necro12:骨とけものと家族たち(前編)
◇◇◇
皿は骨でできている。ナイフも、フォークも、テーブルも。乳白色の朝日が窓の桟で遮られ、ギジンの前に配膳された朝食を格子状に区切っていた。メニューに変わりはない。放し飼いの従者を潰し、薄く焼く。絞り出して薄めた血を皿に敷き、肉を浸す。添えられたパンは骨粉と筋繊維を混ぜ特殊な製法で摸したもの。屍材技術の粋を尽くし、食肉として研鑽を積んだ従者たちの肉質は、とろけるように柔らかく舌の上ではらはらと崩れる。咀嚼の音はほぼない。口数の多いヤマネですらもこの時間だけは言葉を発さない。食器がたてる硬い音だけが、食卓にある。陶器にはない湿りを含む音。骨と骨とが触れる音。
ギジンは、細かくちぎったパンを口に運びながら、兄弟たちを見た。上顎と下顎に被さる骨の口吻をあぐあぐと動かし、肉をみっともなく飲み込むヒュー。両腕を覆う巨大な骨の爪を器用に操り、不格好に皿を持ち上げるヤマネ。下半身に装着された骨の尾びれが邪魔でテンノウジは椅子に座ることができない。サンは鳥の骨格が被さった脚をだらしなく伸ばし、ユマクは蛇腹のような骨の鞭を肉汁で汚している。兄弟は皆、骨の檻に囚われている。それは自分も例外ではない。
パンを咀嚼する。キィキィと頭蓋骨が鳴る。ギジンは他の兄弟と違い、肉体の外側に檻はない。置き換えられた体内の骨によって内側から囚われている。母の骨。真白の檻。ギジンは、テーブルの上座につく母を見た。緩やかに掘られた湖底の砂紋のように、真っ白な皺が顔から首へ流れ、衣服との境目を溶け合わせている。永遠も半ばを過ぎ、白濁に呆けたヒトとしての輪郭の中で、瞳と髪だけが溌剌と黒い。その黒以外に母の流れを遮るものはない。無骨な檻に囚われ、見苦しくあわあわと肉を追う子供たちと違い、母だけが優雅に食事を摂っている。
「キクラゲさんがまたいなくなったわ」
全員が食事を終えるタイミングを見計らい、母が言った。キクラゲは、父の名だ。母の隣の椅子は、確かに昨夜から空席だった。ギジンも含め、家族の中でそれを指摘するものはいなかった。いつものことだからだ。自分たちと違い、父は自由な出入りが許されている。
「俺がまた探してこようか」
「いえ、ヒュー。探偵を雇ったから、大丈夫。今のはただの愚痴」
「探偵?」
「〈盗み聞き〉よ」
「ああ、臓腑区の」
「あなたたちにお願いしたいことは、別にあるわ」
母は、骨でできたティーカップを手に取り、薄く溜まった紅茶の雫を嗅いだ。不死者の過ごす永い時の中で、ヒトを除く脊椎動物は絶え、植物と虫も少なくなった。オーガニックな茶葉は貴重だ。かつては親しい同僚の手でそれが何杯も飲めたのだと、母が懐かしむのをギジンは何度か聞かされた。
「女米木生研から応援を頼まれているの。あそこはグループの系列ではないけれど、頼みを無下にできるような相手でもない。とはいえ、うちの企業から応援者を募っても、それはそれで角が立つわ。だからあなたたちにお願いしたいの」
「内容は」
「研究者の護衛よ。〈腑分けのグンジ〉。護衛と言っても、彼女につく必要はないわ。彼女をつけまわしている不死者を、あなたたちには狩ってもらう」
「どうして? ほっとけばいいじゃん、そんなん」
テンノウジが、骨の尾びれをびちびちと振りながら首をかしげた。ギジンも同感だった。この街には既に死も苦痛もない。〈腑分けのグンジ〉の名は聞いたことがある。黄泉帰り。死んだところでスペアの肉体に取り憑きすぐに蘇生するだろう。
「普通は問題ないわね。2つ、特別な事情がある。まず、彼女は変わり者で、とても死を恐れている。まあそれは知ったこっちゃないけど……もう1つの方、彼女の命を狙う犯人が問題なのよ」
「誰なんです」
ギジンが尋ねると、母はこちらを見て、悪戯っぽく目だけで笑った。この家の外の人間は、母を指してガサツだとよく言う。悪態をつき、大口を開けて笑う、陽気で荒っぽい老婦人。だが、母がその顔を家族に向けることはめったにない。肉の柔らかさを感じさせない、白く凍りついた表情が常だ。母が子どもに対して笑いかける時、それは大体が暗い喜びに根差したものだった。だから、ギジンはその名を先に予測することができた。
「〈死なずのネクロ〉」
