NECRO2136:指切りげんまん(4)
【(3)より】
■6:26 /// 挫傷区 玖難港 ハイヴ跡地■
ユビキには過去がない。彼女は生まれつきの不死者であり、「生きていた頃」の記憶を忘れてしまった多くの市民たちと違って、初めからそんなものは持っていなかった。彼女にとって、ユビキという名は間違いのない本名であり、自分の出自を示す証明だった。彼女は指忌町で生まれた。いや、指忌町から生まれた。彼女こそが指忌町という土地そのものであり、彼女の肉は町を構成する建材と地盤でできていた。
腫羊区は市役所所有の人工島であり、本土で行うにはリスクが高すぎる魂関連の技術開発が盛んに行われている区域だった。中心となっているのは実験特区としてデザインされた西部の視婆町であり、そこに放り込むためのモルモットを本土からかき集め、住まわせていたのが北部の指忌町だった。15,475人の住人は、全員が黄泉帰りであり、試験体としての精度を求めるという理由から、外見年齢の似通った女性でもあった。その暮らしは本土ほどの自由はなかったが、拷問まがいの実験にかけられるだけの穏やかなものだった。苦痛を感じない不死者たちにとっては、悪い環境ではなかった。
だが、リスクはリスクだった。不死者たちが過ごす長すぎる時間は、ほんのわずかな危険性でさえも、確実に起こる悲劇にしてしまう。その日発生した魂子エネルギー炉の暴走は、指忌町に棲む生物を一瞬にして蒸発させた。魂のレイヤーと物理のレイヤーの座標ずれによって起きたその事故は、爆心地からの距離という概念を持たず、正真正銘、まったくの同時に指忌町全住民の肉体を消し去った。時間的・空間的に完全な同一性をもって発生したその「死」は、15,475人分の魂を1人のものとして再構成し、「ユビキ」という自我を生んだ。原料と同じく黄泉帰りとしての性質を獲得したユビキの魂は、その特異な発生経緯から通常のヒトの肉体ではなく「指忌町」という場そのものに取り憑くという例外的な挙動をみせた。
ユビキの自我の由来については、様々な説があった。そもそも、新たな自我の発生自体は、元よりしばしば起きていた出来事であり、研究者たちにも知見の蓄積があった。発生する自我は全くのランダムでどこにも由来しないとする説、指忌町の住民のいずれかの自我が核となって新たな自我が誕生したとする説、全住民の自我の特徴が平均化されているとする説。いずれにせよ、何の記憶も経験もなく突然世界の中に放りだされた成熟した自我は大きな混乱を起こし、当人を強く恐怖させた。泣きわめき、暴れまわるユビキによって、当時の臓腐市は焦土と化した。
暴れ続ける手に負えない大怪獣を、市役所は犯罪者に認定しつつも程よい刺激として放置し、犯罪者たちは新しい仲間として暖かく見守り、市民はちょうどいい暇つぶしとしておもしろがった。誰もユビキを癒そうとはせず、娯楽として消費するばかりだった。彼女は、同じ人間として対話するには、あまりにも大きすぎた。ユビキはやがて全てを諦め、市の中央で体を丸め、活動を停止した。
それからしばらく時が経ち、動かなくなったユビキを市役所が新たな観光名所としてプランニングし始めた頃、ユビキの前に頭のおかしい男が現れた。その男は薄汚れた書類をユビキに突きつけ、自分は指忌町内のとある一軒家の所有者だと主張した。「市役所特区の土地なんざ興味はないが、俺がもらったからには俺のものだ」「俺のものだと契約されているのに、それが無断で破られてるのが許せねえ」「土地の分際で俺を裏切ろうってのか」「今なら、許してやるから元の場所に戻れ」。
余りに身勝手な言いぐさに、さすがのユビキも気分を害し、断ったらどうするつもりなのと、挑発気味に問いかけた。「殺す」と男は端的に答えた。そんなことができるはずがないのにとユビキは呆れた。私を殺せるもんなら、殺してみるがいい。ユビキは男の命令をはねのけた。
「わかった」
男の声色が、怒りから別の何かに変わった。より静かで、しかし、はるかに温度の高い、無限の色がのたうつ感情の渦。
「ユビキ、お前は俺を裏切った」
