necro4:阿田華行最終バス(前編)
◇◇◇
夜の染みこんだ雨が、だらだら長く降り続いている。プラクタに傘をさす習慣はない。死の失われたこの街では、雨に濡れたところで病にはならず、仮に病になったとしてもなんの問題もないからだ。ただ、濡れそぼった衣服が生ぬるく肌に貼りつくのは不快で仕方がなかった。しかし、不快であることを避ける意味もない。そうして意味のないものを差し引いていった先に、残るものは何かあるのだろうか。何億回と繰り返し答えのわかり切っている問いを、飴玉のように舌の上で転がしながら、歩く。
そうしている内に、バス停に着く。23時8分。最終バスには間に合った。別に一晩かけて歩いて帰ってもよかったが、今日はそういう気分ではなかった。徒労という娯楽は失踪した友人の捜索で十分に味わった。
「あ……」
先客が1人いた。ショートカットで茶髪の少女。彼女は怯えたようにプラクタを見て、体をずらし、ベンチを空けた。今の感情は恐怖だろうか。だとしたら悪くない。厭なことが定まれば、それを避けるという動機が生まれ、意味と価値になる。しかしそれは消去法だ。目的と行動の一致した本物ではなく、川に沿って流れる水のようなただの現象に過ぎない。恐怖なら、先日、プラクタも身をもって体験したが、所詮は養殖品に過ぎずとても満足できるものではなかった。考えうる限りこの世で最も大きな恐怖を受けたにも関わらずそれなのだから、期待できないと結論づけるしかなかった。
ぐしゃぐしゃに湿った財布と鍵をポケットから取り出し、ベンチの上にぶちまけて座る。キーホルダー代わりの傷熊の人形は、押し潰れ、ねじくれ、悲し気に湿っている。スーパーのガチャガチャで当てた景品だった。愛着がある。だが、愛着があるからなんだ? 汚らしい。捨ててしまえばいいんだ。しかし捨てることにも意味があるとは思えなかった。戯れに握りつぶし、雨を絞り出す。臭いを嗅ぐが、つまらない普通の雨だった。友人があの日降らした血の雨と比べると、本当に、心底クソだった。はは、と笑いが漏れるのがわかる。少女がいぶかしげにこちらを見ている。
『友人が行方不明になってしまったんだ。悲しくて仕方がないはずなんだが、どうしても笑ってしまう。俺は今、悲しいと感じているのだろうか? きみからはどう見える?』
少女は目を丸くした。不審な男に突然話しかけられたことに驚いたのか、見た目に似合わないしゃがれ声に驚いたのか。
『ネクロという男でね。驚いただろう。あのネクロだ。向こうは俺のことを友人だと思ってはいないだろうが、俺は彼に親愛の情を抱いている。俺は彼のことを尊敬しているし、見習いたいと思っているんだ。だから彼を失いたくはない。頭のいい元上司とその友人に協力してもらってね、候補として考えられるところは全部探したんだ。でも見つからない。だとしたらネクロが落ちた先はおそらく痔獄町だ。ならば助け出す術はない。地獄に落ちるようなことばかりしていた男だからな。愉快な符合じゃないか』
「えっと……その、ネクロという人のことは知らないですけど、亡くなられたんですね。ご愁傷さまです」
『なんだ、きみ、ずいぶん古い言葉を知っているな。はは、誤用だが。それよりもネクロを知らないなんて嘘だろう。この前の騒動で君も殺されたんじゃないか?』
「ごめんなさい。ちょっと、わからないんです」
その声色には、警戒と怯えの他に、本気の困惑がにじんでいた。プラクタは改めてまじまじと少女の全身を眺める。そして、彼女の右手首に巻かれた血まみれのハンカチに気がついた。巻かれた先に右手はない。切り落とされている。それはいい。問題は、その傷が治る様子もなく、そして止血のための治療が施されていることだ。そして、彼女がその傷口をかばうように身動きしていることだ。
『それはどうしたんだ』
「わからないんです、襲われて……病院に行こうと思ったんですけど、スマホもなくて。警察もなくて。むちゃくちゃ痛くて。もう何も。なんでなの」
家に帰りたいよ、と少女は失った右手を抱くように身を丸め、嗚咽をもらした。異様だった。真に迫っていた。「むちゃくちゃ痛くて」と彼女は言った。そんなはずはないとプラクタは慌てる。この臓腐市に暮らす人間は、特殊な手続きを踏んだ者以外、痛みが取り上げられている。それは魂のレイヤー上で定められたルールであって、まず例外はない。大体、スマホとは何だ? 警察なんてどれだけ前になくなったと?
