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不可解な織田作一人称(お題箱から)

※この記事は文豪ストレイドッグスの考察です。
※お題箱に頂いたお題への返信です。

頂いたお題はこちら:
織田作の一人称についてです。
(銀幕BEAST、小説版黒の時代未履修)

拾った日sideAの、太宰が一人称を変えたくだりを読んでふと気になりました。
私たちは織田作が地の文では私、口頭では俺だと知っているけど、他人がそれを知る機会ってあったっけ?
手持ちの小説BEASTと拾った日ABから、織田作の一人称に注目して集計しました。

織田作会話文「私」登場回数
BEAST…0回
sideA…1回
sideB…3回
(設立秘話、黒の時代未確認)

「私」になる場面として共通点と言えそうなのは「ポートマフィア」です。
Aの1回、Bの2回はどちらも、その話の中で織田作が初めてポートマフィアという単語を耳にした直後の変化でした(Aの太宰からすると俺と言ったり私と言ったり定まらない奴だという印象になったかも?)。
Bの3回目は盗聴器越しに太宰と話している時ですが、一度「私」になった後は「俺」に戻っていました。

日常で咄嗟に出る一人称は俺だと思ってるので、緊張や慎重がそうさせたのかなと感じてます。小説家脳っぽい地の文が私ですし。

でもちょっと意外にも感じました。それだけポートマフィアが悪名高いということで、それと荒事?ポートマフィア?に慣れた頃の織田作(BEAST、黒の時代(アニメ))しか知らなかったから尚更そう感じているのかもしれませんが、あっ今更?感があります。警戒?慎重?で口に出る感じの立ち位置なんだ「私」って…、首領の前ですら俺だった気がするけど…。
Bの2回はポートマフィア本人相手でさえなく名前が出ただけで起きた変化です。そ、そんなに…?
この変化は緊張由来だと現時点では考えていますが、緊張だとしてこんな形でこんなにも顕著に現れるとは思ってなくて驚いてます。

他に織田作が「私」になりそうな場面ってどういう時だと思いますか?ポートマフィアと同じかそれ以上の脅威相手なら見られるのでしょうか?


興味深い織田作一人称の謎…!なかなかにマニアックなお題でした(笑)
太宰の一人称が「私」になったのは織田作の影響だと言われてますが、織田作が口にする一人称はいつも「俺」なので、一体どこで「私」を拾ってきたんだ?という調査はとても有意義だと思います。

この考察では、話が複雑になるのを避けるために小説の情報だけを参照していきたいと思います。
なぜってね…黒の時代で織田が首領の前で喋ってるところ、アニメでは「俺」なのに小説では「私」なんですよね…アニメと小説でなぜ違う…!!という疑問を持ち始めると収拾つかなくなりますので、今回は小説の情報だけに統一して検証します。

<黒の時代>
織田作の一人称が「私」になっているシーンは2つありました。
ひとつが首領の前で喋るシーン。

はたった今此処に来ました。首領には幼女を脱がせて追い回しているのを中断し、の対応をして頂きました。有り難うございます。

文豪ストレイドッグス 黒の時代(小説)

もうひとつが、ジイドとの特異点の中で喋っているシーンです。

あいつはあまりに頭の切れる、ただの子供だ。暗闇の中で、私達が見ている世界よりもはるかに何もない虚無の世界でひとり取り残され、ただ泣いている子供だ

文豪ストレイドッグス 黒の時代(小説)

ジイドとの特異点に入って二人がお互いのすべてを知り尽くしたあとに、織田作は「私達」という言葉を使っています。特異点の中だからいうこともあって、地の文のまま、心の声のままに喋っていることが理由かなと考えられるでしょうか。

<太宰を拾った日 Side-A>
お題主様がすでに検証して下さってますが、考察のためにもう少し具体的に前後の文脈を確認していきましょう。

Side-Aでは確かに1か所しかありませんでした。「僕はポートマフィアだ」という太宰の言葉のあとに「がやったのはせいぜいが緊急の処置だ」という織田作の返答があり、この1か所でしか織田作は「私」と口にしていない。この一瞬を太宰は聞き逃さなかったということになりますね。