男は自分のはらわたから振動するナイフを引き抜くと、ユビキの大きな首にあてがい、皮1枚分すらもない傷をつけた。ナイフの切れ味は大したものだった。ただ刃渡りが小さすぎる。ユビキは黄泉帰りであり、傷は回復しないが、しかし、それで殺せるはずもなかった。何百回切ろうとも。何千回切ろうとも。だが何万回なら。何億回切ったなら……。つまり、ユビキは、その時、生まれて初めて誰かとゆっくり言葉を交わすことができたのだ。小さなナイフが自分の首を切り落とすまで。それこそ、その殺意に恋してしまうほどに、膨大な時間を費やして。
「ネクロ」
ユビキは、男の名前を呼び、目を開けた。あの時間と比べたら、このひと夜のなんと短いことだろう。この逢瀬の、なんて簡単なことだろう。ぐずぐずに崩れ、沸騰して泡立つ巨大な肉のヘドロの塊が、ユビキの前にいた。その全身からは、迎え入れ切れずにふきこぼれた市民たちの悲鳴と笑い声が絶え間なく鳴り響いている。疑うまでもなく、どこからどう見ても間違えようがなく、約束は果たされる。ユビキの前に〈死なずのネクロ〉が立っていた。
■6:45 /// 挫傷区 玖難港 ハイヴ跡地■
ユビキの前に〈死なずのネクロ〉が立ったのを見て、アイサは、焼きついた皮を引きはがすように立ち上がった。タマムシとの戦闘、バレエへの敗北。既に自分の肉である兵装は限界まで削り落とされており、歩行はおろか、呼吸すらもがままならない状態だった。アイサは起き上がりであり、待てば肉体は回復する。しかし、アイサにその選択肢はなかった。目の前の幸福を叩き潰し他人を害するためならば、たとえ肉体を全て失ったとしても、敵意と悪意という概念だけでアイサは必ず立ち上がる。
「ネクロ……」
潰れた喉から出るはずのない声が出る。当たり前だ、あの男の名前だ。肉体を醜く膨れ上がらせ、自分が自分でなくなるほどに全てを費やして、今、ユビキの前に立っている。あの男は、ネクロを「ネクロ」と定義する全てを、この約束に賭けている。それならば邪魔をしなければならない。台無しにしなければならない。支払った全てをドブに捨てられた時の、あの男の顔を見るために。
「ネクロ……」
ボロクズのような翼を展開する。その勢いだけで兵装がさらに壊れ、肉体から剥がれ落ちてゆく。2度、3度、カスを噴いた末に、ようやく宙に浮くことができる。たった13kmぽっち飛び上がる、それだけで信じられないくらいの時間がかかった。見つめ合う2人の視線の間に割り込み、遮るように手を広げる。ああ、やはりここが自分の場所なのだとアイサは、泣き笑った。驚いたようにユビキがこちらを見つめている。カワイイやつ。ユビキは好きだ。でも、どうでもいい。だって、今は……。
「ネクロ、会いたかった」
アイサはとびっきりの笑顔をネクロに見せて、次の瞬間、それを全身ごと醜くねじり潰した。魂のレイヤー内に折りたたまれている残る全ての鉄を引きずり出し、薄く薄く延べていった。イメージは巨大な回転する鉄の円盤。その外周は意識するまでもなく、アイサという自我そのものの形をとって、他者を傷つけるギザギザの刃を形作ってゆく。ネクロは自分のこれすらも愛と解釈するだろうが、そんなもの、絶対に受け取ってやるものか。
「……ネクロ!」
肉体をねじり、ひずませ、回転させてゆく絶叫のような金属音は、次第に重なりあってゆき、アイサがネクロの名を呼ぶ声になる。完成した巨大なバズソーは、慌てて手を伸ばしたユビキよりも早く射出され、ネクロ目がけてまっすぐに飛ぶ。
「……ネクロ!ネクロ!ネクロ!ネクロ!」
最憎の恋人の肉を裂く予感に、アイサは絶頂しかかり……そして。
「あ?」
崩れかかっていたネクロの肉は、満足な抵抗を返さなかった。アイサの振り絞った最後の力はすり抜け、全て柔らかく受け止められた。
「……おい、ふざけるな」
アイサの怒りが発火した。しかし、バズソーの刃に優しく絡みつく肉の泥は、それよりもはるかに熱く、鉄の融点を越えて、彼女の形を強制的に歪ませてゆく。
「これはなんだ! ネクロ、てめぇ、私がなんのためにここまで!」
『愛のためだろう』
