【本誌114.5話】resurrectio 後篇 感想&考察
※この記事は文豪ストレイドッグスの考察です。
※ヤングエース2024年6月号のネタバレを含みます。
24.05.02感想
ど、どこから話せばいいのだろう今月の本誌…
いま私の心の中はまさしく戦場。血みどろの大決戦中。
■瞬間テレポート
どんなSF作家もこの手法による瞬間テレポートは想像したことなかったのではないだろうか…おそるべしカフカ先生…よくも…よくもこんな…残酷だが極めて合理的でそれでもなお人の意表を突くような意外性あふれるとんでもないテレポーテーションだった…ほんとすごい…
カフカ先生がどんどんパワーアップしてる。
しかしだな…私の心は泣いているんだ…
うううう…ブラム…どこにいってしまったのブラム…
ブラムの肉体は不死身のはず。誰かがあの忌まわしいドストエフスキーをもう一度殺して、そうして次の人への乗り移りが完了したら、残されたブラムの身体は…もう一度ブラムの姿形をして戻ってきますかあっっ。どうかそうだと言ってええっ!
それにしてもブラムは太宰の解説を聞いていないのに瞬時に「そういうことか」とすべてを察知したの頭良すぎてほんとかっこいい。ブラムは以前のドラキュラ城での経験があるから何が起こってるのかすぐにピンときたっていうのもきっとあるよね。
そしてドスくんがブラムの肉体を標的にしたのも、ある意味では600年前の復讐であって自分のことを殺そうとした相手を今度は自分が乗っ取って殺すというドスくんの粘着質なところが垣間見える展開だった。
ブラムはずっと福地に支配され利用され、ようやく解き放たれて文ちゃんの騎士となろうとした矢先に、再び自由を奪われ大切な人を守れない状況に立たされてしまってほんとに悲しい。私の中での本物の英雄はブラムなので、一刻もはやくあの得体のしれない不気味な生物をブラムの身体の中からこそげ取ってやりたい気分です。
しかしドラキュラとは「竜の子」なのでこの二人が合体するというのは運命といえば運命なのかも。
ブラちゃんの衣装に包まれるドスくんは悔しいがめちゃくちゃにかっこいいですね。なんかこれ、結構なメンバーが衣装チェンジするタイミングなのかな?やつがれも新衣装になるっぽいし、太宰さんもね、囚人服の次に着る衣装なにかまだ決まってないもんね。
遠方にいながらの以心伝心の連携プレーがアニメの最後では成功事例として賞賛されていた感じだけど、本誌では逆にそれがあだとなって盤面ひっくり返されていくの痛烈…あの一瞬の達成感はなんだったのだろう…幻だったのね…っていうこの感覚そういえばカフカ先生の十八番展開だからこれまでも色んなところで体感したの思い出したよ。何杯でもおかわりいけちゃう。
■三極の特異点
「すべては予定通りです」と言わんばかりにまわりがポカーンとしている間にバキューンとことをすすめていくドスくん全知全能すぎてやっぱ叶わない。DAのときも本来なら何が起こるか予測できないはずの異能×異能の特異点の作り方をひとりだけ熟知していたので、なにか特別なこと知ってるのよこの男。誰も知らない異能の掛け合わせを熟知してる魔術師みたいな、異能のアルケミストみたいな感じ。
神が宿る時空剣、異能と人体を融合させる聖十字剣、性能を百倍にする異能、これらが掛け合わさってできるものがアニメの2時間後に出てきた神人ということで。
福地の肉体が時空剣に宿った神と融合しているのでしょうかね。そしてそこに性能を百倍にする異能が加わることで、なにかまたスペシャルな能力が開花するという感じかな。
聖十字剣は、それを刺した人の手の甲に聖紋が刻まれて、剣を刺した人だけの指示に従うようになる、剣を刺した人が刺された側の異能を自由自在に操れるようになるはずなので、ドスくんは特異点によって神人を異能生命体のようなものとして自由に使役できるようになったのかも。ドスくんの操り人形ならぬ操り神、みたいな。…えらいこっちゃなあ。
神を前にして人間に一体なにができるというのですかね。
福沢さんが一生懸命に文ちゃんを庇って守ろうとしているの、本当に胸が苦しいよ。だって聖剣をブラムから抜いたの文ちゃんだし、せっかく自分の頑張りで悪役を倒して平和を取り戻せたと思ってたのに、これまでの自分の行いが悪へ荷担する行為だったと知って、さらにはブラムが急にいなくなったのもきっとものすごくショックで、もう…福沢さん…抱きしめてあげてくれてよかった…その優しさと温かさがきっと文ちゃんの支えになる…
福沢さんが福地さんのもとに走らずに文ちゃんのもとに走ったの色々な意味でほんと沁みる…
福地さんもそういう福沢さんだからこそ託したかったっていうのきっとあるのかも。福沢の優しさを信じ、燁子の強さを信じ…そういう人の心の良きところを尻目に邪悪なひとりの男の手がいろいろなものをズタズタに引き裂いていくのひどい~~~
■偽りの神とともに
ドスくんはこれから一体なにをしようとしているのでしょうね。ということで一旦状況整理していきましょう。
とりあえず双黒をムルソーに置いてきたのはめちゃファインプレイで、このふたりがいなきゃ横浜は攻略しやすい。
天人五衰のメンバーもほぼ全員消え去り、ここからはドスくんの単独プレイの世界に入りそう。
福沢は福地から託された白紙の頁を持っているはず。
国連は安保理決議241号を採択して人類軍を公式に認め、手元には福沢と福地の声だけを聞く大指令の無線機がある。
とてもシンプルに考えれば、ドスくんは福地の計画のとおり白紙の裏頁を使って世界をひとつの国家にし、その頂点に人類軍総帥を置いて独裁体制を作りたい、総帥に神人を置いて、新たなる神による統治を為したい。現実的な考察だとこんな感じになりますでしょうか。
その過程で、異能者を神人&人類軍のタッグによって全員処分していき、異能者のいない平和な世界を実現する。
だけどそうなるとどうして白紙の本が必要になるのかが気になるところ。今のまま、裏頁だけあれば独裁体制は整えることができるはず。
白紙の文学書にしか「異能そのもの」は本当の意味で消去することができないのかな。新しい異能者は新たな人の誕生の中でまた生まれてきてしまうから、とか。異能力がなくなれば、なにかの制限が取り払われたり、それこそ欲望が実現したりするという可能性も。
虎に変身する悲劇は詩をこれ以上書けなくなってしまう悲劇なので、異能をなくして「虎への変身を解く=再び詩を書くことができる」というところがドスくんの目的地なのかな?
