FOOL という名のBAR
第6夜 Worrisome Heart(夜と朝の間で)
#創作大賞2023 #恋愛小説部門
「朝夢と言うハンネの女は、私の理想の女…なの。朝、起きる前の刹那に見る夢。覚えていられるか…忘れてしまうか…どちらになるか分からないスレスレの刹那な夢、それが私」
と言って朝夢はコロナビールにライムを搾り口にした。
♪ Worrisome Heart(夜と朝の間で)
マリアのピアノは、その瞬間を映す。
朝夢は常連客の恋次郎が初めて連れて来た女性だった。
恋次郎はいつものバーボン・ソーダを喉に放り込んだ。
「ふうん、あたしとしたことが、朝夢ちゃんのことだけは読めないよ、不思議な女性だね」
「ママ、嬉しいわ、普通のおばさんだと思われなくてよかった」
「朝夢は僕に、一年一度だけ海を用意してくれるんだ」
「海かい、いいね。ここらは海のない街だからね」
「私はずっと横浜で生活しているから、海はいつも傍にあるの」
「僕は、静かな浜辺で白波をボ〜として視ているのが好きなんだ」
「だから、恋次郎のように海を視たいと思ってサンダル引っかけて外に出ても海が視れない人のことをあまり考えたことがなかったわ」
「年に一度だけ会うなんてロマンチックだね」
とあたしが微笑むと
「恋次郎が紳士だから、成立する関係なんです」
と朝夢が答えた。
「ちょい悪遊び人風の恋次郎を紳士だという女性はこれで何人目だろう」
恋次郎は肩を竦めて見せた。
「ママ、一年という時間は短いかしら?」
「気がつけば、あっという間に過ぎていた時間…」
と朝夢の問いにあたしは答えた。
「一年に一度しか会わないと色々な変化が見えるものだね」
と恋次郎は答えてグラスを振る。
「そういうこと、私達は常に変化してる。でも生きて行くことが忙しくて認識していないのね」
「なるほどね…朝夢ちゃんだったね?面白いことを言う」とあたしは感心した。「そんな二人がどうやって出会ったんだい?」
「出会いはもう、遠い昔だね、あのサイトはもう閉鎖されてしまったし」
「そうね、好きな音楽をテーマにしてレビューを上げたりして皆に共感を求めたり、仲の良い人達だけ入れるルームを作ったりして、日記を書いてアップして」
「私達、サイトで出会って一年間はサイトの中だけでお話するだけだったね」
朝夢が恋次郎に視線を向けた。
「僕は、朝夢の日記を読むのが楽しみだったなぁ…」
「何が惹き付けたんだい?」
「小さな発見…何気ない生活の中で、朝夢の日記に書かれている小さな発見が見逃していたモノ…時間の流れを教えてくれたと思った」
「そんな風に見てくれているんだろうって感じていたよ、恋次郎は。1年たって、私がサイトを抜けるって言うと恋次郎は急に慌てたね」
「サイトの中で、はぐれたらもう、繋がらない…朝夢が幻になってしまうから」
「ふ〜ん、サイトって儚いのだね」
あたしは腕を組ながら頷く。
「だから、私達は暗号を交わしながらサイトの監視をかいくぐり、メアドの交換に成功」
「初めてのメールが届いた時、朝夢がとても近くに感じたなぁ…」
「そうね、メールだけでも違うものね」
「僕は、朝夢を失うと思った時、うろたえたよ」
「大げさね…でも、そう、あの時は必死に私を引き留めようとしていたね。でも私はあの時、恋次郎と触れ合うのにあのサイトはもう必要ないと感じたの、かえってもどかしいと」
「そして…初めてのメールが届いた時、朝夢は、これで繋がったと言った」
♪ Worrisome Heart(夜と朝の間で)
不思議な関係を築いた二人だと思った。そんなことを考えていると朝夢はあたしの心を見透かしたように微笑んだ。
「友達以上、恋人未満」
「えっ?」
恋次郎がキョトンとした顔を朝夢に向けた。
「ママが私達の関係を詮索していたから」
あたしは苦笑するしかなかった。まるで朝夢はあたしの分身で実在しない存在ではないのかと感じてしまった。
「心がね、重なった。恋次郎とサイトで知り合った時に、心が重なることが分かったの。友達では分かり合えない男と女だから共感出来た想いがあったと思う。だからといって身を焦がすような恋じゃない」
