BEAST太宰にとっての織田作とは(お題箱から)
※この記事は文豪ストレイドッグスの考察です。
※お題箱に頂いたお題への返信です。
頂いたお題はこちら:
初めまして!ものあしさんの考察を見て、最近疑問に思ったことを是非お聞きしてみたいと思い書いた次第です。
BEASTの太宰についてなのですが、BEASTの織田への気持ち?認識?を疑問に思いました。
一個人の解釈となりますが、私はBEAST太宰はBEAST織田を織田作と重ねているのではと考えていました。でもBEASTではLupinで織田作ならば絶対に言われないことを言われました。その時点で太宰にとって彼は織田作と言えるのか、そう疑問に思った訳です。
結果として、その後しっかり織田作と呼び、さようならを言いました。ですがやはり何かが腑に落ちず太宰の織田への認識が気になる次第でございます。
一年前のものあしさんの「BEAST太宰について」の考察の中で「親友のための死は最上級の死という位置付け」を読み、とても納得しました。だからこそLupinで拒絶とも取れるような発言をした織田は太宰にとって親友である織田作と言えるのか?と。
上手くまとめられず、拙く纏まりのない文になってしまいましたがこれについて、ものあしさんの考察を読んでみたいと思ったのでお送りさせていただきます。
全てを読めているわけではないので既に似たようなものの考察をしていたのならば無視して頂いて構いません。情報不足で申し訳ないです。
どうか何卒お願い致します。
お題主様、ありがとうございます!過去の考察のことなど、全然気にしなくて大丈夫です!
目次ページみると、あまりの記事の多さにそれだけで吐き気を催してしまうのは私だけじゃなく皆さまも同じだと思います…考察という名の罪を積み重ね続けてきただけですので忘れてもらったほうがいっそありがたい。
私自身、普段あんまり過去の考察を読み返さないので、昔の記事で何書いたか全然覚えてなくて、今回取り上げて頂いた「BEAST太宰について(お題箱から)」もおそるおそる開いて、さぶいぼを立てながら読み返しました…こんなこと書いてたんですね...恥ずかしい...
「BEAST太宰について」で書いた太宰さん像は、自分がこしらえたものの中でも特にナルシシズムが際立っている太宰さん像だと思います。BEASTの物語のすべての要素を「自分の死を演出するための舞台装置」として利用している太宰ですので。織田作織田作と言ってるけど本当のところは自分しか眼中にない、自分のことが世界で一番かわいい太宰さん像になってると思います。
BEASTの太宰さんはつかみどころがあんまりないので、考察を書くたびに新たな太宰さん像が立ち上がってしまって統一性がないんですけど、切り口を変えると浮かび上がってくるものが変わるというのは物語の考察の一番おもしろい部分だと思うので、解釈が固まらず、繰り返し色んな角度から切って遊んで楽しめるという意味では、とても良キャラだなと感じています。
考察を読んでくださる皆様も、自分にとって一番フィットする太宰さん像ってどれかな~と品定めしながら、合うものだけ受け取って合わないものは切り捨てて頂ければ嬉しいです。
さてさて、お題主様の問題提起に話をうつしましょう。
言われてみればね…そのとおりなんですよね…
ものすごーく冷静になって考えてみれば、別世界の別人にすぎない織田作Bのこと、なんで織田作Aと同一人物だと思っちゃってんの?って話なんですよね…
別ものと割り切るのがたぶん普通で、織田作Bに対して、織田作Aと同じくらい感情移入しちゃってる太宰Bはちょっとどうかしてる、ただ単に自分の感情に酔っているだけじゃないか…という。だからお題主様にとって自分に酔いしれている感じのする「BEAST太宰について」の太宰さん像がしっくりきたのかなと想像しています。
織田作Bに対する過剰なほどの感情も、「とっておきの一度きりの死」を完璧に演出するための舞台装置のひとつだったんだ、とそういう捉え方もできると思います。