アイサを溶かし、押し潰す、肉の全てがそう言った。違う。アイサは必死に自分に言い聞かせる。ネクロに主張する。そんなものは、絶対に、受け取ってやらない。絶対に。絶対に。絶対に。絶対に。絶対に。
「私はお前を愛してな『お前は俺を愛している』
私は、お前を、絶対に『お前は、俺を、絶対に愛している。俺がお前を愛しているからだ。お前は俺を裏切ったからだ。だから俺はお前を殺す』
話が通じない。自分の理屈しかない。底冷えのするやりとりの中で、アイサは自分の誤解に気がついた。ネクロの真の暴力性は、その仕組みではなく、自分が切って捨てた自我にこそあることを。ネクロの恋愛が成立しているのは、奴が選んだ恋人が、偶然、奴を愛したからに過ぎない。仮に恋人が自分を愛さなかった場合、どうなるか。……それは、自分が夢見る暴力の応酬どころではない……より残酷で、ただただ一方的な……。
ギザギザの刃には鎖が絡み、円形だったその形状も細く引き伸ばされて、今や面影を残さない。迎え入れられたアイサの全てが、ネクロの体内で都合よく解釈され、彼女が望まない意味を持ってゆく。悪態すらもねじ伏せられ、全てに愛が押しつけられてゆく中で、アイサはようやくこの男が自分よりもはるかに最悪であることに気がつき、敗北を悟った。ナイフとなったアイサは、ネクロの手でユビキを殺すために振り上げられた。
■6:49 /// 挫傷区 玖難港 ハイヴ跡地■
ナイフとなったアイサを、ネクロがユビキを殺すために振り上げたのを見て、バレエは鼻をすすっていた。他人に嫌がらせをするばかりだったアイサがネクロとユビキの恋路を助けるべく、我が身を呈してユビキを殺す凶器になったことに泣いていた。
「よかったね、アイサ……」
アイサが口にする悪罵も、アイサが奮う度を過ぎた乱暴も、好きな人相手に素直になれないただの照れ隠しなのだと、バレエは理解していた。だから、ネクロに迎え入れられた時、彼女は心の底から喜んだ違いない。2人は相思相愛だから。お互いにとっての「特別」だから。そしてそれはバレエにはできないことだった。恋人であるネクロすらも、バレエにとっては最愛ではなく、愛する全ての中に均された1つの凸に過ぎないのだから。
バレエに嫉妬という機能はなく、他の恋人たちに負の感情を覚えたことはない。しかし、彼女たちの愛を羨む気持ちはあった。羨む自分をみじめに思う気持ちもあった。だから、ネクロがユビキの首を切り落とす瞬間を、バレエは見ることができなかった。振り上げられたネクロのナイフが、既に完全に上った朝日を照り返し輝いたのを目に焼きつけて、バレエは背を向け飛び立った。
動物の死体で創り上げた巨大な羽根を羽ばたかせて、誰もいない空をゆく。家に帰ろう。死体の山で創り上げた、冷たい島に。本物の愛を持てない自分にふさわしい、虚無の家に。猛烈な風が彼女の周囲に巻き起こり、刃が肉を断つ音をそのはるか後ろに置き去りにする。眼下では、ただの瓦礫の山になった臓腐市が朝日に焼かれ、無惨な姿をさらしている。
『バレエ、成功よ。ネクロはユビキを迎え入れた。あなたが手伝ってくれたおかげよ』
懐の携帯ラジオから、サザンカの声がした。
「どういたしまして。でも、手伝ってなくても、あの2人ならうまくいったよ」
『そうかしら』
「そうだよ。私なんかと違って、2人は本物の愛を持ってる」
『……あなたのその、押しつけがましい自嘲もそろそろ聞き飽きたわね。思い込みは結構だけど、いい加減にしておかないとますますアイサに嫌われるわよ』
「冗談でも、そういうことは言わないで欲しいな。アイサは私の親友なんだから」
『親友なら助けてあげればよかったのに。自分で描いた画とはいえ、今回、彼女にはひどいことをしてしまったわ。また、謝らないとね』
「ひどいこと? あなた何をしたの?」
『バレエも見てたじゃない。かわいそうに。いくら苦痛がないからって、強姦なんて決して許されるものじゃないわ。まあ、ネクロに是非を問うことなんてナンセンスだとは思うけど』
「何を言っているの?」
やはりサザンカは苦手だと、バレエは思う。何を言っているのかわからない。理解できない。こちらの困惑の気配が伝わったのか、サザンカは一瞬沈黙すると、呆れたような声で笑いだした。