「愛を失くして、僕らは彷徨っていた」
「夜と朝の間、暁の手前の境界線で立ち止まっていたのね、私達。夜に戻るか、朝陽を視るか」
「そうか、境界線にいたのか、僕らは」
「そう、そんな時に恋次郎がくれたものが二つ」
朝夢がコロナビールを飲み干した。
「ねぇ、恋次郎、今日の海はどうだった?」
「あぁ、過ぎて逝く時間を緩やかにしてくれるような海だったよ。ママ、SAUDADE(サウダージ)を二つ」
SAUDADEはあたしのオリジナル・カクテルだ。あたしはカウンターにカサーシャ51、ライムジュース、グラナデンシロップを並べた。それぞれの材料を二人分、氷ごとジューサーでミキシングした。
オールド・ファッションド・グラスに注いだかき氷のカクテルには小さなスプーンを添えた。
「わあ、綺麗な赤色。まるで夕陽のようね」
「愛が消えて逝くのを朝夢は夕陽に喩えたことがあった」
「失くしたモノを想うような感覚…それをブラジル語でSAUDADEというと恋次郎が教えてくれたの、そして、このカクテルを私に捧げると言った。私がもらった二つのもの、それがSAUDADEという言葉と、このカクテル」
朝夢がグラスを傾ける。
「あぁ…何か懐かしい味…失くしたモノを想うSAUDADE」
[img:grrdf66wev]
♪ Chega de Saudade
曲が変わった。ジョアン・ジルベルトの代表作のボサ・ノヴァをマリアはJAZZ風にアレンジしていた。
ブラジルのピンガと呼ばれる国民酒のカサーシャ51はラム酒と同じサトウキビから作る。
サトウキビの搾り汁を加水しないで蒸留するから蒸留しきれず雑味が残るらしい。よくは分からないが透明になりきれない酒。
「透明になりきれないお酒…若かった頃には戻れない大人になってしまった私達にはぴったり。これを教えてくれた恋次郎に私は逢いたいと想ったの」
「どうだい、これがママのオリジナルだよ。僕が海を見せてくれたお礼にと作って渡したまがい物ではないSAUDADEさ」
「同じよ、あなたが作ってくれた想いが詰まったSAUDADEと」
恋次郎がホッとしたように優しく笑った。
♪ Chega de Saudade
「初めて会った時、朝夢はまだ既婚者だった。『家族の了解をちゃんともらって来たのよ』って笑っていたね」
「ちょうど、家と家との間、真ん中辺のお互いに何も知らない街…で待ち合わせしたわね」
「考えてみたら凄いよね、顔も知らない同志で、知らない街で逢うなんて」
「どちらも平等だから良かったんだと思う」
「僕は、怖いから三〇分くらい早く行って回りをチェックしていたのに朝夢はもっと早く来ていたね」
「一応、か弱い女…ですから、年がいっていてもね。初めて会った時、あなたは私のイメージ通りの紳士だったわ」
SAUDADEの氷を美味しそうに口に含みながら朝夢は笑う。
「僕は、紳士かい?」
と、恋次郎があたしに顔を向ける。
「さぁ、あたしはここでのあんたしか知らないからね…ここでは紳士さ」
「言葉は正直なものよ、あなたの言葉の節々や行間にある想い…が私にはちゃんと見えた…」
「言葉は嘘をつく…」
「そうね、言語だけ見ればね…でも想いは嘘をつけない、それが見えるのが朝夢…それが表現出来るのが朝夢…それが私の理想の姿のはずだった…」
朝夢はSAUDADEに想いを探すような遠い目をした。
♪ Chega de Saudade
「一年たって、二度目に逢った時、朝夢は離婚したばかりだったね…」
「下の娘が高校を卒業したら別れると決めていたから」
「それをホントに実行した、サイトで知り合った他の男と結婚すると言って」
「でも当てが外れてしまったわ」
「ママ、断っておくけど結婚すると言ったのは決して僕ではないからね」
「そうなのかい?」
分かっていた。恋次郎は出来ない約束をする男ではない。あたしはその時、何かを感じた。マリアも同じだったのだろう。迷う様に曲が変わった。
♪ Worrisome Heart(夜と朝の間で)
