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文豪ストレイドッグスをポストモダンの視点から再解釈する

※この記事は文豪ストレイドッグスの考察です。

突如として湧いたポストモダンへの関心。
きっかけはヤングエース本誌2024年9月号を読んだ海外の読者がXに投稿した或るポストだ。
文豪ストレイドッグスのいたるところにポストモダンとの関連性が見られるという考察文が展開され、海外勢を中心に4000いいね以上を集めるほど注目された。

ヤングエース2024年9月号(117話)のネタバレがあるため閲覧の際はご注意を。
Literary Postmodernism and BSD's worldbuilding


そこで思ったのだ。文豪ストレイドッグスは確かにポストモダン的だと。そして原作者のカフカ先生がかつてポストモダンに関する書籍について言及していたことも発見した。

なにやら東浩紀の書籍を人に勧めまくっている。勧めるどころかどうやら創作にも取り入れているようなのだ。
だとすれば、私としてもこれらの書籍を読み、ポストモダンの切り口から文豪ストレイドッグスを再解釈することに挑まねばならぬ。

このような経緯からポッと湧いて出たような考察を書くことになったのだが、ポストモダンの考察を通じて浮かび上がってきたのは意外にも、文豪ストレイドッグスの「二次創作に対するスタンス」であった。

ここからは、東浩紀の著作「動物化するポストモダン」「ゲーム的リアリズムの誕生」を一部要約して紹介しつつ、文豪ストレイドッグスとの関連性について探っていきたいと思う。

■ポストモダンとは

ポストモダンは「ポスト=~の後」「モダン=近代」であり、「近代の後の時代」を指す言葉だ。近代から脱却することを目標に、20世紀中葉から後半にかけて、哲学・芸術・建築・評論などの分野で流行した広範な思想運動(Wikipediaより引用)であるが、ここではわかりやすいようにポストモダンとは「大きな物語が終焉した時代」だと理解しておいてほしい。

「大きな物語」とは人類が共通して信仰している価値観や理念のことで、近代までは人々が同じような目標に向かって歩みを進めてきた。近代より前の時代から西洋ではキリスト教的価値観が支配的であったし、近代においては理性と学問を通じて理想的な社会に到達しようとする理念が信仰されてきたが、こういった「大きな物語」の絶対性が疑われ始めたのがポストモダンである。

ポストモダンでは「大きな物語」が存在しなくなった代わりに無数の「小さな物語」が生まれた。小さな物語は人の数だけ存在し、全員にとっての普遍的正解がない。ポストモダンでは多種多様な価値観が共存できるようになり、人々との違いの中にこそ自分という存在を見つけられるようになった。

■物語消費のポストモダン化

このようなポストモダンという時代の大きな流れとともに起こったのが、オタク界隈における物語消費行動の「ポストモダン化」である。
この傾向が如実に現れているのが「二次創作の増加」という現象だ。

従来、物語というのは原作の中にのみあった。
しかしポストモダンにおいて、物語は原作の中に限定されるものではなく、原作をデータベースとして利用した二次創作という形で無限に増殖するものとなった。つまり、原作という「大きな物語」の絶対性が損なわれ、無数の「小さな物語」が生まれるようになったということである。

物語として提供された原作はたちまち分解され、キャラの特性や世界観の設定などの各種要素がデータベースとして抽出される。それらの抽出された要素をもとに新たな物語を再構築して、誰もが好きなように二次創作を作って発信できる。これがポストモダンのオタクたちの消費行動の目立った特徴であり、このような物語の消費の仕方を「データベース消費」と呼ぶ。
文ストも二次創作が活発なジャンルであり、こういった特徴は実感が湧きやすいのではないだろうか。

データベース消費を支えているもう一つの要素が「キャラ立ち」だ。アニメや漫画、ラノベといったコンテンツの中核にあるのは「キャラクター」であり、この点が他の一般的な文芸作品との最も顕著な違いとなっている。
例えば、『人間失格』に登場する主人公の大庭葉蔵は「キャラクター」として立ってはいない。彼は文豪自身の分身であり、太宰治本人が描いた葉蔵以外の葉蔵はおおよそ葉蔵とは言い難い存在となるだろう。
しかし文豪ストレイドッグスの太宰はキャラクターとして立ち、キャラクターとして消費される。
キャラクターは原作の物語の中に縛られていない。太宰として記号的に認識されれば、どんな物語であっても成立する。つまりキャラクターは原作から独立しており、自律的な存在として物語を超越して立つことができるということだ。
太宰というキャラが原作の中だけでなく、アンソロの中にも二次創作の中にも同じように存在できるのはひとえに、キャラクターが物語から離れても存在し続けられるという特性を本質的に持っているからである。
物語を超越してしまう特性があることによって、物語がキャラを創造するのではなく、キャラクター自身から無限の物語が想像されていくこととなり、キャラクターはそれ自身がメタ物語的な想像力を獲得することとなる。