『バレエ、悔しいけどね。正直なところ、あなたが一番ネクロとお似合いだと私はずっと思ってるわよ。とんだおしどり夫婦よ。最悪のね。だからもっと自分に自身を持ってくれると、私も嬉しいわ』
なんなの一体と、応答しかけた瞬間、空から降ってきた何かに携帯ラジオは叩き落とされた。起きたことを理解するより前に、広げた翼に次々衝撃が走り、バレエは大きくバランスを崩した。衝撃を受けた箇所には、赤黒い何かがこびりついている。崩れた姿勢を立て直すことができず、バレエはみるみる地表に向けて落下してゆく。
降り注ぐその物体と速度が揃ったことで、バレエはやっとそれが何かを理解した。それは肉と血と骨の雨だった。ネクロがユビキを迎え入れたことで、はじき出された市民たちが臓腐市全土に降り注いでいた。
■6:52 /// 臓腐区 肉肥田町 肉肥田電波塔■
ネクロがユビキを迎え入れたことで、はじき出された市民たちが臓腐市全土に降り注いでいた。高速落下する人体は瓦礫の海にばしゃばしゃと赤い飛沫を散らし、その衝撃と重量で、壊れ損ねた建造物をあますことなく押し潰していった。叩きつけられた不死者たちは、黄泉帰りはそのまま肉体を放棄し、起き上がりは蘇生しては再度押し潰されて死ぬサイクルを土砂降りの肉の中で延々と繰り返していた。
見落としていた塗り残しを、最後の仕上げだと塗り潰すように、市民たちは降り注ぎ続けた。ネクロによって意図的に見逃されていた肉肥田電波塔も、その雨から逃れることはできなかった。度重なる事件によって既に限界を迎えかけていた電波塔は、ついにとどめを刺され、倒れようとしていた。その中階層。傾く床が突きつけてくる「避け得ぬ死」を前に、グンジは自らの体を抱き、ガタガタと震えていた。
『グンジ』
「さ、サザンカさん!たすけて……!たすけてください!」
『無理ね。私はこうして喋りかけることしかできないし、あなたも魂の分割能力以外は、ナチュラルな人体でしょう。こういう時に備えて、改造しておけばよかったのに』
「いやです!しゅ、手術は、死を予感する。この街の人間はみんなおかしいんだ。みんな、死んでも平気なんて狂ってる。人間じゃないんだ。くそっ……いやだ、死にたくない。死にたくないです、サザンカさん」
『まあ、諦めなさいよ』
いやだ! と泣き叫んだ瞬間、天井を突き破った市民の肉体が1つ、グンジの目の前に落ちてきた。思わず悲鳴をあげて飛びのいたグンジの前で、どうやら起き上がりらしいその死体は、びくびくと体を痙攣させた。ネクロの肉の中で茹で上がりべろべろに剥がれた皮膚を、ひきつらせながら回復させてゆく。折れた骨が繋ぎあわさり、潰れた肉が膨れてゆく。そして、それは次第に、グンジの見覚えのある姿になった。
『あらら、運がいいわね』
「プ、プ……」
差し迫った死の恐怖で、舌がまわらない。グンジは、1回深呼吸をし、改めてその元部下に命じた。
「プラクタ、助けて!」
次の瞬間、グンジは既に電波塔の外にいた。蘇生し切っていない状態にも関わらず、プラクタは器用に両脚のジェット・ガスを操り、降り注ぐ死体の雨を避けて飛んだ。胸をなでおろし、辺りを伺う余裕ができたグンジは、挫症区の方角に天高く肉を噴き上げ続ける巨大なモニュメントを見つけた。我が恋人ながらむちゃくちゃだと、呆れの感情が先に来る。ふと気がつくと、プラクタもまたそれを見て、バカになったように口を開けていた。
『ネクロ』
「蘇って早々、よくわかりましたね」
『わかるに決まっているだろう』
あれが本物だ、本物なんだ、とブツブツと呟き始めた元部下を見て、いいから早く地面に降ろしてくれないかなと、グンジは少し苛立った。しかし、この元部下が、妙な理屈でネクロにご執心であることも知っていたため、命令をすることはやめておいた。降り注ぐ市民が当たらないか心配で、グンジはプラクタの肩越しに空を見上げる。雲1つない青空の向こう、果ての見えない天上から、市民は落下し続けていた。
■6:58 /// 南妃髄区 上空■