だから織田作に小説が書ける世界を残してあげたいという一見切なる想いも、実はそういう目的のために死ぬ自分が一番かっこいいと思ってるからで、これこそ最高の死に方じゃあないか、こんな哀れで健気で純な私のために泣いてくれ、という想いがもっと奥深いところにあったりとかしちゃったりして。「最高の気分の死」を噛み締めて味わい尽くすために、Lupinでわざと感情を増幅させて酔いしれているともいえる。
自己陶酔にまみれた太宰さんがアリかナシかは読んでくださった皆さまひとりひとりに判断をお任せするとして、自己愛や自意識が過剰な太宰というのは史実の太宰治のことを考えれば自然な姿なのではないかなと個人的には思います。文学ってこういう感じの人間のヤバさを正当化してくれるところがね、いいですよね。
BEAST太宰を突き動かしたのは、現実世界の記憶を読み取ったことで流れ込んできた痛みと、そこから芽生えてしまった悔いのようなものかなと思っています。織田作を救えなかった悔しさ、マフィアに勧誘してしまった後悔。BEAST太宰の一連の計画はある種の懺悔のようなものだったのではないかと。
しかし太宰Bが救うことができるのは織田作Bだけ。本当なら織田作Aを救いたかった。でもそれはもうできない。だから、織田作Bに織田作Aを重ね合わせ、織田作Bを代わりに救う。それによって織田作Aが救われるわけではないが、結果として太宰は”自分を救う”ことに成功する。自分を苦しみから解放することに成功する。これも、他者救済の内側に自己救済があるパターンだと思います。
だから太宰にとって織田作がAかBかというのはそれほど重要ではなくて、Bの別人だとわかりきっていたとしても、それによって自分自身の贖罪を成すということが大切だったのかもしれません。
生きていく上で苦しみから逃れるためには、居場所をつくるか、あるいは死ぬかしかない。でもBEASTでは居場所をつくらないと太宰自身が決めた以上、残された道は死しかない。
居場所を持たないという決意はしたものの、現実世界の記憶を通じて居場所の尊さは理解してしまっている。その感覚もおそらく記憶と共に流れ込んでいる。そんな中で、居場所の誘惑に耐えつづけ、心を殺してきたのではないかなと思います。
だけど、心を殺し続けるための圧力が、ふと綻びを見せてしまう瞬間がきっと何度もあったのではないか。織田作の姿を見る度に、現実世界の記憶から感じてしまった言葉には表せないような感情が胸をよぎったのではないか。太宰の心はそうして何度も掻き乱されてしまいそうになったかもしれない。
そんな太宰は、死ぬ間際まで「もしかしたら…」というほんのわずかな期待を、どうしても捨てきることができなかったのかも。だからLupinでは、織田作Bが織田作Bでしかありえないことを知りながらも、まるで織田作Aに対してするかのように、"あたかも自分の居場所がそこにあるかのように"、ふるまってみたかった。太宰にとっての一世一代の賭けをした。
その結果はもちろん事前に予想できている。それなのに敢えて賭けに出たのは、自分が捨てきれなかったほんのわずかな期待がそこで確かに踏みにじられることで、自分の居場所がないという確認を、人生を終わらせるための最後の確認を、したかったのではないかなと思っています。
別人であるという最終確認が取れてなお太宰が織田作Bを織田作Aと重ね合わせたのは、そうすることで織田作Aを弔うような気持ちがあったからか、あるいは織田作Bを幸せにしてあげることで太宰Bは太宰Aの苦しみを和らげてあげたかったからか、そのあたりは私も具体的には特定できませんが、いずれにしても本編軸の自分たちを愛でる気持ちゆえだったのではないかなと感じています。
こんなのでちゃんとお答えになっているかあまり自信がありませんが、少しでも疑問がすっきりしていてくれたら嬉しいです。
ありがとうございました!
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