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太宰と孤独と救済と(お題箱から)

※この記事は文豪ストレイドッグスの考察です。
※お題箱に頂いたお題への返信です。

頂いたお題はこちら:

太宰治が仲間に対してどの様な感情を抱きどう思っているのか気になりました。是非ものあし様の見解をお聞きしたくお題箱に質問をさせて頂きました。
太宰さんが15才の時は悟り開きまくりというか凄い人間とは程遠い何かでしたよね。
ですがそんな太宰さんも織田作の死をきっかけにようやく人間らしくなってきたとは思います。
ですがやはり織田作には誰も敵わないのでしょうか。敵わないというより本音で喋れる相手(ドス君の様な)が居ても理解者とはまた別物です。

探偵社の誰かが窮地に陥った時は体を張って助けてくれます。大事にもしているですがやはり今まで自分が異端な事を理由に自ら孤独を選んできた太宰さんも、織田作の様な理解者が居ないと、気づけば知らない内に消えてそうな危うさがあると思います。
太宰さんが探偵社の仲間を大事にしているのは見ていればよく分かるのですが織田作の様な存在に誰かがなってあげないと太宰さんが生き続ける事はないと思っています。
敦くんや国木田さん、乱歩さんの事に対してどの様な感情を抱いているのかふと気になって。
もちろん社の皆の事は大切にしているでしょうが、やはり心の奥底には理解して貰えないと言う孤独感もあるでしょうし、、
太宰治を理解できたつもりでもたまに本当に分からない、未知の生物を見ている様な感じがします。それに何だか敦くんと太宰さんを見ていると年は近いし似ても似つかないのに親子を彷彿とさせるんですよね。
でもやっぱり太宰さんって意味の無い人生を必死に生きる人間を心の何処かで軽蔑?とまではいかずともやはり理解できない、そう思っているんじゃないかと。
仮にその様な生き方があるのか。と知れたとしても自分はそうじゃない。=孤独。やはり太宰治の根幹は誰にも理解されない孤独感があるのでしょうか。
でも国木田さんの事は真面目で誠実。理想を掲げる人間で太宰治とは真逆な気がするのに大事にしている風に思います。
それは中也さんも同じで映画の時もああ、相棒なんだなって感じがしました。太宰治を理解出来ない人間でも太宰さんは情も沸くし大切にするのか。と、当たり前な気がするのにとても不思議な感じがしました。

関係無い事結構喋ったかもしれません。ですがやはりこう言う考えは誰かの見解を聞いたり同感して貰って意味があると思い質問させて頂きました。太宰さんが死ぬとすれば横浜や探偵社に平和が戻ってきた時ですかね、、何時も見てます。


お題主様ありがとうございます。とても心に滲み入ってきたお題でした。

キャラクターの見え方って、人それぞれが個人的に抱えている問題や願望が投射されているのではないかなと思います。
なので私が回答を書いたところで、それは「私の中の太宰」がどう思っているかという視点での回答でしかないのですが、そうは言いながらも「あ、なんかちょっと共感できるかも」という温もりは色んな人と共有し合えたほうがいいのはお題主様のおっしゃるとおりで、孤独について考えてしまいがちな人ほど、そういう共感は大きな意味を持つと思うので、自分の中にある全部をさらけ出す気持ちで書いてみますね。

人を殺す側になろうと、人を救う側になろうと、お前の頭脳の予測を超えるものは現れない。お前の孤独を埋めるものはこの世のどこにもない。お前は永遠に闇の中をさまよう。

文豪ストレイドッグス 黒の時代

まるで呪いのような言葉ですが、これが太宰さんの今も変わらない真実なのではないかなと。
人を救う側になろうと太宰が闇の中をさまよい続けることには変わりない。もともと孤独だった太宰が、織田作という心の中枢に近い理解者を失えば、より一層深い孤独に埋もれてしまう。
そのことを親友の死の間際に太宰自身も直感し、そして親友からもそう予言されたのではないでしょうか。

人を救うことでたしかに幾分か素敵な人生にはなるけど、人を救うことで太宰の孤独や苦しみは癒えるのかと言われれば、そこはイコールではないような気がします。
今でも生きることは無意味なことに変わり無いけど、それでも生き続けるのは織田作から託されたものがあるから。

太宰さんにとっての居場所は今でもルパンただひとつで、探偵社にいる今だって、織田作との記憶に縛られながら生きている。織田作に言われたから人を救うし、織田作に言われたから佳い人間をしている。
そうしている間だけ、太宰は自分の居場所に戻れるのかもしれないなと感じます。
居場所が忘却に連れ去られて消えてしまわないように、自分の中で繰り返し繰り返し反芻して再生産することでしか癒されなくて、過去にある居場所を無理にでも今に引っ張り出してきて、そうして過去にしがみついて生きているような感じ。

太宰さんって他者との心理的な距離が結構遠いと思いませんか?目に見えない2メートルの壁越しに人と接している、みたいな。
織田作とはべたっと1センチの距離で喋るけど。
なんとなくですが、織田作以外の人と接するときは、客観的な自己の姿を意識して接していると思います。「自分がこれを言ったらどうなるのか」ということを逆算してふるまいを決めているような感じで、要求されている姿を演じている気がする。相手の目にどう映ってるのかを意識することはあれど、自分が相手に対してどんな感情を抱いているかについては結構無頓着だったりするのかも。中也や国木田に対しても、こう接したらこういう面白い展開になるから...と計算して振る舞いを決めているように見えます。なので、太宰の言動は"相手を転がすための作り物"が基本なのかなあと。