■文ストの中のポストモダン

このことは、文ストの世界で我々が目撃している「白紙の文学書」の存在や「キャラクター自身によって文スト世界の物語が書き換えられていく」という謎めいた現象を説明する鍵となっているのではないだろうか。

白紙の文学書は、外側に唯一の物理現実となる本編世界(大きな物語)が存在する一方で、本の中に無限の数だけある可能性世界(無限個の小さな物語)を内蔵している。それらの世界は同じ強度を持ち、入れ替えが可能だ。この構造はデータベース消費における原作と原作のシミュラークル(二次創作)の関係性と共通している。

無数の可能性世界には作者が存在せず、物語はひとりでに生み出される。可能世界を生み出す原動力はもはや神のような存在ではなく、キャラクターが立つことによってキャラクター自身が獲得するメタ物語的な想像力であり、可能世界はキャラの持つ可能性の集積によってほとんど自動的に発生するのだろう。それら可能性の束の中から何を現実として選択するかも文スト世界ではキャラクター自身の手に委ねられようとしている。

この仕組みは、キャラが立つことによって物語が作者の意図した大きな物語からひとりでに乖離していくことを表現しているともいえるだろう。
白紙の文学書によって物語は神の手から離れていき、そうして作家の神としての地位も、神によって語られる大きな物語も、キャラクター自身の力によって次第に消失していくのである。

文豪ストレイドッグスの中心に組み込まれた白紙の文学書という奇妙な装置は、ポストモダンを象徴する装置として君臨しているのだ。

■シミュラークルを否定する者

そもそも、文豪ストレイドッグスとは一体何なのか。
ポストモダンの話の流れに沿って言えば、文豪ストレイドッグスとは二次創作だということになる。史実の文豪と、彼らの創作物をデータベースとして用いた二次創作物だ。
異能力者とは、文豪の名前を借りた模倣品である。ポストモダン風のオシャレな言い方をすれば、彼らは文豪のシミュラークルなのだ。

そのことをドストエフスキーは「罪」だと考えている。

ドストエフスキーは、彼の神への信仰の態度からも見て取れるように「大きな物語」を象徴する人物だろう。オタク的な言い方をすれば、原作という神だけを崇拝しろ、その模倣品である二次創作は罪だから許すまじ、という立場に立っている人物である。
現にドストエフスキーは中世以前から存在していることが判明したが、「大きな物語」は近代まで形を変えながらも繰り返し繰り返し消失することなく受け継がれてきたものでもある。

彼は、シミュラークルである異能力者を消すことに躍起となり、「神」というひとりの存在にすべてを収束させようとする。失われた「大きな物語」への信仰を取り戻そうとする。

その試みは、近代の作家たちをある意味では神として「守る」ためのものでもあるのだろう。
近代まで、物語はデータベースとしてではなく、純粋なる物語として読者に消費されていた。その物語たちは、往々にして代替不可能な唯一無二の物語たちであった。
『カラマーゾフの兄弟』はドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』に書かれている内容が存在のすべてであって、読者はそこに書かれたひとつの大きな物語に代えがたき価値を感じ、救済を得ていたはずなのだ。

それが、近代が過ぎてポストモダンの流れが進むにつれて、大きな物語を人々が信仰しなくなり、代替品として安易なシミュラークルで目先の欲求を満たすようになってしまった。自分の趣味に合う物語、自分に都合のいい物語を模倣によってデータベースから即成し、手っ取り早く快感を得ることができるようになった。自ら作らずともネット上には自分を満たしてくれる気持ちのいい二次創作がごまんと転がっている。

データベース消費と化したポストモダンでは、物語的な意味への渇望は失われ、動物的な欲求の即時的な満足によって飢えが埋め合わせられていく。ポストモダンではオタクを中心に人々が「動物化」してしまったと東浩紀は言う。

■動物化する異能力者

このことは文豪ストレイドッグスとも無関係ではない。なぜなら、文豪ストレイドッグスには文字通り「動物化」するキャラクターがいるからだ。虎へ変身する中島敦と猫へ変身する夏目漱石である。
動物化の能力を持つ彼らは、近代の文豪でありながらポストモダンを生きる力を獲得した人物だといえるだろう。彼らは白紙の文学書とも非常に繋がりが深そうなのだが、白紙の文学書とはそもそもポストモダン的な力を持つ装置であったことを思い出して欲しい。

中島敦に関しては、動物化していることを表すもう一つの興味深い側面がある。
敦は死への恐怖が強い。逆の言い方をすれば、敦は生きたいと欲求する爆発的な力を抱えている。しかし敦が生きたいと思う理由は何なのだろうか。
「だって僕は生きたかった」と敦は言う。「いつだって少年は生きるために虎の爪を立てるんだ」と敦は言う。ところが、生きたいと思う「理由」はどうやらなさそうなのだ。