雲1つない青空の向こう、果ての見えない天上から、マナコは落下し続けていた。ネクロに迎えられ、一度意識が途絶えことなどなかったように、「生きていた頃」のマナコの記憶は蘇り続けていた。そして、その記憶の中心には、あのうだつのあがらない兄貴がおり、その太い指と交わした指切りげんまんの感触があった。耳元でばたばたとはためく風切り音と、全身が宙に投げ出されている浮遊感も、それをより鮮明に呼び起こすトリガーとなっていた。
夏休みの祖母の家。法事とかいうつまらない集まりは飽き飽きだった。文句の1つも言わずにお行儀よく座っている兄貴も気に食わない。昨日は虫とり勝負で自分に負けたくせに、こういう時だけはうまく立ち回って母に褒められている。こっそり家を出てやろう。カブトムシを見つけたら母も褒めてくれるかもしれない。
家の裏手から山に行くのはやめなさいと注意されたのは覚えていた。しかし、裏の崖を越えれば山への近道になる。兄貴と違って自分は運動神経もいい。そう思っていたが、気がついたら体が宙に投げ出されていた。耳元でばたばたとはためく風切り音と、全身が宙に投げ出されている浮遊感。直後に強烈な衝撃が走り、息を全て吐き出した。
猛烈な痛みが後からやってきた。動けない。骨が折れているのだと思った。助けて、助けてと何度も叫んだが、声は広い広い空に吸い込まれてゆくだけで、どこにも届く気がしない。自分は死ぬのだと思った。それはとてつもない恐怖だった。死ぬなんて当たり前のはずなのに、そのことを今初めて知った気持ちだった。むちゃくちゃに叫ぼうとして声が出ないことに気がついた。声が枯れている。目の前が真っ暗になった。
「いい加減にしろよ、伊織」
どれだけそうしていただろう。自分を最初に見つけたのは兄貴だった。兄貴は、自分を見つけると今にも泣きだしそうな表情を浮かべ、大声で大人を呼びに戻った。次に意識を取り戻した時は祖母の家だった。顔を真っ赤にした母は、一瞬、怒りかけると、すすり泣き始めた自分を見て一緒に泣き始めた。父と祖母は、その横で魂を全て吐き出すように息を吐き出し、腰をぬかしたように座っていた。
お兄ちゃんにお礼を言いなさいと、父が言った。兄貴はなぜだか申し訳なさそうに部屋の端で体を縮めていた。その二の腕が蚊にたくさん食われているのを見て、自分はますますひどく泣き出した。兄貴は慌てたように立ち上がると、自分に近寄り、もう大人しくしてろよと少し迷惑そうに振舞った後、それでも泣き止まない自分を見て、おずおずと小指を差し出した。
「大丈夫だ。今度は俺が助けてやるから」
「嘘つき」
何が助けてやる、だ。マナコは悪態をつき、そして自分が無茶苦茶言っていることに気がついて、ひとしきり笑った。とりあえず今は仕方がない。自分はこのまま、地面に叩きつけられて1度死ぬ。そうしたらもっと頑張ってお金を貯めるのだ。この街にいるはずの兄貴を探し出し、指切りまでした癖に、約束を守れなかったつけをはらわせてやる。兄貴も今や不死者のはずだから、本当に針を千本を飲ませてやろう。
だけど、もし、今、助けてくれるなら。
それをどこか望みながらも、そんな「もし」はありえないとマナコは考えていた。確かにそれは常識的に考えて、ありえない確率だった。しかし、確率は確率だった。可能性は可能性だった。不死者たちが過ごす長すぎる時間は、ほんのわずかな可能性でさえも、確実に起こる出来事に変えてしまうことをマナコは忘れていた。
地上は近い。徹底的に壊れ尽くした臓腐市の中で、1軒だけ妙に原型を残した建物があることにマナコは気がつく。自分がこのままだとその建物に落下することも、段々とわかってくる。しかし、マナコはその建物が、自分がACHE企画制作部として関わった「ストマック・デッド・エンド」の会場であることに未だ気がついてはいなかった。その大食い大会が、今まさに決着を迎えようとしていることに気がついてはいなかった。登録選手の中に、妹を探す資金目的に参加した者がいることに気がついてはいなかった。
時刻は7時。約束の時間。優勝は。
■7:00 /// 南妃髄区 奇々葉町 奇々葉体育館■