といっても、白紙の文学書はドスくんならもっと近道ルートで手に入れられそうな気もするし、なぜこんな大げさなことを…
と考えると、やっぱり敦くんとやつがれの二人が生み出す特異点にこそ実はドスくんの狙いがあって、そこに白紙の文学書への道標がある、あるいは白虎そのものが敦くんの意識のもとで完全顕現することが実は鍵でありフル虎を引き出すために大げさな戦いを仕掛けているとか、そういう可能性もありそうね。
この辺の真相はシグマくんがこれから紐解いていってくれるのかな~。
双黒のふたりは、このあと欧州警察に捕まってアダムと再会コースか、ふたりで白瀬くんに会いにいくランデヴーでもしといたらよろしいのではないかなと個人的には思っております。もうその辺ぷらぷらするくらいしかできることなさそう。
それともシグマを担いでマフィアのヘリで横浜に帰ってくるのかな…それだとちょっと普通すぎるよな…と妙な下心で期待してしまっている自分がいます。
言いたいことは大体言ったかな。最近本誌の最後の煽り、絶句してることが多くて「——。」みたいなの多すぎるの面白い。
あと今月のヤンエ表紙、来月25巻表紙、来月本誌のカラーページと盛りだくさんで35先生が大変な思いをされているのではないかと相互さんとも話しておりましたので、今月は35先生をいたわる月間にしていきたいと思います。
ということで、ぐいぐい話が大胆に進んでいってどこまでも予測不可能で、文ストのすごさを改めて実感した本誌でした。ここにきてのこのスピード感がめちゃかっこよかった。とりあえずブラちゃん早く返してほしい。
<追記>
ひとつ訂正をさせてください。
白紙の頁はいま誰の手元にあるのかはっきりわかってなかったですね。福沢は持ってなくて、福地が持ったままになってるかもしれないし誰かに預けているかもしれない...
24.05.09追記
ドスくんの異能がついに明らかになり、特大の衝撃がストクラの間を走り抜けましたね~。
さて、ドスくんの異能力は「罪と罰」なわけですけども、今回の異能がどういうところで「罪と罰」なのか、ちょっとだけ書いておきます。
「罪と罰」というときそこにはおそらく二種類の意味がある。
ひとつは犯罪行為に対する刑事罰という意味での罪と罰。罪というのは英語にすると色々な訳し方ができますが、犯罪行為という意味での罪は"Crime" であり、それに対する罰は懲罰という意味の"Punishment"になります。
ドスくんの異能として明らかになったものは、Crime and Punishmentという意味での異能力でした。自分のことを殺意を持って殺そうとした人に対して死を与えるというのは、殺人行為に対する死刑であるという捉え方ができるかなと思います。
ドストエフスキーの『罪と罰』も英題にすると"Crime and Punishment"ですし、書かれている中身も殺人に対する罰や良心の呵責に関することなので、作中で言われる「罪」というのは犯罪行為としての罪の意味合いを持っている。ドスくんの異能力は『罪と罰』という原作に対して忠実な異能力だったなと感じます。
一方で、罪と罰にはもうひとつの意味合いがある。
それが、原罪とそれに対する裁きとしての終末の最後の審判。ドスくんの語る台詞や彼の目的からはこっちの「罪と罰」の匂いがぷんぷん漂います。
ひとりの人間の犯罪という小さな視点ではなく、人間そのものの始まりと終わりに関する罪と罰。
ドスくんの異能に表れているように、彼が罪に対して罰を与えようとする性質を本質的に持っているのだとすれば、目的のほうにもやはり原罪に対する罰としての最後の審判を自分の手で下したいという欲望を持っているのかもしれないですね。
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