<太宰を拾った日 Side-B>
Side-Bは回数が増えますが、こちらも確かにポートマフィア絡みのときだけ「私」になっています。

織田作が捕らえられ、警官が「あいつはポートマフィアだ」と太宰の正体を明かしたすぐ後に「だがが絵の在処を吐けば、全員助かる」と一人称が一瞬だけ変化します。しかしその後続けて「その絵はのものではない。別のある人物のものだ。命の売買代金に、が勝手に使っていい代物ではない。」と言いますので、一人称はすぐに「俺」に戻る。「私」は一瞬の反射的な出来事でした。

もう一か所も似たような感じです。
織田作が盗聴器越しに太宰に話しかけ「の家に押し入った時」と言います。このとき織田作は太宰がポートマフィアであることを知っていて、ポートマフィアとしての太宰と初めて会話する瞬間でした。しかし「私」と言ったのはやはり一瞬で、同じ会話の中で再び一人称は「俺」に戻ります。

探偵社設立秘話に織田少年の一人称は出てきませんの情報なし。

ということでここまでの傾向をまとめるとこんな感じになります。お題主様が指摘してくださっているとおりです。

ポートマフィアの話が出ると織田作の一人称は「私」に変化する。しかし変化するのは一瞬で、同じ会話の中で「私」から「俺」にただちに修正される。

なぜこんなことになるのか。私も気になります。
しかし私の考察の経験上、織田作の内心を推し量るのは無謀だと感じています。
そもそも彼は内心というようなものを持ち合わせていない。あるいは完全に秘匿されていて我々にはそれを感知する方法がない。そういうキャラクターではないかなと思います。
これまで織田作の考察を書いては失敗し書いては失敗したことから、最終的に織田作とは無我で空っぽでブラックボックスなのだから説明不可能なんだという結論に到達しました。

ですのでこの考察の結論として私が言えるのは、織田作の中で「反射的に何かが動いたらしい」ということだけ。
どういうときなら一人称が「私」になると思いますか?という問いにも情けないことにこれっぽっちも答えられないのです。

一人称が変わる理由は挙げようと思えばいくらでも挙げられます。
「心理的に距離を空けようとする警戒心」とか「無意識のうちに線引きしている」とか「少しフォーマルになっているだけだ」とか「殺し屋だった頃にポートマフィアが格上的な存在だった頃があってその名残だ」とか。
あるいは、織田作の鋭い直観力が、太宰の首領としての未来を無意識のうちに察知してしまってそれに引きずられて本人も意識しないまま目上の人と話すように「私」という言葉を使ってしまっているのかもしれない。

ですが、残念ながら自分ではどの理由も気に入らない。あれこれと説明を並べれば並べるほど、どれも織田作には似つかわしくない弁明のように感じられて、当座凌ぎの言い訳を並べてジタバタしていて無様だなと思ってしまう。どんな言葉を投げつけても織田作のまわりをただ無意味に周回するだけで、言葉が当の本人には一つも当たらない、そんな感じがしています。

それよりも、こういう風に説明したほうが自分的にはしっくりくる。
「ポートマフィアという存在が意識の表層に浮き上がってくるときに、織田作の中でからくりが一時的に変容するらしい。」と。

考察というのはとても卑小なもので、たくさんの制約と限界があります。小説が表現できるものを100としたときに、考察によってそのうちの4割くらいは論理的に体系立てて解釈したり言葉を言い換えて説明できたりしますが、残りの6割にも及ぶ広大な領域にはまったく立ち入ることができません。そのくらいとても小さくて無力な武器でしかない。
だから小説というのはやっぱりすごいのですよね。この世の中には、小説という形でしか描写できないことが沢山あるように思います。そして織田作は考察という武器では決して手の届かない、森の奥の奥のほうに住んでいるキャラクターのように感じられます。

さて、そんな織田作についてですが、私はひとつだけ秘密を知っています。私だけが知っている秘密ではないと思いますし、私よりも詳しい相互さんもいらっしゃるので決して偉くもなんともないのですが、少しお話させてください。

