ドスくんはどれほど「正しい」のか?自由と群衆の心理から考える
※この記事は文豪ストレイドッグスの考察です。
※本誌120.5話までのネタバレがあります。単行本派の方は閲覧ご注意ください。
私にしか需要のない話を徹底的に語り尽くす会!いざ始めます!
ドスくんは大衆を煽れば、人々は団結してよいさほいさと異能者相手に争いを始めるだろうという公算を立てています。
皆さまはその公算を「妥当だ」と考えますか?それとも「甘い」と考えますか?
なかにはこんな見込みをたてている人もいるのではないでしょうか。きっと賢明な人たちが「異能者は悪魔じゃない」って声を上げて計画を阻止してくれるだろう、大衆はその声に耳を傾け遅かれ早かれ目を覚ますだろう、と。
この記事はそんな人間の「善性」を信じている心優しい人たちを絶望へと突き落とす一本になりそうです。どうぞ覚悟してお読みください。
主なテーマは「群衆の持つ愚かで凶暴な性質」と「自由を恐れる心理」、それから「ドスくんの計画のナチズムとの関連性(ひいては史実のドストエフスキーとの関連性)」になります。
怖い話だけど、これからの時代を生きるためにはちゃんと知っておいたほうがいい話でもあります。
■人々は本当に異能力者に対して敵意を持つようになるのか
この問いに対する答えは間違いなく「Yes」だと考えています。なぜなら人が「個人」でいるときに持っている良識や知恵は、「群衆」と化した途端に消え失せることがわかっているからです。
ドストエフスキーは吸血種への恐怖心を利用して人々に「異能力者を駆逐するべきだ」と思わせようとしています。そして人々の内側から湧き出た素直な感情、つまり恐怖心や憎しみを原動力として、人々を団結させようとしています。
そのとき、群衆の心の中では一体なにが起きるのでしょう。
まず、人々は同じ危機を共有することで共同体感覚が形成されます。共同体は特定の危険から身を守るために持てる総力を結集して戦うことを誓い、一致団結します。共同体の中の人々は「個」であることよりも「集団の一員」であることに価値を感じ、自分の存在意義を集団の中に見出します。
このとき不思議なことに、人の心の中には「安心感」が芽生えています。自分はみんなと一緒なのだという安心感です。
それと同時に「集団の力=自分の力」という錯覚が生まれ「万能感」までもが芽生えます。
そうして共同体のために、己のすべてを——命さえをも捧げてしまうような英雄的行為に人々は邁進していくことになります。
この話を具体化していくために、ルボンの『群衆心理』を参照しましょう。『群衆心理』が書かれたのは1895年、ドストエフスキー後、ナチズム前です。ヒトラーも『群衆心理』を愛読していたと言われています。闇に咲く名著です。
社会心理学者のルボンはフランス革命を引き起こした主体が群衆であることに着目し、群衆がどのような特質を持ち、どのようにして秩序を破壊していくのか、群衆を動かすものは何なのかということを研究しました。その内容が『群衆心理』にはまとめられていて、SNSが盛り上がりポピュリズムが台頭する現代においてその重要性が増し、昨今再び注目されている一冊でもあります。
そもそも群衆とはなにか。群衆とは人々が集まって集団を形成した状態をいいます。たった数人の個人が集まるだけで群衆を形成することができます。そして人間は集団となった途端に、個人であったときとはまったく異なる性質を新たに持ち始める、というのです。
群衆と化した人間は、あらゆる暗示に従い、理性の力にたよることができず無意識的に行動し、感情に活気づけられ、凶暴な本能に従う一個の自動人形と化す、とルボンは言います。
そんなバカな…と思う人もいるかもしません。集団の一員になったからといってそんな簡単に野蛮になるほど人間は落ちぶれちゃいないわ!と。
しかしTwitterランドの住民なら、嫌というほどその光景を見ているのではないでしょうか。
ひとたび特定の誰かがやり玉にあげられたら(ひとりでなら絶対に叩きにいかないような相手でも)みんなでせっせと批判しにいく光景を。
あまりにも日常茶飯事すぎてもはや意識すらしていないかもしれませんが、群衆心理はそれほど身近なところで日々機能しています。
群衆となることで人々が凶暴化するのには明確な理由があるそうです。それは「罪をまぬがれるだろう」という安心感。加えて、集団であることによって自らもが強大な力を持っているように感じられる錯覚。これらによって、個人ではあり得ないと思われるような感情や行為が、集団でなら可能になってしまうと言います。
ルボンが言う「原始時代の遺物」というのは何なのでしょうか。人間心理を考える上で「破壊本能」という概念はどうしても避けては通れません。