「サイトで恋次郎よりも前に知り合った人がいたの。心で会話が出来る恋次郎とは違った脆(もろ)さを持った人。私を必要としていた。幻想の中でしか生きられない人」
「サイトの中では、吟遊詩人のようなクールさを持って人気があったね」
「私はそれがホントの姿ではないことに気がついた。支えないといけないと思った。それに離婚して生活するのに、おばさんの私一人では心細いというのも本音にはあったわ」
朝夢は悪戯っぽく笑ってみせた。
「僕は君が幸せになれるなら」
「ホッとしたのかい?恋次郎は」
あたしの言葉に恋次郎は目を伏せた。
「彼は、リアルな私を受け留められなかったわ。幻想の中でしか男でいられない人だった。私は彼と夜明けの浜辺を歩きたいと思っていたのに。たったそれだけの夢も見ることが出来なかった」
♪ Worrisome Heart(夜と朝の間で)
「彼と再婚出来ない朝夢に恋次郎は生活の援助をすると言ったのだろう?」
「ママは全てお見通しだね、なぜ分かるんだい?」
「色んな愚か者を視(み)てきたからね」
「女は母親になる生物よ、強いのよ、だから何とか生きられると私は言ったわ。生きるのにどうしようもない状態になったらその時は助けてと恋次郎にはお願いした」
「それから二度の夏かな?海を見せてもらった」
「朝夢が用意してくれた海を視て癒される恋次郎の横顔、それを視て朝夢は満足する、そんな風に時を過ごして来たんだね?二人は。恋次郎の心の渇きを癒すのに朝夢は必要な人だったんだね」
「ママ、私は恋次郎に必要とされなければ生きることを見失っていたかも知れない」
「そうだね、お前達は午前4時の境界線で動けないでいたんだね」
「夜と朝の間の境界線、夜に戻るか、朝陽を視るかの刹那な瞬間か・・・」
二人は溶けかかっていたSAUDADEを飲み干した。
♪ Worrisome Heart(夜と朝の間で)
「また一年たった、時間は流れていてまた変化する」
と言って、朝夢が身支度を始めた。
「そうだね、朝夢はまた変化があったのかな?」
「ママは全てお見通しね、実は私、、春に結婚したの」
「えっ!?」
恋次郎は思わず声を上げた。
「幻想の人ではないわ。現実(リアル)に生きている人、驚いた?ショック?」
言葉を探している恋次郎を視てあたしはさっき感じた何かが見えた気がした。
「ホッとしたよ」
「恋次郎なら、そう言って喜んでくれると思ったわ。だけど、私達は今でも同じ。また、来年、あなたに海を用意するわ。実は素敵な入り江を見つけたの」
「そうか、来年の楽しみにとっておこう。帰らなきゃ、君を待っている人がいるのだから」
「大丈夫、一人で帰れるわ。大人なんだから」
「朝夢、朝に見る夢から、浅き夢見しの浅夢に名前を変えたらどうだい?」
「あさきゆめみじ ゑひもせず (浅き夢見じ酔ひもせず)もう浅はかな夢など見るまい、もう酔ったりもしない、の浅夢かぁ、素敵な名前。ありがとう、恋次郎」
♪ Worrisome Heart(夜と朝の間で)
五つのカウンター席には恋次郎が一人、バーボン・ソーダを飲んでいた。
「お前はまだ、夜と朝の境界線の上にいる」
「そうだね。僕だけ動けないでいるみたいだ」
「お前が触れた女達が、お前を紳士だというのは」
「夜にもなれず、朝にもなれない境界線の上にいるからさ。善と悪の間か?北上したi(アイ)を追い駆けず、エムには過去から引っ張り上げるだけ。浅夢との距離も縮めようともしなかった、それが、僕が紳士と呼ばれる所以」
「勇気と無謀は違う」
「暁の手前にある境界線、真夜中に吹く風を求めることが正しいのか、朝焼けの陽射しの温もりを求めることが正しいのか?」
「それは誰にも決められない、それが恋次郎の優しさなんだと思うよ」
あたしがさっき何かが見えたと言ったのは、朝と夜の境界線に立つ恋次郎の背中だった。
♪ Worrisome Heart(夜と朝の間で)
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