【necro12:骨とけものと家族たち】
この街に降る雨は枯れ葉の臭いがする。腐り果てた海と、無辺の荒野。街の外を巡ったとしても、水が含むのは死臭だけだ。ギジンたちがいる路地裏にも灰色の雨は嫌らしく入り込む。雨はビルの外壁を偏執的に埋め尽くす配管を伝い、湯気を立て、一張羅の学生服を重くする。足元には死体。〈腑分けのグンジ〉のものではないが、女米木の兵隊であることは見てすぐにわかった。とぐろを巻くほどに長い胴と鈴なりに生えた腕。分割され、内臓を零す箇所が胸か腹かもわからない。屍材企業の社員は、ヒトの形をしていないことが多い。
「だめだこりゃ」
しゃがみ込み、その断面をくんくんと嗅いでいたヤマネが言った。彼女は鼻が利く。頭部に刺しこまれた哺乳動物の耳に似た骨片が、脳の一部を刺激し嗅覚を向上させているのだという。
「臭いが洗い流されちゃってる。お手上げ、お手上げ」
「連絡があったのはついさっきです。返り血を辿れませんか」
「ギジン? 本気で言ってる? そんな頭悪かった?」
腕を拘束する不釣り合いに大きな骨の爪で、ヤマネは表の通りを指さした。起き上がり、黄泉帰り、化け戻り。3種の不死者から成る雑踏で、血煙と断末魔が途絶えることはない。人殺しも人食いも、何も奪わないとわかった時から、この街の日常になった。散らばった屍肉は市民の足で踏み固められ、全ての通りを舗装している。衛生という概念は、既にない。
「そもそも、そこの胴長くんを殺したのが本当に〈死なずのネクロ〉なのかお姉ちゃんは疑問だね。 殺されたら魂ごと取り込まれるって話だったと思うんだけど」
「取り込まれるのは、ネクロを裏切った女だけですね」
「へー……詳しいじゃーん。さすが抗戦経験あり。ってか、ここからちょっと行ったところだよね、肉肥田町」
「思い出させないで下さいよ」
ギジンは、近隣住民との交流を母から任されている。彼らを引き連れ、肉肥田町の商店街を観光したのもその一環だった。そこに〈死なずのネクロ〉はいた。噂には聞いていた。乱暴者。無法者。自分を裏切った者を生きたまま丸呑みにし腹の中に閉じ込める肉と魂の牢獄。〈真白の檻〉を母に持つこともあり、ギジンはその男に少し興味を持っていた。
その興味ごと、叩き潰された。切り刻まれ、すり潰され、踏みにじられた。不死者の生は長い。敗北にも慣れている。だが、あれほどに響く暴力は他になかった。悪意でも敵意でもない。道を遮る障害物を苛立って蹴倒し、激昂し踏み割るような……。反射的に鎖骨に触れる。母の檻はやはり堅牢で、揺るぎない。だが、時々こうして確かめてしまう。あの時から、ひびが入ってしまったような気がして。
「ネクロはどうして、裏切者を閉じ込めるんだろう」
思わず口に出した呟きに姉の表情が固まったのを見て、ギジンは我に返った。ヤマネは痛痒を抑えるように両腕を覆う骨の爪をすり合わせ、死体を見て、弟を見た。雨を含んだ学生服のスカートが、腿に貼りついている。
「許せないんだよ、きっと」
この街には死刑がないからね、とヤマネは言った。
「殺しても、殺せない。痛みを感じることもない。だから、許せない奴を苦しめるには、檻に閉じ込めるしかない。あたしたちは、時間だけはいくらでもあるから。閉じ込めることだけは、いくらでもできる」
母の骨。真白の檻。母は、自分たちを子供たちと呼ぶ。自分が適当につけた名前で呼ぶ。学生服を着せたまま。
「……とりあえずは、後から来る女米木の社員と合流しましょう」
「はいはーい」
明るく応じたヤマネは、大げさに顔をしかめてみせた。
「でもやだなあ。女米木の連中って腕は確かだけど、バカが多いじゃん? 改造率が高すぎて、脳がいかれちゃってるんだよ。絶対面倒だよ。はー」
失礼ですよ、とギジンがたしなめようとした時、雨が止み、大きな日影が路地裏に差した。通りへの出口を塞ぐように立った巨体の不死者が原因だった。異常なまでに肥大した筋肉はヒトに見えるバランスを欠いており、その頂上には不気味なほどに小さな頭部が生えていた。その頭部が、今にも泣き出しそうな表情を浮かべ、言った。
「ヒパティは確かに頭が悪い。だけど、迷惑はかけない。だから〈ぶっとい右腕のヒパティ〉を許して欲しい」