『おい、お前』
プラクタの手が肩に触れた瞬間、少女は短いを悲鳴を上げ、飛びのいた。これもそうだ。ありえない。何千年も前に染みついた習慣から反射的に恐怖を覚えることはあっても、自発的に本物の恐怖を感じることはありえない。なぜならこの街では死ぬことがなく、何かを失うこともないからだ。先ほど、自分はネクロの失踪に対する感傷を口にしたが、あれも所詮は出まかせだった。自分たちには無限回の試行ができる。どんなことでもいつかは必ず成功する。不死者は本質的には怯えもせず、恐れもしないはずなのだ。
ならば、彼女は。
『お前、どこから来たんだ』
「わ、わからないんです。何も覚えてなくて……何も。名前も! 思い出せなくて!」
少女は叫び、泣いていた。本気で叫び、本気で泣いていた。そこには意思があり、目的が伴っていた。到着したバスの光が2人を照らし、長雨と共に降る暗闇の中で舞台上のようにそこだけを切り取った。違う。それは間違いだ。プラクタはその比喩を否定した。ようやく舞台上ではなくなったのだ。自分は今、オリジナルを目にしている。
震える少女の背を押すように、プラクタはバスに乗車する。彼女の目的地は明白だった。最終バスの行き先は阿田華。プラクタの家がある臓腑市の東の端の端だった。しかし、そこは終点ではなく、バスはその後、市の外に広がる何もない荒野に出て、消える。だが、その荒野こそが、この世界にただ1人の生者である彼女の故郷であり、目指すべき場所に違いない。
【necro4:阿田華行最終バス】
「サザンカさん。起きていますか。先ほど、痔獄町を除く全ての候補地の探索が終わりました。プラクタはネクロさんに強く執着している。おそらく調べに漏れはないでしょう」
『起きているわ。ありがとうグンジ。だとするとあの人、本当に痔獄に落ちたのね。素直に考えるなら肉体が完全消滅しているだろうけれど……そうなった場合、どうなるのかしら』
「黄泉帰りならば、手持ちのスペアか適当な肉体に再憑依するだけですね。起き上がりの場合、細菌による分解と肉体の回復・蘇生が永遠に繰り返され、身動きがとれなくなります。痔獄町での有機物の消滅は、あくまでも物理的な現象の延長上にあるものですから、ジルさんに食べられた時のように本当の意味で『消滅』するわけではありません」
『ネクロは化け戻りとは言え、回復・蘇生の原理はほぼ起き上がりと同じだと考えていいのでしょう? だとしたら、身動きがとれなくなっている……』
「その可能性ももちろんありますが、ユビキさんと一緒に迎え入れたアイサさんの肉体だけが残っているのではないかと私は踏んでいます。彼女の体は大半が金属ですから。自由に動き回れるということはないでしょうが、それでも肉体があるならば、私たちが手を出す必要はないのかなと。ネクロさんが自分でなんとかするでしょう」
『自分で何とかって言うけれど、肉体が100%アイサのものになってるんだから、今はアイサの自我が主導権を握っているんじゃないのかしら』
「そうでしょうね。現在のネクロさんの自我の配分は、肉体に1割、魂に9割と言ったところでしょうか。つまり、極めて特例的ですが、今のネクロさんは魂のレイヤー上に意識がある状態のはずです」
『え、グンジ、それってつまり、ネクロは今、ハヤシに会っているってこと?』
「はい。痔獄町に落ちたことよりもこちらの方がよほど厄介です。通常、夢を通じてしか他者と関われないハヤシさんにとって、直接的な対面、しかもそれが最愛の相手となれば、果たして、返してくれるかどうか」
『形而上の愛の巣ってわけね。最悪。私たちにできることはないかしら」
「1つ、あるといえばありますが……ああ、これは運がいい」
『どうしたの?』
「いえ。今ちょうど、プラクタの行動を追っていたのですが、ちょっと驚いてしまいまして。こんな都合のいい偶然があるんだなって」
◇◇◇
黒々とした長雨の中を、滑らかにくぐりぬけてゆくバスはあまりにも静かで、本当に走っているのかどうか、目を閉じてしまうとわからないほどだった。運転手は一言も発さず、停車駅を告げるアナウンスもない。無機質な電光標示だけは律儀に地名を書いたり消したりしていたが、仮にバスが停まっていたとしても、そのサイクルは変わらず続けられることだろう。バスの走行を証明するものはただ1つ、車道沿いに果てしなく並んだ照明がもたらす一定間隔の明滅だけだった。
