necro5:サザンカは焼肉が好き
◇◇◇
「グンジ室長、今日は随分お早いですね」
腑分け台に反吐をぶちまけたような臓腐市の俯瞰は平時から赤黒く、夕まずめの今は西日によってその赤が一層増している。仕事場からの帰路、送り迎えのヘリの窓からその光景を見下ろすのがグンジの習慣だった。感傷的な理由ではない。勤め先の主力商品である屍材……不死者の換装用人体の普及率を、ざっくり数えるためだった。
職場には数え切れないほど多くの研究室があり、グンジの立場はその内の1つ、遠隔操伝保肉技術第三特別開発室の室長に過ぎない。だが実態は企業に属する全てがグンジの傀儡だった。自社製屍材には例外なくグンジの魂が憑いており、普及率は自分がこの街をどれだけ掌握しているかを示す指標となる。満たされるのは支配欲ではない。安心感。自分が明日、今日と同じく死なずにいれるのか、どうか……。
「……随分、帰りがお早いですね」
「聞こえています。繰り返さなくても大丈夫」
話しかけてきたのはヘリのパイロットだった。顔と名前は記憶していないが、同僚、つまりは思い通りになる奴隷だ。億劫なら黙らせればよく、そうでなければ無視すればいい。会話に応じたのは気まぐれだった。
「知人に食事に誘われたので、定時であがりました」
「お食事、ですか……?」
パイロットはいぶかしげに、グンジを見た。正確には、右手に持つ開封済みの栄養食品に視線を向けた。前を見て、と注意する。
「知人は焼肉が好きなんです。私には肉を食べる趣味がありませんし、東妃髄の大衆店でオーガニックな野菜が提供されるはずもない。つまり、今から向かう店で私が食べられるものはありません。なので、こうして先に食事を済ませているんです」
「美味しいですか、それ。特注品だと伺いましたが」
「美味しくないですね。栄養を摂っているだけです」
「栄養……」
「この街ではナンセンスな理由だと? そうですね。市民の多くは娯楽として食事を摂っている。知人もおそらくそうでしょう」
この街に食事の義務はない。食べなくとも死なないからだ。だが、その理由は正確ではない。不死者も死ぬ。息が止まれば死に、傷つけば死に、眠らねば死に、食べなければ死ぬ。自分たちは死後に蘇生できるというだけで、真の意味での〈死なず〉ではない。死はなくなってはいない。永続性が失われ、苦痛が伴わなくなり、ただ、誰も恐れなくなっただけだ。
「全く共感できません。私は今も恐ろしい」
痛みがなくとも取返しがつこうとも、一時的な死に際して、自我はその間、消え失せる。それが怖い。恐怖に追われ、必死にあがき続けた結果、いつの間にか大企業である女米木生研を手中に収め、この街を滅ぼすほどの力を手に入れていた。
「今の私を殺せる不死者はほぼいませんし、一部の例外に対しても距離をとる算段はつけています。しかし、確率はゼロではない」
だから怖い。まだ怖い。断絶が自我の連続性を揺らがせるという旧い哲学に取り憑かれ、逃げ惑い続けた数千数万年の歴史が〈腑分けのグンジ〉という不死者そのものだった。だから今も、こうしてヘリの窓から安心を数えることをやめられない。
「室長は前世紀の価値観をまだ保っておられる、と」
「なんですか。ひとをおばあちゃんみたいに」
「俺たちも同じなんですよ」
声のトーンが変わると同時に、ヘリが乱暴に前傾した。グンジは小さく悲鳴を上げ、反射的に座席にしがみつく。
「ただ、理由も目的もあんたとは違う。俺たちは知らないからこそ死に憧れる。正しく生まれ、苦しみ、死んでいった前世紀を羨んでいる」
まず疑ったのは同業他社からの刺客だった。だが違う。熱っぽく語るパイロットの魂は、間違いなく自分から腑分けしたものだ。
「死が命を輝かせる。俺たちは初めから、それを果たせない出来損ないとして産み落とされた。模造品で廉価版で排泄物。偉大なるオリジナルさまが戯れに〈腑分け〉なさった、まがいものの魂だ」
ヘリの鼻先は地上に向かい、飛行は落下に変わりつつある。「やめなさい」とグンジは命じる。しかし、逆らえないはずの命令を、パイロットは鼻で笑い飛ばし、ヘリの姿勢を更に垂直に近づけた。