でも織田作にはなりふり構わず好き放題に喋る感じがしますよね。
織田作は太宰のそういう性質をきっと理解していて、逆算してなにを企んでいるのかをすぐに見破っちゃうし、道化や演技であることを知ってるから全然騙されないので、織田作には勝てないし取り繕っても無駄だって思えてそれが安らげる理由になってるのかも。
他者本位の自己像しか築けない太宰が唯一、自己本位の自我をそのまま見せるしかないって諦めている相手。そのことが結果的に太宰の本心を開かせているのかも。心を素のままにさらけ出せる心地良さや、何もかも理解して受け入れてもらえるんだっていう嬉しさがきっとある。

太宰が中也や探偵社員のことを信頼していたり大切にしていたりするのは間違いないと思うんですけど、信頼と理解というのはやっぱりちょっと違う感じがしますよね。
特に太宰みたいに、他者に求められていることを無意識に察知して、自分の言動が人にどう影響を及ぼすか先取りしてわかっちゃう人は、役割や要求に埋もれて本当の自分が埋没しがちだし、そうやってだんだんと自分自身が薄れて消えていってしまいそうになるのかも。だから何も考えなくていい、自分のままでいいって思える場所って本当にかけがえのない場所なんじゃないかなと感じます。

織田作というロウソクのような光が太宰の中から消えてしまったら、もう二度とその心に光が点ることはない、そんな危うさはやっぱりあると思います。その光は、他の誰にも点せないです、きっと。これは理由とか理屈とかなしに、ただそう感じるっていうだけだけど。
きっとふたりだけの(他のだれにも感じ得ないような)心の交感があって、無意味な人生の中で、太宰が唯一見つけた、人生の無意味さを忘れられる場所だったのだろうなあと。

こんな感じで、私もお題主様とたぶん同じように太宰の孤独と苦悩を捉えてるかなと思いますので、お題主様の書いて下さったことにはとても共感しました。

なかなかない機会なので、思い切って自分のべちゃべちゃな本音を吐露するとですね…
太宰さんには完全には救われてほしくない。ずっと苦悩を抱えたままでいてほしいんです。孤独のまま、織田作だけを頼りにして生きてほしい。探偵社を自分の居場所だとどうしても思い切ることができないまま探偵社員やっててほしい。鏡花ちゃんの歓迎会も船上パーティーも、輪の中にはやっぱり入らないで、どこかで距離を置いてるような太宰さんであり続けてほしい。人との交友を素直に喜べないような、どこかで無意味さにずっと傷つけられているような、そんな人でいてほしい。

私は太宰に自分の苦悩を全部まるっと背負わせて肩代わりしてもらってるから…ぐちゃぐちゃなものなすり付けて自分の荷物を軽くしてもらってるから、だから太宰が救われたら置いていかれちゃうんですよ。
私はまだこんなに苦しいのに、あなたはどうしてもう平気なの?ってちょっとなる。

なので願わくば、太宰には「それでも」の人であり続けてほしいなあと。
最近私文ストのこと「"それでも"の物語」と勝手に命名しているんですけどね。過去は辛い、人生は無意味だ、人間は残酷だ、だけどそれでも…。そう言って歩き続けるのが文ストだよなあと。なんかそんな感じしません??
だから太宰だって今も昔も変わらず、人生は無意味で本当は善悪なんてどうでもよくて自分の孤独を癒せる人なんていなくて、だけどそれでも生きていく、っていう気持ちで生きててほしい。苦悩を抱えたまま生きててほしいなあと思ってしまってます。

苦悩といえば文学なわけですけど、今でも愛読される文学作品ってだいたい主人公が特有の苦悩を抱えているじゃないですか。そしてその苦悩を抱えたまま救われもせずに人生の幕を下ろしていくことが多いような気がして。

誰にも言えなかった、理解してもらえないと思っていた自分の苦しみを登場人物が拾い上げてくれて、そうして「これは私だ!」とか「これは私の物語だ!」って感じさせることが文学の強さだと私は感じてるんだけど、そうやって自分の代弁者となった人物が、次第に変わっていって自分の苦悩を代弁しなくなるよりは、苦しみに苦しみ抜いて、その苦しみから抜け出せないまま無様に死んでいくほうがなぜか読者の救済になってる感じがする。

自分が抱えている苦悩が最終的にどこに行きつくのかを知ることによるぞくぞく感だったり、自分の分身とも言える人が自分の代わりに破滅することで疑似的に破壊衝動が満たされていったり、あるいは分身に対する憐れみの感情によって間接的な自己憐憫が許されたり、色々な理由はあると思いますけど、分身が代わりに苦しみ抜くことでなにかの深い欲求が達成されたりするのかもしれないなと思います。
キャラが自分の身代わりになる姿って、人々の代わりに十字架を背負って罪を肩代わりした救世主のような感じもして、人ってそういうのに救われる性質があるのかもなあ、とか。

普通の漫画にはこういう文学的要素とくに期待しないですけど、文ストは人の苦悩を拾い上げるのが上手な作品だし文豪だしカフカ先生も生きるの苦手な人向けって言ってたし…っていうところから、ある程度は苦悩し続けてほしいという身勝手な期待がちょっとあったりします。

ということで今の太宰さんに関する私なりの総論としては、苦しみも孤独も以前から全く変わらないけど、織田作との記憶をぎゅっと握りしめることによって「それでも」の能力を獲得している状態、かな?「それでも」がある限り、きっと太宰は生きていける。もう考察というより願望ですね。

色々個人的な太宰さん観を書きましたけど、キャラを完全に客観的に捉えるなんて結局のところやっぱ無理じゃん?って思うので、多様な人の多様な解釈を聞きながら、同感なところ、違うなと感じるところをそれぞれ見つけつつ、みんなが個々に持っている色とりどりの価値観を認め合って大切にしていけたらいいなあと思ってます。

とても素敵なお題を頂きありがとうございました!

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