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【映画】 私は、何だか酷く映画が羨ましくなってしまった。

 今更ながら園子温監督の『地獄でなぜ悪い』を観たのですが、これがもう完全に私のための魂の映画でありめちゃくちゃに素晴らしく、観ていてボロボロ泣いてしまいました。観終わった後、麻薬の幻覚のような充足と幸福にあてられて放心してしまった。これほどまでに濃度の高いハッピーエンドを摂取したのは久しぶりの気がします。死ぬのならばこういう風に死にたいなあと一瞬本気で考えてしまうし、熱が冷めた後もずっとその気の迷いが自分の中でまといつき続ける、ある種の呪いめいた洗脳めいたパワのある映画でした。創作者が手にする幸福の絶対量は、我々にとってあまりにも濃度が高すぎて、摂取してしまうと中毒を起こし幻覚に悩まされることになるわけですねえ。

■STORY
 十年ぶりにシャバに帰ってくる妻のため、娘が主演をつとめる映画の完成を心待ちにしていたヤクザの組長。しかし娘のワガママで娘の主演はポシャってしまう。妻の出所まであと9日。敵対する組との抗争が激化する中、組長は子分と機材をかき集め、抗争自体を撮影して映画にしてしまおうという狂気のプランを打ち立てる。それに協力を申し出た映画サークル「ファック・ボンバーズ」も、これまた映画のためなら死を辞さない筋金入りの狂人集団。ヤクザの盲愛と映画狂いの創作愛のケミストリーは、多くの人間を巻き込んで、血みどろのクランクインに向け物語を蹴り転がしてゆく……。

 とにかくなんもかんも過剰なんですよこの映画。ヤクザは紙屑のように死んでゆくし、腕首足がポンポン飛んでゆく。比喩でもなんでもなく足首までつかる血の海を撮影スタッフがバシャバシャ蹴り散らし、漫画みたいな台詞がポンポン飛び交わされる。そういった演出や予告編の見せ方からどうにもコメディめいた雰囲気漂う本作ですが、実のところもうガチのマジなんですよね。誰もふざけていない。ヤクザも映画狂いもみんな本気で脂汗を垂らし魂の底の底から絶叫と爆笑をあげて本気で映画をとっている。

 盲愛と創作愛の化学反応が創り出した狂熱が、現実であるはずの「抗争」を虚構の舞台に変えてしまい、誰も彼もがその上に引きずり上げられ、自分だけの自分のフィクションの中で夢見る乙女のように恍惚の表情を浮かべて、バカみたいに死んでゆくんです。他者が創作した虚構に巻き込まれ、永遠に続く紛い物の絶頂の中で死んでゆくということは、一歩引いてみれば恐ろしいホラーであり、決して肯定し得ないうすら寒いものも含みえるのですが……ですが……この映画は、その暴力的なほどの幸福の大塊で視聴者を殴りぬくことに成功してしまっています。「これこそが本物なんだ」という物語による強烈な断言によるノックアウト。現に私は「これ以上の幸福があるだろうか」と思ってしまった。「羨ましい」と思ってしまったのです。ジャズ大名の最後のセッション。一人匣を背負って荒野を歩く男。迷子探し探偵と迷子のダンス。少女に語られるまっかなおとぎばなし。そういったもの。……PERFECT HAPPY END! そして、紛い物……気の迷いともいえる熱狂の中に一瞬「本物の瞬間」が訪れるという点で、忍殺の「マグロ・サンダーボルト」も想起しました。どっちもヤクザ出ますしね。まあ、マグロはハッピーエンドではなくデッドエンドなんで全く違う話ではあるんですが……。

 あとやっぱりファックボンバーズがめちゃくちゃいいんですよ。物語の最初に彼らの高校時代の青春の熱と夢が語られるんですが、普通にそういうことされると、現在時系列ではしょぼくれた姿で登場してなんかこう社会で摩耗して今やあれは懐かしいおとぎばなし既に現実も知ったし生活だし日常だし生きていくにはなんかこうやっていくしか……みたいな感じになると思うじゃないですか。でもファックボンバーズの連中は違うんですよね。十年後、アラサーになった状態でも普通にまで青春の熱と夢の中にいる。十年間何一つうまくいってないスカムな現実を何一つ見ていない。気の狂ったような眼で、地に足をつけず、ふわふわし続けている。「映画のためなら死んでいい」という一時の気の迷い、紛い物の気分が、十年全く途切れていない。永遠に続く偽物は本物なんですよ。それは完全に気が狂っていることと同義です。イカれてる。そしてだからこそ、ファックボンバーズの中でただ一人、物語の途中で正気に返ってしまい、そして結局はその夢の中に帰ってきてしまったササキのことを思うと涙が止まらなくなるんですね。映画の見せる幻からようやく抜け出して、真面目に生活を始めて……それなのに絶対に来るはずのない「その日」が来てしまった。映画の神がほほ笑んでしまった。今までの全てが意味を持ってしまった。文脈が繋がってしまった。だったらもう全てを捨てて、夢の中に戻って死ぬまで踊り続けるしかない。それ以外の選択肢は、物語上からなくなってしまったのだから……。人間にとって「獄門島の釣鐘」を見つけてしまうことは、この上ない幸福であり、そしてどうしようもない悲劇でもあると私は思うのです。