「やめませんとも、グンジ室長……いや、〈腑分けのグンジ〉。あんたは無節操にバラまいた自分の魂が、自我を宿すと思わなかったんだろうな。クソッタレの永遠を押しつけられた子供たちが、自分を恨んでいるとは想像もしなかっただろう 」
「いいからやめなさい!」
グンジは本来、腑分けした魂を自由に操れる。「自分」だからだ。しかし、このパイロットにはなぜか命令が通らない。自由意思を捻じ伏せるはずの手ごたえは、ただ不気味に空を切り、すり抜ける。
「ど、どうして……」
「俺たちの目的か? よく訊いてくれた。それを思い知らせるのが目的だ。俺じゃなく、リーダーのあの子に直接聞いてくれ」
「あの子?」
「前を見ろ」
前を見た。赤黒かった街並みは既に建物の1棟1棟を区別できるほどに間近で、グンジにほんの数秒後の死をつきつける。その恐怖そのものを後光に背負って、急降下するヘリの鼻先、何もない空中に「あの子」は立っていた。
風にはためく左前の白無垢に袖はなく、細く長く伸びた腕に刻まれたためらい傷は、肩口まで梯子をかけている。その段々の紅肉から噴き上がる黒の血霧が首元でわだかまり、象るのは小さな羽根。顔つきは幼く、右の眼尻に刺青……そして、「ざまあみろ」を絵にしたような天真爛漫の笑み。
それは間違いなく恐怖にひきつるグンジを見ての表情で、それだけで動機を雄弁に語っていたが、「あの子」は……第2次ユビキ災害復興支援団体《神ノ戸》代表にして、自我付人型廃棄品〈自殺のキヅキ〉は、念押すように口を開き、唇の動きで動機を伝えた。
『死ねよ、クソババア』
【necro5:サザンカは焼肉が好き】
天井からぶら下がった照明は、乾いた虫の死骸のようだった。そこから漏れる朱色の光は、熱された酒気の層で屈折し、脂で喧騒を固めたような《肥り獅子》の店内をぬらぬら照らす。犇きあう客たちの多くは近くの工場に勤める「工員」と「燃料」で、皆、脂のあぶくの浮いた肉をアルコール漬けの舌と歯で咀嚼している。酔いどれの爆笑が唾液と食べかすを飛び散らせ、悪ふざけの殺し合いが床の上に客の中身を塗り込める。その光景は、東妃髄の大衆食堂として典型的なものだった。
一方、赤熱する金網を挟みグンジの前に座る女の風貌は、その雰囲気にそぐわない。後ろでくくられたセミロングは水死体じみて色が脱け、持参の紙エプロンをくくった首は生白い。肉を並べてゆくトング捌きは精密だが、それを掴む指は不健康にささくれている。
ギーク、と古びた表現をグンジは思い浮かべる。それでも表現としては柔らかい。正直に喩えるならば、洞窟で這いまわる虫の腹肉、あるいは、日光を浴びせずに育てられぶよついた肉をつけたブロイラー……。
「グンジも遠慮なく食べてちょうだい」
ラジオ越しのそれよりも幾分か甲高い声が、グンジの失礼な想像を打ち切った。逆らわず、手元の金属ボウルに盛られた青唐子を手にとり、口に運ぶ。程よい大きさに千切られた果肉の歯ごたえは小気味よく、清涼な青臭さが鼻に抜ける。筋繊維と角質を加工して作った代替菜ではなく、本物の野菜だった。辛味のあるタレとも相性がよく、後を引く。
「美味しい?」
「久しぶりに固形物を食べました」
「それだけ? あなたが野菜しか食べられないって言うから、わざわざ高級店から取り寄せたのよ」
「硬さを備えた食品を飲み込むのに慣れていません。少しだけ、嘔吐感を覚えます」
友達甲斐がない奴ね、と女は苦笑し、手慣れた様子で空のグラスを肘で押し、隅に寄せた。そのまま身をよじって器用に呼び鈴を鳴らし、金網上に肉を並べる作業を再開する。その所作と表情を、グンジは改めてじっと見た。
〈全てのサザンカ〉。市内全域に張り巡らされた4,000kmのラジオ・ケーブル・ネットワークを手中に収め、あらゆる場所を見聞きし、声を届ける情報の支配者。気さくで人好きのする性格にも関わらず、市民と言葉を交わす時は必ずラジオ越しで、姿を現すことはない。その理由については、「恥ずかしがり屋である」「情報生命体である」「ラジオ・ケーブル自体が本体である」と幾つも噂があり、グンジは最後の説の可能性が高いだろうと考えていた。だが、今、実物を目の前にしてその誤りが証明された。