私が最初に織田作を知ったとき、初めに感じたことは「この男は村上春樹の作品に出てくるタイプの男だ!」でした。その感触は今でも変わらなくて、織田作の裏にいつも村上春樹が見えてしまう病はなかなか治りません。

しかし色々と調べていくうちに、厳密にいえば、織田作は村上春樹的なのではなくて、フィリップ・マーロウ的なのだ、という結論に到達しました。
以前別の記事で紹介した考察のように、織田作のモデルはレイモンドチャンドラーのロング・グッドバイにあるようです。

ロング・グッドバイの訳者あとがきで村上春樹はこんなことを書いています。

我々はフィリップ・マーロウを主人公とするいくつかの物語を読み、様々な事象についてのフィリップ・マーロウの所見のありようを知ることになる。行動の基本的様式のようなものを理解することになる。そしてマーロウの生きる姿勢に対しておそらくは共感もし、同化もすることだろう。ところがそれによって、我々が少しでもフィリップ・マーロウという人間の本質を理解できたかというと、おそらくそんなことはない。我々がそこで理解するのは、あくまでフィリップ・マーロウという「視点」による世界の切り取られ方であり、そのメカニズムの的確な動き方でしかない。それらはきわめて具象的であり触知可能なものではあるが、我々をどこにも運んでいかない。彼が本当にどういう人間なのか、我々にはほとんど知りようがない。

ロング・グッドバイ 訳者あとがき

フィリップ・マーロウに関するこの説明は、そっくりそのまま織田作に関する説明になっていると私は感じています。
私たちは織田作がどのように世界を切り取るかを知っている。切り取られた世界はわずかに織田作の色を纏いながらも、とてもなだらかに自分の中に流れ込んでくる。織田作の語りが他の人間の語りとはどこか質の異なる独特の世界を見せてくれることを知っている。
織田作がどういうときにどういう選択をするかもある程度は予想できる。その選択や思考回路は、多くの場合、無駄が削ぎ落された単調なものであり、一定の律動のもとで動いていて、ある種の頑なさがある。
だけど織田作が、場面場面でどのように「感じている」のかを私たちはほとんど知らない。安吾の裏切りをどう思ったのか、ジイドが来たことについてどう感じたのかを知らない。織田作の内心に触れることはできない。そもそも内心など存在しないのかもしれない。
おそらくフィリップ・マーロウと織田作は内面に同じ機構を有しているのではないか。
そして村上春樹はその機構の仕組みをあとがきで明かしてくれています。

自我の存在場所に、チャンドラーは「仮説」という新たな概念を持ち込んだのだ。(略)チャンドラーは自我なるものを、一種のブラックボックスとして設定したのだ。蓋を開けることができない堅固な、そしてあくまで記号的な箱として、自我はたしかにそこにある。そこにあり十全に機能している。しかしあるにはあるけれど、中身は「よくわからないもの」なのだ。その箱は、蓋を開けられることをとくに求めてはいない。

ロング・グッドバイ 訳者あとがき

自我がなく、その代わりに、記号的な箱があって、その箱が自我の役割を果たしている。自我のように見える箱は外からでは何が入っているのか知る術がない。
織田作の自我も、フィリップ・マーロウのそれと同じように、ブラックボックスのような箱として存在しているのではないか。それ故に、織田作に対して「なぜ?」と問いかけることは徒労でしかなく、なぜもなにも存在せずただそうであるからそうなのだ、というある種の淡々とした空虚さを伴った返答だけが返ってくる、そういう人物なのではないかなと感じています。

これほど長々と考察を書けたこと自体がかえって不思議ですが、織田作というキャラは、表層こそ捉えどころがあれど、実質的には何もつかみどころがない、本当にそこに人間の息吹があるのかさえわからないような感覚にさせるところがありますよね。人間らしいなにかというより、小説的ななにかである、と言えるのかもしれません。

ということで、織田作一人称の謎について数や傾向の分析はできましたけれども、それ以上のことは何も言えない…という役立たずな回答となってしまいました。
織田作の秘密についてもっと詳しく知りたい方は、ぜひロンググッドバイを手に取って、訳者あとがきを読んでみてほしいなと思います。

おもしろい切り口のお題を頂きありがとうございました!


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