤシが消え、全市民と交わした契約がより強固になった今、魔女には、〈痛みのギギ〉には、それを返す手立てがあった。
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臓腐市のとある居酒屋で、今夜も益体のない会話を2人の男が交わしている。「臓腐市最強の不死者? 市長だ。間違いないね」「兄貴、でもアイサだって相当なもんですぜ」「話になんねぇ。兵器なんざ通用するか」「じゃあジルは」「相手にもならん」「なら、ネクロは」「おいおい、冗談よせよあんなバッタもん。〈死にまくりのネクロ〉がなんだって?」2人の男は爆笑し、ジョッキをカチ合わせる。その肩を、ぽんと叩く女が1人。「なんだぁ、姉さん一体俺たちに……アッ!!」「あ、あんたは……間違いねぇ……この世に生まれ落ちてたった1度の死も経験していない、正真正銘の不死者!」「誰にも傷つけられず、誰も妨げられない、究極の起き上がり!」「どうして臓腐市市長がこんな汚ねぇ居酒屋にィ!」汚くて悪かったなと怒鳴る店主に謝りながら、〈死なずのゲレンデ〉は言った。「あの、恥ずかしいから、そうやって騒ぎたてるの、やめてくれないかな」
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魔術結社ペイニズムは着々と市内のコミュニティを拡大させて暗躍をはかり、臓腐市役所はその内輪の対立をより深めていった。そして言うまでもなく、未だネクロに迎え入れられていない8人の恋人たち、そして恋人未満のタキビも、それぞれがそれぞれの個人的な目的に従い、好き勝手に行動をとっていた。〈死なずのネクロ〉による電波塔での一件は、無数の事情を巻き込んで、臓腐市という巨大なアンデッドをゆっくりと動かし始めていた。
いいかげんで雑で適当で、妥協と矛盾と先延ばしに満ち、全てがなるべくしてなってゆく。しかし、なるべしくてなるとはいえ、今回、行き着く先に待ち受けるのは、いくら壊滅と崩壊に慣れ親しんだこの街であっても、間違いなく最悪と呼ぶに差し支えない大被害だった。そしてその当人であるネクロは、彼の帰還に喜ぶプラクタを憂さ晴らしで殴り飛ばした後、自室でふて寝をしていた。