太宰の死生観とループ説(お題箱から)
※この記事は文豪ストレイドッグスの考察です。
※お題箱に頂いたお題への返信です。
頂いたお題はこちら:
初めまして!いつも、ものあしさんの考察を楽しみにしています🙇⤵︎
早速ですが、私が気になったことについて語らせていただきます。
ズバリ、dziがなぜ死にたがるのか。dziは死後の世界をどう捉えてるのかということです。
これは私の思想も少し混じってしまいますが、この世界を「夢」として捉えているとすればもし死ぬことが出来てもただ夢から覚めるだけで無限に悪夢を繰り返してしまうのではないか。そうなると死という1個の通過点は、無数にある夢のうちの1部で何も意味が無いのではないか。
dziはあくまで現実主義的思考ではあるので天国とか地獄とか、幽霊とか、そういったものは存在しないと考えているのではないかと思います(七夕の願い事でも死んだ人間は戻って来ないと言う位なので)
だからといって、死んだだけで全てが終わるという安直な思考でもないような気がして、、、
これも私の主観での結論ではありますがdziが死を求めているのは確かで、その死というものは一般の人が考える「肉体の死」ではなく「本当の死(二度と悪夢が繰り返されないよう自分自身の意識を完全に消し去ること)」ではないかと考えました。もしそうなると、死にたがりなのに「(本当の意味で)死ねないことを知ってしまっている苦しみ」を抱えて生きているdziを想像して私自身も苦しい思いです。これはどこかで見たdziループしている説という考察にも繋がってくるのかなと思います。
拙い文章で申し訳ございません🙇🏼♀️ものあしさんの中でのdziは死をどう捉えているのかという考察を読んでみたいと思い送らせて頂きました。似たようなお題を既にお答えしていた場合は無視してくださって問題ありません。どうか何卒よろしくお願いします。
お題を頂きありがとうございます!とても興味深くて考えさせられました。
太宰は「生きる意味なんてないのになぜわざわざ生きる?」という形而上学的な問いを突き詰めた結果、死を望むようになった感じがしますよね。意味がないのに生きるなんて無駄に苦しいだけだから、とっとと死んで解放されたい。
人は必ず死ぬのにそれでも死にたくないという願望をプリセットされて生まれる。だがその願望が叶うことは100%ない。生きたいと願う願望は必ず最後に宿命的に否定されることになっている。
ならば今すぐ死ぬことと、何十年もわざわざ待ってから死ぬこととの間に何かしらの違いはあるのか?この問答をあらゆるシミュレーションのもとで何千回と繰り返して、何千回と無意味さがもたらす虚無感に打たれ、何千回と同じ絶望に落っこちているのかなと思います。
酸化する夢のような世界という表現も、最後には退廃へと行きつくだけの幻想のような生の世界に対して、なにひとつ価値を見出せないのだということを伝えているような感じがします。人生がどうせ夢のようなものにすぎないのだとしたら、だらだらと夢を最後まで見続けるなんて下らないことをせずに、いっそ今この瞬間に目覚めてしまいたい、と。
そういう太宰にとって死とはやはり無に還るということであって、本人は死後の世界を断固として信じなさそうですよね。生きることが無意味であるためには、生が一時の幻想のように儚くて、死んだらなにもかもが消えてしまうのだという前提条件が必要なはずです。
しかし「死んだところですべてからは解放されない」という諦観を持っているというのはなんだか魅力的だなあと感じてしまいました。
お題主様はそのあたりをループと関連付けて考えていらっしゃいますが、私は可能世界を持ち出してみようかなと思っています。
たとえ本編の太宰が見事に死に至って万歳三唱をしていたとしても、可能世界の太宰までが死ぬわけではなさそうですよね。
本編で死んだところで可能世界には無数の太宰がまだ生き続けている世界がある。それを考えたら結構地獄ではありませんか?
本当の意味で死ぬためには、可能世界もろともすべて消さなければ太宰という存在の意識を抹消することはできないし、すべての苦しみからは解放されない。
もちろん本編の太宰が可能世界の存在をどこまで知っているのかは不明ですが、なんとなく勘づいているのだとしたら、お題主様の書いて下さった「(本当の意味で)死ねないことを知ってしまっている苦しみ」は太宰にとてもよく似合うなあと感じます。
さてさて、せっかくループの話を出してもらったので少し場所をお借りします。ここから先はお題主様へ向けて…というわけではなく、近ごろよく目にするループ説に関連して私が考えていることをお伝えしていきます。
ループ説大人気なのでよく目にするのですが、巷で流布している「太宰はループしている説」がどういう意味でのループなのか調べてもなかなか出てこないので、私は私なりに全体像から入って考えていこうと思います。
ループの基本は「世界そのもの」の時間遡行にありますよね。
以下の設定がループものの基本かなあと思います(もちろん例外もたくさんあるはず)。
・バッドエンドの度に基準点に戻る時間遡行
・ループする者には記憶の蓄積があるが他の人には記憶の蓄積がない
・ループから脱するための条件が設定されている
ループしている場合、基本的には作中でそのことが説明されたり、はっきりとは言及されてなくても多少の匂わせが描写されていることがほとんどではないでしょうか。55min.もれっきとしたループものですし、カフカ先生のギルドレもループの匂いがします。
しかし今のところ文スト本編の中に、世界がループしていることを示すような台詞や設定というのはないと思うんですよね。
「文スト世界そのものはループしている可能性が低い。しかし太宰だけはなんか記憶を持ったままループしてそう。」
これがみんなが受け取っている印象なのではないかなと思うのですが、この場合、太宰はどことどこの間をループしているのか、世界がループしないのに太宰だけがループするってどういうことなのか、という疑問にぶち当たります。
ここから大事な話。
ループものは「結末を変えるために何度も同じ時間を繰り返す」という部分に物語の中核があるはずです。
その観点を切り出せば「可能世界とは太宰のためだけに用意されたループの世界だ」ということになります。
太宰だけが記憶を維持したまますべての可能世界を同時多発的にループしているし、織田作の死を回避するという一つの条件に向かって何度も色んな可能性を試しているのはループもので描かれていることとほとんど同じ。
ただ可能世界は時間遡行の世界ではないので、ループは1周目→2周目→3周目…のように「n周目…」になっていないからわかりにくいだけで、ループものの変化球であるのは確かだと考えています。
となれば?実はみんな太宰のBEASTでの話を聞いて「太宰=ループ」という印象を感じ取ってこの説を作り上げているのかもしれない?
しかし「織田作が生きている世界を残す」という条件をクリアしたことによってループは終わったはずなんですよね。BEASTによって太宰はループから脱出できた。友のための自死という究極の決断をもってようやく。
ということで、可能世界の中で太宰は確かにループしていたけど、でもそれはやっぱり本の中の可能世界だけでの話であって本編とは無関係なのでは?という気もしています。
もしくはループというより「意識を保ったまま生まれ変わりを繰り返している」ということであればドスくんと同類になりますが、ドスくんはそれを異能により成し遂げているけど、太宰の場合は何によって成し遂げているの?という疑問が生まれますね。
本編でのループを考えようとすると行き詰る点も多いので、もし「説明できるよ!」って人いたらぜひWaveboxに投げてもらえると議論が捗って助かります!
ということで、とても興味深いお題を頂きおもしろかったです。
ありがとうございました!