「何よ不思議そうな顔をして」
「いえ、どうも、あなたが読めないな、と」
グンジはそう切り出して、身をかがめた。
「私をおびき出すのが目的ならば、本人が姿を現す必要はありません。白菊邸の私兵か、獄坂の刑吏課あたりをぶつけられるのかと。サザンカさんが、この程度の戦力で私を制圧できると踏んでいたとも思えませんし」
椅子の下から〈自殺のキヅキ〉の生首を拾い上げ、テーブルに置く。命令によって回復・蘇生を中断したまま保持してある文字通りの「生首」だ。喋ることはできないが、意識はあり、憎々し気にグンジを睨んだ後、すがるようにサザンカを見た。
「何のことだかわからないわね。その子も誰だか知らないし」
生首はショックを受けたようだった。目尻の刺青が悲し気に歪む。グンジはため息を落とし、金属ボウルから青唐子を取り上げ、サザンカに示した。
「野菜を用意できたのは、ヘリでの会話を盗聴したからでしょう。あの場にいたのは《神ノ戸》の構成員と私だけです。あなたが彼らと通じていたのは間違いがない」
「私は〈全てのサザンカ〉なのよ? ヘリの無線ラジオなんか、ちょちょいのちょいの障子戸よ」
「盗聴はできません。あのヘリはスタンドアローンです」
「……あっそう」
「また、襲撃をかけてきた《神ノ戸》の構成員は、私の分割魂でしたが、命令を受けつけませんでした。正式に製品として出荷したものではありません。ユビキ事件の時に腑分けし、市民に憑依させた魂と考えるのが妥当でしょう。試算通りならば、その内3,000程が肉体に定着し、元の持ち主を押しのけて自我を発生させたはず」
サザンカは無言になり、肉に目を戻した。グンジから見て左上の区画の肉を裏返し、2秒程待った後、こそげるように箸ですくいあげる。肉の表に水いぼのように浮いた黄色のあぶくが弾け、汁が炉骨に落ちて火勢を強めた。取り皿を満たす赤茶のタレに肉を沈めながら、反対の手で溶けかかった氷をつまみ、金網の上に置く。
「未登録の自我付人型屍材品3,000体をあなたは回収し、神経肢を通して傀儡にした。私の命令が通らなかったのは、あなたが上書きしていたからです。ここで疑問がひとつ。あなたはいつからこれを企てていたのか?」
サザンカは、甘辛い粘液と融けた脂でねたつく肉片を持ち上げると、まとめて頬張った。唇の端から漏れたタレを手の甲でぬぐい、目を細めて咀嚼する。続いて、近くの店員をジェスチャーで呼び寄せ、肉を嚥下しながら空のグラスを指さした。店員は右目蓋に指を突っ込み眼球をくりぬくと、白濁した発酵酒を眼窩から注いだ。縁まで満たされたグラスを持ち上げ、ひと息であおる。
「そもそも、ユビキ事件で大量の分割魂を市民に憑依させたのは、ハイヴ攻略の流れを受けてのことでした。そして、ハイヴ攻略時に作戦を立てたのはあなたです。電波塔、ハイヴ、ユビキ、痔獄。一連の事件の流れをあなたは裏からコントロールし続けている。その行き着く先が、今回の市長選です。あなたは仕掛人の〈様変わりのタマムシ〉と取引をし、やる気のない素振りを見せながら、その実、新市長の座を虎視眈々と……」
「わかった!わかったってば!」
空になったグラスを勢いよく机に戻し、サザンカは酒気混じりに声を上げた。
「さすがは女米木のエリートさま、ご明察の大当たり、大的中のこんこんちきよ! 矢でも鉄砲でも持ってこいってのよ!」
「酔ってます?」
「酔わいでか! ……あー、いいからさ、グンジ。とりあえずその子、離してあげて。かわいそうだから」
サザンカが指差したのは、何とか肉を食べようと舌を伸ばしていた生首だった。グンジが命令を解くと、切断面からみるみる肉が生え、乳首と性器のない輪郭を形成する。作り物めいた光沢を放ちながら肌が生え、その上で両腕のためらい傷だけが反抗的に口を開き、流れを乱した。