その明滅が座席に座る少女とプラクタの上を通り過ぎてゆく。少女は何も喋らなかった。しかし、その肉体と精神は常に活動し続けていた。しゃくりあげ、鼻をすすり、声を漏らし、発熱し、生きている。全ての行動に由来があり、理由があることがプラクタには恐ろしかった。たとえば今の身じろぎは痛みを原因としたものか。恐れを原因としたものか。尻の座りが悪かったのか。プラクタが渡した傷熊の人形に意識を集中したためか。乗り合わせた他の2人の乗客を気にしたのか……。
1つの何かに数え切れないほどの何かが接続されており、しかもその全てに意味と価値がある。それを想像するだけで、気が狂いそうだった。
『きみは臓腐市の外に出て、どうするつもりなんだ。食べ物もない、水もない。3日ともたず死んでしまう』
耐え切れず、問いかける。少女は「わかりません」という例の答えを返してくる。しかし、その定型ですら、形骸化されたものではないのだ。聞くだけで脳が焼ける心地だった。
「でも、この街にいたってすぐに殺されてしまうと思うんです。プラクタさんの話、難しかったけど、でも、私は、間違いなく、この街では生きられない。みんな死なないなんて信じられない」
『きみは少しでも可能性のある方を選びたいというわけだ。どちらにしても死ぬにせよ、少しでもそれが訪れるのを先に延ばしたいときみは判断している。あるいは、そういった生死の問題ではなく、『家に帰りたい』という目的に対してできるだけ近づきたいと考えている』
「そんな深く考えてないです。ただ、この街はなんか嫌なんです」
『きみは本気なんだ。必死で行動している』
「……何を言っているんですか?」
会話だ。今、自分は、会話をしている。プラクタは眩暈を覚えた。全てが信じられなかった。夢ではないかと思った。できるならば今すぐにここで死んでしまいたかったが、そう考えること自体が自分が本物ではないことの証明であり、その衝動ですらも決められた様式に過ぎないことがたまらなかった。
『死にたくはないんだろう?』
「それは……はい」
『家に帰りたいんだろう?』
「……はい」
『それなら、1つ提案させてくれないか。俺はできる限り、きみの手助けをしたいと考えている。このまま阿田華で降りずに街の外まできみを無事に送り届けてやる。なんなら、終わりのない荒野の旅につきあってもいい。俺がいるならば、3日で終わることはない』
「それはどういうことですか」
『俺が食料になる。俺は起き上がりだ。肉体をちぎったところで苦痛はないいし、すぐに生えてくる。水の代わりに血を飲めばいい』
少女は目を丸くした。驚愕。恐怖と忌避。目まぐるしく動く情動の後ろに広がる背景にプラクタは酔う。彼女はどう答えるだろう。断ったところで構わない。その決断もまた、本物だからだ。密度のある意思を伴った選択。ああ、早く。早く聞きたい。いや、すぐに答えがでるはずがない。決められた受け答えではないのだ。今、ここで、新たに創造されているのだ。時間がかかっても仕方がない、とプラクタは考えた。
『ゆっくり考えてほしい。まだ、阿田華に着くまで時間がある』
「……はい」
少女は蒼白の表情でうなずき、少し顔をしかめた。
『右手が痛むのか』
「なんかもう麻痺しちゃったっていうか、かなりマシにはなったんですけど、ずっとズキズキはしてて」
『俺にはよくわからないが、痛みというのは別の場所に力をこめればマシになるものだと聞いたことがある。傷熊の人形を渡しただろう、それを左手で強く握りしめてみたらどうだろうか』
「人形がかわいそうですよ、そんなの」
『そういうものなのか』
プラクタが応じると、少女は小さく笑った。その理由の解釈だけでも、恐ろしく膨大であり、プラクタは気を失いそうな心地になった。ゆえに、真っ黒なスーツを着込んだ2人の乗客が、こちらに向けてゆっくりと歩いてくることにも、そのスーツ姿が市役所の職員特有ものであることにも、まだ気がついてはいなかった。
【後編に続く】
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