巨体は悲し気に震えた。その頭上と股の間から、餓鬼のようにやせ細った3人組が、ちょろちょろと顔を覗かせた。3つの顔は区別がつかず、全く同じ怒りの表情を浮かべている。
「卑下するな」「自信を持て」「お前はできる」
「ありがとう、トライ。〈独り言のトライ〉。紹介する。トライだ。3つの肉体で1つの魂を共有する。頭がよく、強く、とても頼りになる。さすがはトライ。さすがはヒパティの仲間だ」
「照れるぜ」「褒めるな」「恥ずかしいぜ」
ヤマネが振り返り、声を出さずに「ほらね」と唇を動かした。そして、輝くような営業スマイルを作り怪物たちに向き直る。姉は思いつめる気質と反比例用するように、外面は明るい。それが生前からのものか、母に影響によるものかは、ギジンには思い出せなかった。
「白菊邸の〈白爪のヤマネ〉、後ろは〈白翅のギジン〉です。通信を受けて現場に最も近かったあたしたちが駆けつけたのですが手遅れだったようですね。他の2組には待機するよう伝えています」
「さすがは白菊邸の私兵隊。さすがは〈白爪のヤマネ〉と〈白翅のギジン〉だ。行動も判断も早い。とても助かる」
「あー、はい、ありがとう、ございます」
おもねるようなヒパティの言葉に、ヤマネは若干イラついたようだった。頭部の骨片がぶるりと震えて、雨水を散らす。
「で、〈死なずのネクロ〉はもうこの場にいないわけですが、何か追跡の手立ては? それとも居所に目星が?」
「奴は小部屋で跳ねまわるピンポン玉だ」「予測不可能なピンボールだぜ」「どちらに跳ね返るか見極めるのは難しいよな」「だから、少しずつ壁を狭める」「メイニィは敗北したが、役目は果たしたな」「あいつは壁だ」「壁がピンポン玉を追い込むぜ」「俺たちはそこを狙う」「お前たちもそこを狙え」
「えーっと……つまり? 何です?」
ヤマネの額に青筋が浮かんだのを見て、ギジンは間に割って入った。
「〈死なずのネクロ〉を、我々が待ち伏せする所定のポイントまで誘導する作戦ということですね」
そうだ、その通り、その通りだ、とトライの3つの肉体が順に肯いた。
「具体的にはどこに?」
「遮蔽物がたくさんある場所がいい」「肉肥田商店街だぜ」「店主たちに許可はもらった」「追い込むまで数日かかる」「お前たちは待機だぜ」「近くで、適当に時間を潰せ」
商店街。よりにもよって。食卓で母が自分に向けた笑みを思い出す。母はここまで読んでいたのか。反射的に鎖骨に触れる。じっとりと雨が染みこんだ学生越しに指の腹で押してみたが、やはりひびは入っていなかった。
◇◇◇
日時計のある公園のベンチに、ギジンは腰を下ろしていた。ヒトと建物が過密に詰め込まれた臓腐区の中で、噛み合わなかったピース同士の隙間を埋めるように作られた空間だった。遊具はなく、木々を模して加工された不死者が疎らに植えられている。ギジンの視線の先では、幼児に見える不死者と母親に見える不死者が野良猫を撫でていた。
親子に見えるが、親子かはわからない。もしかすると幼児に見える不死者の方が父親なのかもしれない。永遠の生を送る不死者にとって、年齢はほとんど意味を持たない。子供に見える者が子供で、老人に見える者が老人だということになっている。それは食事と同じく、記録された魂に従って何となく続けてるだけの習慣に過ぎなかった。鍵が開かれても、檻から出ないことを選ぶ者はこの街に多い。
全てが昔になりすぎた。ギジンは思い出そうとする。ヤマネは昔からあの性格だったか。サンは元々は女性ではなかったか。ヒューは自分の後輩だった気がする。ユマクが誰かわからない。テンノウジの元の名前は天王寺で正しかったはず。キィキィと頭蓋骨が鳴く。節々が軋み、翅をバタつかせ、思考を邪魔する。学生服。覚えていることはそれだけだ。母はそれだけを自分たちに残した。優しさではない。それだけは忘れることがないように。逃げ出すことができないように。
ふぎぎ、と猫の鳴き声がした。
顔を上げると、親子連れは既にいなくなっていた。彼女たちが撫でていた野良猫は、いつの間にかギジンが座るベンチに上り、横でやわらかく丸まっていた。この街にヒト以外の脊椎動物はいない。食料も愛玩動物も、全てが不死者たち自身によって賄われている。ギジンは、そのなだらかな毛並みの丘を撫でた。
「母さんが心配していましたよ」