『優勝は、〈早仕舞いのハンザキ〉ィーーーーーーッッ!!!』
実況の絶叫に合わせてヒブクレが飛び上がり、真っ赤になって泣きはらすハマチの親父と思わず抱きあったその時。とんでもない轟音と共に頭上の天窓が破れ、血だるまの肉塊が壇上に落ちてきた。その下敷きになったハンザキは、見事に頭を潰されており完全に絶命していた。いい勝負だったとハンザキと握手をしようとしていた〈輪切りのイカリ〉が、ぽかんと口を開けて、呆けている。
『おおっと、何やらまたハプニングがあったようですが……さあさあさあ、すばらしい戦いを見せてくれましたストマック・デッド・エンド! 最後のデッドヒートは、この大会の歴史の中でも間違いなく最高のものでした!では、実況はここまでにして、早速、優勝者のインタビューに移りましょう! 栄光ある、ストマックキング!〈早仕舞いのハンザキ〉さんです!』
「あ~、ハンザキなら、今そこで死んでます」
『えっ』
「こいつ黄泉帰りなんで。スペアの肉体は肉肥田の自宅なんで。そっちに戻ってると思います。インタビューは、まあ、はい」
じゃあ、俺が代わりにとハマチの親父がマイクを実況からひったくり、涙をぼろぼろ流しながらハンザキと妹の約束の話を勝手に喋り出し、あげくの果てには、てめぇらもハンザキを見習いやがれと観客相手に説教をし始めた。
「うーん……ここは」
ハンザキを潰した当人は、のんきな声を上げて身を起こした。起き上がりだったらしく、肉体は既に蘇生されている。潰されているハンザキとは対照的に細身の女だった。女は混乱したように辺りをきょろきょろ見回し、そして自分が尻に敷いているハンザキに気がつくと、何を驚いているのか、目を白黒させた。
「あの、大丈夫っすか?」
ヒブクレが声をかけると、女は慌てたように立ち上がった。
「あの、ひょっとして、これ、ストマック・デッド・エンド」
「はあ、そうです」
「あ、えっと、私このイベントの企画を担当しております、ACHE企画のマナコと申します」
「えっ、そうなんですか。俺ぁ、そこのハンザキの借り腹で出場しました、ヒブクレって言うもんです。はあ、すいません、一応優勝しましたね。選手はそこで死んでるハンザキって奴で」
「あっ、はい、それはおめでとうございます」
女はしばらく名刺を探していたようだが、自分の服装のずたぼろ具合に気がつくと、慌ててハンザキの死体から上着をひっぺがし、上に羽織った。潰した相手に対してずいぶん遠慮がない。ひょっとしてハンザキの知り合いですかと尋ねると、女は答えず、観客相手に未だ説教をし続けているハマチの親父を見た。
「一応、あそこでインタビュー受けてる親父ともチームでしてね。今も話してますけど、ハンザキにえらく肩入れしちゃったみたいで。俺はあの親父が商店街の買い物10年無料にしてくれるって言うから出たんですよ。でも、あの調子だとそれを覚えているか怪しいなあ」
約束、守ってくれるかなと、ヒブクレが呟くと、大丈夫だと思いますよと、なぜか隣の女が請け負った。それは、妙に力強い断言だった。
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【エピローグ】
ユビキをめぐる大騒動は、臓腐市に壊滅的な打撃を与えたが、壊滅的な打撃などは数百年に1度か2度起こるこの街の風物詩のようなもので、市民の多くはほとんど気にすることなく、急にふってわいた野外生活の機会を大いに楽しんでいた。ただ、大きな変化が1つあった。市民の噴き上げに巻き込まれ、本人も天高く飛ばされてしまった〈死なずのネクロ〉が、そのまま忽然と姿を消したのだ。
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サザンカは、自身の能力を駆使しネクロの行方を追っていた。しかし、今回の騒動によって市内のラジオ・ケーブル・ネットワークもほとんどが断線してしまっており、その手段にも限界があった。妹のタキビはネクロを嫌っているため協力してくれなかったが、グンジは快く引き受けてくれた。女米木生研は市内トップシェアの大企業であり、こういう時には頼もしい。しかし、それでもネクロは見つからなかった。市内において、調査の可能な土地は全て洗い終えていた。ならば、もう可能性は1つしかないと〈全てのサザンカ〉は結論づけた。ネクロは、「調査が不可能な土地」にいる。