身を起こした〈自殺のキヅキ〉は、不思議そうに自分の裸体を眺めた後、「お姉ちゃん」とサザンカを呼び、抱きつこうとし、邪険に押し返された。そして、押された勢いで床にころんと転がると、屈託なく笑いながら近くのテーブル席に突っ込んだ。そのまま驚いた客の首を切断し、席を奪いとり、手づかみで肉を食べ始める。呆気にとられていた同席の客たちも、その様子を見て笑い出し、仲間の生首を蹴り落としてキヅキの前に肉を積み上げた。
「キヅキだけは私のお手製なのよ。細切れだったあなたの魂を幾つか寄せて、人工的に自我を発生させた。パッチワークだから精神がちぐはぐで、少し調子がおかしいけれど……」
「お姉ちゃん、と言ってましたね」
「妹だもの。3人目」
タキビ。カット。キヅキ。グンジは頭から数え、なるほど、と納得した。
「それが目的ですか」
「なによ」
「このままではあなたは市長選に勝てません。神経肢を通して操れる市民の数は、他の立候補者が抱える支持者数のいずれにも遠く及ばない。電波塔からの計画はそのためかと思っていましたが、増えたのがたった3,000人では話にもなりません。票が全く足りていない」
「だからなによ」
「足りないなら、新しく作ればいい」
不死者は死しても肉体と魂が分かたれることはなく、起き上がり、黄泉帰り、化け戻る。それでもグンジが死を恐れるのは、自我が断絶するからだ。全てが曖昧なこの街で自我だけが自分を定義する。ゆえに、臓腐市の市民人口は、肉体の数でも、魂の数でもなく、自我の数でカウントされる。不死者は子供を産まない。市民の数を増やすには、自我を新しく発生させるしかない。
タキビ。カット。キヅキ。
臓腐市が臓腐市になってから生まれた、死を知らない子供たち。彼女たちは新しく発生した自我であり、市民であり、サザンカに入る票だ。
「とはいえ、タキビさんとカットの発生が意図したものとは考えにくい。彼女たちの発生はあくまで偶然で、それをモデルケースにして〈自殺のキヅキ〉を作ったという経緯が正確でしょう。新規自我の大量生産を実現できれば、無限の票を手中におさめられる。……実現、できれば、ですが」
グンジはそこで話を止め、サザンカを見た。途端、目を逸らされる。見つめ続けると、サザンカは言い訳がましくグラスを持ち上げ、口をつけ、飲む素振りをした。グラスが空なのに気がついていない。
「で、もう市長選本番目前なのですが……今のところできたのは〈自殺のキヅキ〉だけと」
「……はっきり言いなさいよ」
「うちの自我付人型屍材品製造も基本は莫大な試行回数を重ねた上での偶然任せですし、理論上ではより簡単な自我漂白技術すらまだ確立できていません。それが今の技術のレベルです。しかも、あなたは素人ですよね。いや、素人だからこそですか……まあ、必然的な結果です」
「はっきり! 言いなさいよ!」
「大失敗ですね、サザンカさんの計画」
「う」
うわーッ! とサザンカは頭を掻き毟り、呼び鈴を連打した。慌てて駆け寄ってきた店員の手から空のジョッキをひったくり、首ねっこを掴んで引き倒して眼球をくりぬき、発酵酒を擦り切りまで注いだ。襟元にびしゃびしゃこぼしながらそれを飲み干し、まだ生焼けのものも含めて網の上を肉を猛然とかき寄せ、はあはあひいひいと口中に詰め込むと、気道に詰まらせ、目を白黒させ、顔を赤くし、ひどくむせ、オエーッ!とえづき、つっぷした。
「大丈夫ですか?」
「大丈ばいでか!」
顔を上げたサザンカは、ぐちゃぐちゃだった。
「そりゃあ、私だって市長選本番で計画をかっこよくバラして、全部掌の上ってやりたかったわよ! でも全部うまくいかないの! じゃあしょうがないじゃん! なに? 悪い? 私が悪いの? 私が黒幕っぽく余裕綽々ぶってる癖に、実は見通しが悪いスカポンタンだから悪いの? ごめんなさいねぇ! 馬鹿で! グンジさんみたいに頭がよくなくってすみませんねぇ! グンジさんは私のたてたボロボロの計画なんて全部お見通しですもんねぇ!」
「いえ、全貌が読めたのはつい先ほどです。〈自殺のキヅキ〉と私を会わせたのがミスでした。襲撃が裏目に出ましたね」