フロイトはこれを性的欲動と結びつけて「死の欲動」と呼び、人間の根源的な欲求であると定義しました。死の欲動、すなわち破壊衝動は外側に向くこともあれば、内側に向くこともあります。外側に向いた結果に生まれるものが虐殺や戦争などの争いであり、内側に向いた場合の結果が自殺だと考えられます。
もうひとりの心理学者ユングはシャドウという概念を作りました。シャドウはペルソナによって押し込められた自己の認めたくない部分の集積のことを指します。
我々は普段「自分を演じること」を要求されていて、その仮面のことをペルソナと呼びます。しかし「演じる」ことの裏側には、外に放出できなかった「もうひとつの本当の自分」があります。
多くの場合、内側に押し込められるものは社会的に否定されているものや自分がよくないと思っているものであり、そのようにして内側に抑圧された醜いものは時として歪んだ衝動的な行為に結びついていくと言われています。
人の中にある破壊衝動は、獣の時代の名残として、簡単には消し去ることができない程度にしぶとく居座っていると心理学者たちは分析しています。
現代の我々はそのような破壊衝動を、暴力的なコンテンツやゲームなどを通じて疑似的に発散することで解消していますが、ひとたび「凶暴化しても咎められない」、つまり破壊しても構わないという状況に置かれれば、容易くその欲求を外界へと放出してしまいかねません。凶暴化を許す代表的なものが群衆化なのです。
これらを考慮すれば「異能者は悪魔だ、皆殺しにしてもいい」という許可を貰った群衆が取りそうな行動も想像がつくのではないでしょうか。
日頃からの我慢、忍耐、偽善、屈辱、そういった抑圧を(一時的にでも)開放できるうってつけのチャンスでもあるのです。
たとえ不満の原因が本当は異能者でなかったとしても、人間は不満の原因を簡単にすり替えることができます。
「異能者がいるから僕たちは不幸なんだ」「彼らを殲滅すれば世界は一歩より良い方に進むんだ」と新たな理論をでっちあげ、異能力者叩きを正当化し始めるでしょう。
そんなときに、群衆にとって好都合な内容の演説を行う指導者が現れれば、群衆という大火に油は注がれ炎はかつてないほどに大きく燃え上がるものです。
このような群衆の心理は、フランス革命で見られた王政叩きの心理であり、ナチズムで見られたユダヤ人叩きの心理であり、固く目を閉ざしたところで消し去ることのできない人間の醜い本性なのでしょう。
群衆は理性を失い、感情によって煽動されやすいという特性も持ち合わせているとルボンは分析しました。
従って、たとえ破壊衝動をそれほど持っていない人間であったとしても、家族などが脅かされることへの恐怖心を煽られれば「守らなければいけない」という正義感から英雄的行動へと駆り立てられていくことになりかねません。それは自己犠牲をも厭わないような行動になるはずです。
ドストエフスキーの戦略は、人間心理を見透かした、まったくもって隙の無い戦略であるといえます。
さて、このような恐ろしい群衆心理ですが、文ストの中では既に描かれています。
天空カジノでシグマが客を煽動したシーンを覚えていますでしょうか。報酬をあげるから猟犬を襲えとシグマが客に許可を出したシーンです。
シグマはあのとき非常に凡人らしい戦いをしました。非凡人を手札として持っていないシグマは、凡人である客たちを束にして群衆にすることで「群衆というひとつの非凡な存在」に仕立て上げようとしたわけです。そして罪には問われないことをわざわざ強調しています。そのような状況に置かれた群衆というのは間違いなく脅威と化するのです。
ドストエフスキーはそのことをよく理解していて「この世で最も恐ろしいのは必死になった凡人なのですから」という台詞を言います。そして彼は「必死になった凡人」を今度は自らの作戦で利用しようとしている。
ドストエフスキーのような人間にとっては群衆は個人と変わらず、煽動しやすく操りやすく言うことを聞かせやすい相手であると思われます。
なぜなら群衆は個が結集したものでありながら「複数の個の精神」で成り立っているわけではなく「ひとつの集団精神」をもとにうごめく性質を持っているからです。
この記事では群衆心理のほんの一部だけを紹介することしかできなかったので、興味のある方はぜひ『群衆心理』読んでみてくださいね!「なんで人間ってこうなの?」という疑問に対して色々な方面から解を与えてくれます。
■自由に耐えられない人間
フランス革命では群衆が自由を求めて戦いました。しかしナチズムでは群衆は服従に向いました。群衆が求めているのは自由か服従か、一体どちらなのでしょう。そもそもかつて命を賭して獲得したはずの「自由」を人々はなぜみすみす投げ捨ててしまうことができたのでしょう。
その理由を根源的な部分から考察している本があります。心理学者のフロムが書いた『自由からの逃走』です。
フロムの答えは非常にシンプルです。