「本当か? それは怒っているよりも恐ろしいな」
心地よいバリトンの声で猫は応じた。
「自分に何か用事でも」
「いや、偶然だ。驚いたよ。ギジンで助かった。ヒューやサンなら無理矢理連れ帰られただろう」
猫、もとい父のキクラゲは、弓をしならせるように背を伸ばした。骨のマスクで見たてられた兄弟たちと違い、父の魂と肉体は本物の動物だった。ヤマネは自分の爪と耳を指し、あたしは猫だとよく言っていたが、こうして実物を見るとやはり違う。どちらかというと、姉はハイエナか犬が近い。
「僕を探しにきたわけじゃないのなら、何か別に事件でも起こったのか」
ギジンは事情を話した。〈死なずのネクロ〉の名を出した時、父の髭がかすかに震えたのがわかった。
「ギジン。1つ忠告しておく。あの男にまともに取り合うべきではない」
「知っているんですか」
「間接的にだが。僕たち不死者は永遠の時間を過ごすうちに、どうしても極端に偏ってゆく。アレはその最悪のケースだ。ヒトではない。あんなものと、シラギクのこととを比べてどうこう悩む必要はない」
肉と魂の牢獄。真白の檻。自分たちを閉じ込めるもの。ギジンは思わず父から目を逸らし、顔を伏せた。
「さすがは父さんです。隠し事はできないな」
「父さんではない」
父は、ギジンの膝の上に飛び乗り、目を合わせた。
「僕は、君たちの父親ではない。君たちのことを家族だと言い張っているのは、シラギクだけだ。いや、彼女だって、本当は毛ほどもそんなことは思っちゃいない」
「それはそうでしょうね」
家族だなんて、思っているはずがない。それは最初から、そうだ。親子関係も兄弟関係も檻としての体裁に過ぎない。もしかすると、兄弟の誰かは本当に兄弟だったかもしれないが、少なくとも母と血の繋がったものはいない。それだけは間違いない。覚えている。骨と学生服が記憶を縛っている。
「わかっているなら、こんなことは続けるべきではない」
「わかっているから、続けるしかないんです」
骨と骨とが触れ合う音だけが響くあの食卓。骨の装具で制限され、不格好に肉を食らうけだものの兄弟たち。あの光景を何億回見たのか。気が狂いそうになった頃のことすら、もうはるか遠くの過去で忘れてしまった。「家族」という形をとったのは、それが最もギジンたちを苦しめることができるからだ。だが、この関係性にもう苦しみはない。罰は既に擦り切れている。
「姉さんは、許せない奴を苦しめるには、檻に閉じ込めるしかないと言っていました。自分は違うと思うんです」
ギジンは、父に向って言った。
「檻に閉じ込めるのは、苦しめるという目的がなくなってもそれを続けることができるからです。死んで、骨だけになっても、骨は檻の中に残り続けるでしょう。終わりを作らないために、閉じ込めるんです」
「それに何の意味がある。シラギクだって、本当はもうどうでもいいはずだ」
「ええ。どうでもよくなっても続けられるから、自分たちはこれを続けているんです」
倫理や道徳ではない。罪と罰の議題すら既に朽ち果て失せている。人殺しも人食いも、何も奪わないとわかった時から、この街の日常になった。今更、前世紀の死をひとつ持ち出したところで、誰も興味は持たない。だが、自分たちはそれを続けてしまった。家族を作ってしまった。だからこれは、食事と同じ習慣だった。いつもの朝の食卓だった。鍵が開かれても、檻から出ないことを選ぶ者はこの街に多い。それならば、鍵は開けなくていい。
「思い出せないんです、どうしても。理由も、名前も、誰だったかも」
校外学習だった。7人の班だった。学生服を着ていた。その中の1人の背を押した感触。それが自分のものか、他の兄弟が感じたものか、その区別すらつかなかった。どうしてそうなったのかも思い出せなかった。ただその行為と結果だけは、檻の中に閉じ込められた。母親によって。自分たちが背を押した彼の、あるいは、彼女の母親によって。
「おかしいですよね。自分たちで殺しておきながら。どうしても、それ以外のことを思い出せないんです」
自分たちは、母の子供を殺したのだという、それ以外。
【後編に続く】
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