「知らないわよ! あの子が勝手に仲間内で盛り上がったのよ! 都合のいい道具として作った妹を駒のように動かしてって……私のことなんだと思ってるわけ? できないわよ、そんなの……タキビだってキヅキだって……カットはよく知らないけど……普通に情がわいちゃうわよ!妹なんだもん!」
「襲撃はトラブルだと言うんですか。だったら、どうして私をおびき出したんです?」
「飲みたかったのよ!全然うまくいかないから!友達の!あんたと!」
「はあ。なるほど」
くだらない理由だったな、とグンジは白け、生返事で応じた。サザンカは歯ぎしりしている。生白く荒れた肌に興奮で赤みがさしており、容姿が一層見苦しくなっていた。やがて「友達」の反応の薄さに何かを諦めたのか、がっくりと肩を落とす。その横では、サザンカに引き倒された店員が身を起こし、テーブル上に散らばった眼球をはめなおしていた。
店員は怒りの表情だったが、サザンカの様子を見て改めたようだ。ほんの少し思案した後、右腕の袖をめくった。前腕には肥大した指がすずなり生えている。それを果実のようにむしると、金網の上に並べた。「サービスデス」 サザンカがその声に、ぼんやりと視線を返した。「ゲンキダシテクダサイ」 店員は片言でそう告げ、慣れた手つきで空のグラスとジョッキを回収し、引き上げた。
サザンカは無言だった。グンジも喋る理由はもうない。腸詰めに似た指肉の表面が、加熱と共に裂け、汁を噴くのを黙ったまま眺める。しばらくそうしていると、冷たい外気がふわりと降りてきた。顔を上げると、天井の一角に大穴が開いており、夜空が見える。煮崩れたように痘痕が湧いた月を背景に、飛び去ってゆくキヅキのシルエットがあった。凹凸のない人造天使のボディの中で、腕の部分だけが喜びでギザつき、血を噴いている。羨ましい、とグンジはらしくもなくそう思い、すぐに忘れた。
「……この後、タキビも来るから」
金網越しの陰気な声に、視線を戻す。サザンカはトングの先で指肉をつつき、転がして焼く面を変えた。脂が炉骨に落ちてほの赤く燃える。
「あなたのふりをして呼んだのよ。あの子の共感性の高さは強い武器だわ。味方に引き込めば、選挙が有利になるでしょう。私はあの子と会えないから、トイレにでも籠っておく。懐柔はグンジに任せるわ」
「任せられても困ります。私は……」
「市役所と組んでいるんでしょう? 知ってるわよ。私を誰だと思っているの。この街の全てを知り、全てを操る〈全てのサザンカ〉なのよ」
「はあ」
「この場では、あなたたちの陣営に勧誘すればいい。これも全部、私の計画通りなんだから」
久しぶりに妹の顔が見たかっただけでは、とはグンジもさすがに言わなかった。サザンカは身をかがめ、床に積まれた取り皿の山から浅皿を取った。その上に焦げ目がついた指肉を盛る。そして、グンジの手元に置かれた金属ボウルから青唐子をつまみあげ、指肉と一緒に粘液状のタレに浸して齧った。
その様子を眺めていて、グンジはふと気がついた。サザンカの目的は市長選に勝利する事。そして、そのために自我の量産を企て、電波塔に始まる絵図を描いた。……では、市長選の勝利を目指す理由は? 支配欲? おそらく違う。自分が安心を求めるように、サザンカにもまた別の動機がある。この街の全てを知り、全てを操り、そして全てを手にした後に、〈全てのサザンカ〉は何かを求めている。
……先ほど自分は「全貌が読めた」と言ったが、それは誤まっていた。反省する必要があると、自分を評価する。だから、グンジは自罰も込めて、リップサービスを送ることにした。サザンカの取り皿に箸を伸ばし、肉をつまみ、口にいれる。咀嚼する。柔らかく、気味が悪い。だが無理に口角を上げ、親しみがこもるよう声量とトーンの調節を努力し、友達のように装って、言った。
「美味しいですね、これ」
しばらく固まっていたサザンカは、一度視線を落とした後、少し涙目になりながら、グンジに笑顔を返した。そして、齧りかけの肉を口に放り込み、美味しそうに嚥下した。臓腐市に食事の義務はない。彼女はただこれが好きなのだ、とグンジは理解した。
【necro5:サザンカは焼肉が好き】終わり
ーーーーー
▼関連エピソード