群衆が求めているのは自由でも服従でもなく、単に「自由から逃走すること」である。孤独の恐怖感から逃れるために、己の自由など人間は簡単に投げ捨てるのだ、とフロムは言います。
自由はよく美徳として語られます。己のあるがままに素のままに生きられることは一見素晴らしいことのように見えます。しかしいざ自由の只中に置かれると、そこがとてつもなく孤独な場所であることに人間は気付きます。
自分は無価値で無力な存在なのかもしれないという脅迫めいた観念に蝕まれ、孤独の恐ろしさに耐えかねた人間は所属する場所を求め始めます。国家、宗教、会社、家庭、どんなありきたりなものでもいいから、他の人と同じ何かを共有しているのだという実感を持ちたいと欲望します。
人間には孤独から避難するための場所が必要なのです。それをシグマはずっと追い求めています。
所属する場所を求める以外にも、人間が自由と孤独から逃走する方法はいくつかあるようです。フロムが挙げたものを見てみましょう。
①権威主義
自我を捨てて、外側にある何かと自分自身を融合させようとする。外部にある力強い全体の一部となって、自らの人生の意味や責任を服従する相手(国家・神・個人など)に明け渡す。外部と一体化する感覚によって無力感を和らげる。
②破壊性
外界に対する無力感を、外界を破壊することで解消しようとする。個人の中にある不安や孤独感、無力感はその人の破壊衝動を助長する。
③機械的画一性
他のすべての人々とまったく同じような人間になりきってしまう。自己を捨て、周囲の何百万という自動人形と同一化する。自己と外界の矛盾が消え去り、孤独や無力を恐れる意識も消える。
力強い集団の一部になったり、何かを攻撃することで優位に立とうとしたり、周りに完全に溶け込む努力をしたり、どれもが身近なものであり、どれもが思い当たる節のある心理傾向ではないでしょうか。そしてこれらの行動傾向は、群衆の特性と驚くほどよく似ています。
人々は、自由であるが故に孤独であり、孤独であるが故に、一時的な一体感を求めるのです。その結果、短絡的な集団的破壊行動をしたり、服従へと向かってしまう。
つまり、ドストエフスキーが120.5話で垣間見た「孤独なスクランブル交差点」の風景は、人々を感情的に結びつけるために必要な土台であり前提条件ですらあり得るわけです。ドストエフスキーの戦略は、人々が孤独だからこそ、成り立っている戦略なのだとも言えるかもしれません。
■ヒトラーとドストエフスキー
さて、人間心理のほうに話を膨らませてきましたが、最後に少しだけ毛色の違う話を。
まずはこちらをご覧ください。
ナチスのアドルフ・ヒトラーについて描かれた漫画なのですが、このヒトラーの演説がドストエフスキーの計画とよく似ていることをおわかりいただけますでしょうか。
ドストエフスキーの計画はナチズムとの関連性を無視できません。
「平和な千年帝国を築く」「異能力者が人々を脅かす限り、我々に幸福が訪れることはない」というのがドストエフスキーの主張ですが、ユダヤ人が異能力者に置き換わっている以外に大きな違いはありません。
異能力者は悪であるという主張はたとえ正しくないにせよ、人々の感情を掻き立て、服従へと向かわせるのには非常に役立つ道具です。その効力はヒトラーが既に証明しており、群衆心理から考えても、世界や大衆はドストエフスキーの狙い通りに動くだろうと思われます。
ナチスで宣伝大臣を務めプロパガンダを管轄していたゲッベルスは、史実のドストエフスキーから思想的な影響を強く受けていると言われています。
ドストエフスキーは群衆の心理や、人々が心細さ故に服従を求めてしまう心理を、非常によく理解していました。そして『カラマーゾフの兄弟』の大審問官でこう記しています。
群衆が自由から逃れようとする性質を見抜き、ナチズムの台頭までもを予感させるような鋭い演説を描き出したドストエフスキー。人間心理を徹底的に見透かした悪魔的な恐ろしさは文豪ストレイドッグスのドストエフスキーに引き継がれ、我々にもう一度醜い真実を突き付けています。
この抗いがたい、否定することのできない真実に我々は、あるいは登場人物たちはどのように向き合っていくのでしょうか。
我々読者はいわば非異能力者側に属しており、群衆化する人々というのは私たち自身にも置き換えられます。我々読者は群衆の中でも、異能力者が決して悪ではないということを知っている側の人間です。そのとき、自分には何ができるのか。群衆の感情的なうねりに抗う方法はあるのか。ドストエフスキーの一連の主張や演説に対する反論をどう導き出すか。
今の世界を見渡してみても、これらの問いを見つめる重要性は日に日に増していると感じます。私自身も答えを探しながら、今後の物語の展開を楽しみにしていこうと思います。
私にしか需要がない考察、好きなだけ書けてとても満足!
お読み頂きありがとうございました。