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アイサは自分が目を覚ましたことにまず驚き、そして自分の肉体が全く別のものにすり替わっていることに驚いた。鉄と火の肉には違いない。しかし、本質的な部分でどこか〈皆殺しのアイサ〉とは異なる肉体。やがて、アイサはそれがあの忌々しいネクロの体であることに気がついた。迎え入れられたはずのアイサの自我が、なぜネクロの肉体を主導しているか。理由はすぐにわかった。ネクロの肉は全て腐り失せ、死滅細菌の影響が比較的薄いアイサの鉄だけが残されたのだ。そこは、とある犯罪者の影響により、あらゆる有機生命の存在が拒絶されている土地だった。アイサ/ネクロが落ちたのは、肉が全て腐り落ちる死の町、痔獄町だった。
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彼女は、物理のレイヤー上に開いた穴のような存在であり、その在り方を語る上で、多くの場合、否定形で語るしかない存在だった。彼女は、痔獄町の中心には「いなかった」し、その町をとりまく異常な状況も引き起こしては「いなかった」。起き上がりに属する不死者であるにも関わらず、肉体が蘇生することは「なかった」し、永遠の生が続き続けるこの街で、ただ1人生きては「いなかった」。その魂が蘇生させているのは、彼女ではなく、彼女が死ぬという現象であり、彼女ははるか昔に不死者になった時から、今に至るまでずっとずっと死に続けていて、不死者であることは一度も「なかった」。だから、彼女は、自身の領域に恋人が落ちたことに気づいては「いなかった」し、それに反応することも「なかった」。しかし、彼女は……〈死のミィ〉は、間違いなく、ネクロを愛していた。
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〈夢の中のハヤシ〉は、夢の中で口を開いた。「ユビキを迎え入れた後、そのまま空高くすっとばされた君は、よりにもよってあの痔獄町に落下した。ミィは自分で動くことができないから、まさに「降ってわいた幸運」だ。さぞ喜んだことだろう。いや、喜ば『なかった』だろう、かな。ともかく、彼女が育てている死滅細菌の影響で、君の本来の肉体はあっと言う間に消え失せ、代わりに今や君自身でもある迎え入れた恋人たちの肉体が表に姿を出した。ボタン、キイロ、ユビキ、アイサ。ボタンは例外で除外、キイロも肉体は普通の人間のものだから、後はアイサとユビキ。とはいえ、指忌町の構成物には有機物も多い。なら残るのはアイサだろう。そんなわけで、君という自我はアイサの自我に肉体を乗っ取られ、今、ここに来ている。待っていたよ。こうなると途中から読めたから、しっかり準備はしておいた。君みたいな奴には、ここが1番似合ってる」
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俺はハヤシのよく回る口を眺めるのに夢中で、その話をあまりよく聞いていなかった。化粧をしていない透きとおるような肌に、薄桃の唇。その上、服装は白いワンピースに、麦わら帽子と、なかなかよくできている。以前、迎え入れた時の格好は、三つ編みのセーラー服だったか。相変わらず作り物めいた女だと、俺は思わずにやりと笑う。しかし、そのファッションはこの場に絶望的に適していない。
真っ赤に燃える空の向こうに見えるのは針の山か。ボコボコと聞こえる沸き立つ音は血の池のものか。列をなす亡者どもは、悲痛な叫びをあげ続け、その先頭に据えられた巨大な机の上、これまだ巨大な帳面の上に、ハヤシはあぐらをかいていた。左手で尺を弄び、右手で引きちぎった閻魔の生首を転がしながら、ハヤシは言う。
「ようこそ地獄へ、ネクロ」