このことは端的に、敦が動物化していることを示しているのではないだろうか。
生きる意味を問う存在から、生きる意味を問う必要性のない存在へと変身してしまったのだ。動物となってしまえば、実存的な苦悩を抱えることはない。生きたいという欲求、あるいは死にたくないという欲求は、他者に爪を立てるようにして反射的に動物としての本能によって満たされていくこととなる。

■白紙の文学書が日本にある理由

ポストモダンの考え方に基づけば、なぜ白紙の文学書などというスゴくてヤバいツールが日本に封印されているのかという問いに多少答えることができるようになるのではないだろうか。

まず第一に、日本は世界の中でも二次創作の本丸ともいえる場所である。そしてデータベース消費というポストモダン的な物語消費傾向を生み出したのも日本のオタク文化であろう。となれば、日本がオタク発祥の地でデータベース消費発祥の地だからだ!というのがまずはわかりやすい理由として挙げられる。

第二に、日本人にはもともとポストモダン的な精神構造があったのではないかという点が挙げられる。その代表的なものが神道だ。
神道には唯一神が存在せず、その代わりに八百万の神がいて我々は色々なものに宿っている個々の神々を信仰してきた。この特徴は、大きな物語の不在と、小さな物語の氾濫というポストモダンの特徴とよく似ている。
そう考えれば、アニメ61話に登場した月夜に浮かぶ「神人」が神道的な特徴を宿していることは、その存在の中にポストモダンとしての象徴を抱えて込んでいることを表現しているとも捉えられる。

■白紙の文学書をめぐる戦いとは何なのか

白紙の文学書がポストモダンを象徴する装置であるなら、この装置への「道標」と呼ばれる敦は、先ほども言及したようにポストモダンに適応した人物だということになるだろう。
おそらく夏目も同じであり、夏目は織田に小説を手渡していることからわかるように、文スト世界の中にいるにも関わらず自身の名で書籍を発行しているようなのだ。神の支配から逃れて個人で二次創作をしているようなものだといえる。

反対に、大きな物語を望むドストエフスキーはポストモダンの力を持つ白紙の文学書を破壊しようとするかもしれない。その装置に適応している異能力者を生け捕りにし、シミュラークルである異能力者そのものを消そうとしていることから、ポストモダン的な動きそのものを否定しようとする狙いが透けて見える。
文豪ストレイドッグスに登場する文豪はほとんどが近代の文豪だ。ポストモダンという近代を否定する動きに飲み込まれることを恐れ、自らが築き上げてきた「大きな物語」への信仰が失われないよう、懸命に抗おうとしているような構図が想像できる。

しかし重要なことは、ポストモダンに適応したキャラクターが主人公サイドにいて、ポストモダンを否定しようとするキャラクターが敵サイドにいるということだ。
敵/味方の構図から察するに、文豪ストレイドッグスとはポストモダンを祝福する漫画なのではないだろうか。なにより彼らはストレイドッグスであり、「迷い犬」という動物化の過程にいる存在だ。
東浩紀が警鐘を鳴らした動物化は一見すると恐ろしい状態である。麻薬中毒者と大差ないとまで言われている。しかし、敦が白虎と折り合いをつけていく過程から見てわかるように、凶暴な動物と化するかどうかは本人次第でおそらく制御可能なのだ。あるいは居場所次第で制御可能になっていくものなのだ。

二次創作という巨大な欲望の渦は「ひとつの偉大な物語」という神話を打ち破って来た。その代わりに個性溢れる小さな物語をひとりひとりが自分の中に持っていることに気付くきっかけを与えてきた。神の絶対性が損なわれる代わりに、他者との違いの中に立ち上がってくる個性から自分らしさを見出せるようになったのだ。

今回、ポストモダンとの関連性についての考察を通じて、文豪ストレイドッグスという漫画から、ポストモダンのオタクたちへのエールと、みんなで楽しいシミュラークル生活を!という明るい声がうっすらと感じ取れたような気がしたのだが(大きな物語派の私がそう感じるのだから結構確度は高いと思われる)、この記事の読者にもそのことが多少なりとも伝わっていたら嬉しい。

ポストモダンという切り口を通じて新しい文ストの捉え方を示してみたのだが、いかがだっただろうか。個人的にはとても楽しい考察ライフをエンジョイできたので(出来栄えはともかく)満足している。
この流れから「BEASTをポストモダンから解釈してみる」「ポオの小説空間から繋がるメタ構造」などなど考察してみたい分野がまだあるのだが、もう少し練ってからまた出直そう。

いつもながら、長い記事にお付き合い頂き、ありがとうございました。

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